2008年12月31日水曜日

収奪と利益2(分業⑥´)

パソコンと魚とか豚とか羊が俺のなかで結びつきません。これはダメだと思う。パソコンで扱っているのは、例えば管理業者なら羊の頭数だから、それは羊ではない。羊の影みたいなもんです。

羊のことを分かっていて、羊の影をどうこうしてるのなら、それはとりあえず羊のことを分かってるって感じがするけど、羊のことが分かってないのに、羊の影をどうこうしてるっていうのはなんだかオカシイ。

なぜ俺は、こうして羊のことも分からずにパソコンのキーボードをたたいているだけなのに、マーケットに行くとマトンが買えるのだ???

羊の影しか扱ってない/扱えてないのに、マーケットに行くとマトンが買えるってことは、俺が自分にとって理解できないシステムの部分になってるからだと思う。羊の影とか、羊の影の影とか、数字とかを操る係。

それってつまり、俺が自分にとって理解できないシステムのなかにしかいられないということだし、その意味でそのシステムに隷属してるということだし、体験を横取りされてるということだと思う。

システムのなかにいないと自分の餌が取れない。だから「職を探す」とかいうのじゃないか。だけどホントに探すのは餌でないの?と思う。そして餌を探すということは、餌を獲れるフェーズを探すということだと思う。

弓を引き絞って矢を放つフェーズを自分自身で探し当てること。言い換えれば暴力のフェーズを自分自身で探し当てること。あるいはそこで暴力に遭遇すること。それはシステムの中で「職」探しするよりよっぽど重要ではないかと思う。

システムのなかでどれだけ「いい職」についても、それって結局はシステムによって、自分自身の暴力のフェーズをスポイルされてんでないか、と思うのです。大事なのは、自分の手で弓を引き絞って矢を放つ瞬間を、自分自身で探し当てられることだと思う。

収奪と利益(分業⑥)



金を稼げるようになりたい、または金を動かせるようになりたいと思う。
だけど金には中味のある金と空っぽの金がある。
魚を獲る人がいるとする。てかいるわけだ。(なぜかカジキマグロがアタマのなかにでてくる。)
魚を獲る人がいて、市場に運ぶ人がいて、捌く人がいて、卸す人がいて、売る人がいて、それを食う人がいる。
俺が思うのは、そのとき発生する利益、または金銭というのは、魚を獲った以上のものではない、ということです。
魚を獲った分だけの金が中味のある金だし、それ以上の金は中味のない金だ。
そしてその金の価値は、ある意味ではいくらでも上がる。
なぜなら魚を獲るということは、収奪であり暴力であり、体験のビビッドさだからだ。
その体験のビビッドさが鮮やかである程度に、そこでの金は価値を上げる。
俺が動かしたいのはそういう金だし、俺が稼ぎたいのはそういう金です。
銛と弓と矢が欲しい。自分にとっての銛と弓と矢のようなものが。それは貰うものでも買うものでもなく、獲得するものであったり創造するものだったりするのだと思う。そういうフェーズを含んだ行為はすごく好きだ。

2008年12月28日日曜日

SoTuRoNⅢ④

今さらですが、卒論の「おわりに」以降をのせることにしました。
なのでSoTuRoNⅢ③のおわりにあった引用・参考文献一覧は、こっちにのせています。
後ろについてる謝辞は、提出稿にはないものなので、ここにあるのは私家版みたいな感じです。

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Ⅵ.おわりに

 本稿では「はじめに」で述べた,「システムの肯定性と惰性化」の問題を,ホームレスとその排除の構造の分析によって掘りさげ,システムに関わる主体性の位置,あるいはありようを分析し,「実践主体/主体性の位置」をあらわしてきた.

 またその過程で,簡単にではあるが,普遍主義への批判を行い「制度の拘束性」が,システムの肯定性からどのように構成されるかを分析してきた.

 本論の主張は2つある.第一に「期待」と「確証」とは違うものであるということ.そしてわたしたちの主体性とは,どのようなコード的確証,あるいは確証的コードによる保障も無効となる空間での,わたしたち自身の体験において生きられるもののありようである,ということである.

 ここから述べられることはいくつかある.まず,どのようなコード,どのようなシステムでも,主体性の位置を「確証的」に設定し,そのコード/システムの内部で作動させるようなものがあれば,そこにはおそらく期待と確証との混同から起きる,主体性の隠蔽,あるいは主体性を隠蔽している「ということの隠蔽」が起きている可能性が高い,ということだ.

 仮にそのようにして,判断基準がコード/システムの側にあるとするのならば,そこに残存するのは,生きる場や,あるいはそこでの体験を失った「かつて生きていた主体」と,形骸化し教条化した,あるいは硬直したコード/システムだけになってしまうといえる.

 そしてこのようなことは,コード/システムが,どれほど肯定的であれ,利益的であってもおきうることである.それは場面が福祉であるにせよ,教育や経済であるにせよ,あるいは個人におけるレベルにせよおきうることだといえる.

 もちろん,普遍主義や,他の福祉的,あるいは利益的な方法が,わたしたちが生きているある種の複雑さのなかで,有効であり,場合によっては有益であることに異論はないが,そこに「期待と確証の取り違え」が起き,そして惰性化するならば,そこには隠蔽によって窒息した主体の主体性と,硬直して死んだシステムだけが残ることとなる.それは取り違えを含むため,少なくとも論理として誤りであるし,おそらく主体にかかわる方法論としても誤ったものといい得るだろう.

 このことは,福祉実践の場全体にいえることであるし,広くは法,経済,教育にも,さらに広く取れば,論理や科学や理性に対する確証的な信仰や態度に対してもいえることである.

 そしてまた,言語や貨幣といった「有用」ともいわれる「コード」の扱いというのが,なんらかの隠蔽を含むものだとしても,その隠蔽とコードとの関係を,生きたものとして触れるのも,硬直し死んだものとしてしまうのも,わたしたち自身のありようであるといえる.

 そしておそらく,そこでの「適切な」判断というのは,けしてコードによって支持されるものでなく,わたしたち自身の生きた経済性によって判断/体験されていくものだといえる.言い換えれば,重要なのはその生きた体験のありようにおいて何事かが行われる/成されるということなのだ.

 ここに関わる問題のなかで,本稿では触れられなかったこともいくつかある.特に,先にあげたような「言語」や「貨幣」といったコードの問題,また生きられる場での他者とのつながりや暴力や変容の問題,わたしたちの生における死や遊びの問題などは,今後の課題だと考える.



引用・参考文献一覧

大藪寿一(1973)「都市の解体地域」大橋薫・大藪寿一編『都市病理学』有斐閣双書.

後藤新治(2001)「ユートピアの図像学」井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』九州大学出版会.

作場知生(1988)『天国への自動階段』新樹社.

西澤晃彦(2005a)「排除による貧困」岩田正美・西澤晃彦編『貧困と社会的排除』ミネルヴァ書房,46-47.

西澤晃彦(2005b)「檻のない牢獄」岩田正美・西澤晃彦編『貧困と社会的排除』ミネルヴァ書房,263-277.

濱野一郎・遠藤興一編(1998)『社会福祉の原理と思想』岩崎学術出版社,ⅰ-ⅱ.

福田孝雄他(2006)『社会保障とその周辺』中央法規出版,3.

原昌平(2004)「市民意識とマスコミ」日本住宅会議編『ホームレスと住まいの権利』,248-250.

森泰男(2001)「エウトピアからユートピアへ」井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』九州大学出版会.












謝辞

本稿は,ぼく一人の力ではなく,周囲の方々に支えていただいてはじめてできたものです.特に,A・Dさん,O・Yさん,S・Aさん,N・Mさん,また同じ研究室の方々とY先生,A先生,そしてぼくの家族には,多くを支えていただきました.ここに謝意を表します.

kero

分業⑤(無題:mixiより転載)

俺がやりたいのは地面のうえでどうやって遊ぶかってことだと思った。
期待のうえじゃなく、地面のうえで。きっとそれだけかもしんない

2008年12月25日木曜日

分業④(段ボールベッド。その2)

梱包シートが届きました。42mあるんだって。ながーい(゜д゜;)


で、これはさっきの段ボールをまとめてテープでとめたもの。これをさらにまとめると・・・


こんなのができました。補強に上に段ボールをしいて、麻紐でぐっとしばってあります。


これを並べておいて・・・


うえに段ボールの板をしくとこうなったよ☆


で、これが梱包シートをきったものです。グシャグシャである。


これを段ボールベッドのうえにしいてみた。おお、なんだかベッドみたいじゃないかww


そしてフトンをしいてみた!すでに乱れているのは試しに寝てみたからです。寝てみると・・・かなり寝心地いいかもー☆★☆
高さはあるけど怖くなく、下は程よくやわらかく、カラダが沈みこむけど沈みすぎないで温かく受け止められる感じ。


これなら今年の冬はこせそうです。うれしい(゜∀゜+)
しばらくカスタマイズしながら運用してみようと思っています。
自作のいいとこの一つは、やっぱり好きにカスタマイズできるとこだよねー。ベッドみたいに大きいものでも、パーツは小さいので、横に広げてセミダブルとかダブルもつくれます。ダブルとかにしたら部屋がうまるけどw

あとベッドマットを梱包シートでつくったので、厚さも好きにかえられる!寝心地も自由自在です。軽量だから移動もカンタンだし☆

自分でいうとアホみたいだがこれはすげー。全部分かってるので、壊れても不満があってもすぐカスタマイズできてしまう。
しばらくしたら、二号機もつくるつもりですw

分業③(段ボールベッド。その1)

俺の部屋はとっても寒くて、今の寝具と暖房具ではとてもマトモに眠れる状況ではないので、ベッドを自作することにしました。段ボールベッドです☆


まずこんな段ボール(左)を大量に購入。それをテープで止めて、右のハコ型にします。左の段ボールの上にのってるのは、大きさ比較のための箸。
これを組み合わせて、セルがいっぱいあってあったかいベッドを作ろうというハラですww



これが作業中の部屋。完全に段ボールに埋められています。



段ボールの山にアイルランド土産の十字架を置いてみました。なんだか廃墟のような雰囲気に・・・。



予定としては、

[       ふとん        ]
[梱包シート(プチプチシート)]
[     段ボールの板    ]
[     段ボールのハコ    ]

みたいな基本構造にしようと思っています。あとはいちばん下に角材を組んだものを入れたり、梱包シートまでの部分をいい雰囲気の布で覆ったりできたらいいなー、と。
自分でものを作るのはおもしろいです。素材から買ってきてるから、素材の感じも構造も自分で分かってるので、すごく実感があります。ちなみに同居人と一緒に作っています。たのしい工作の時間であるよ☆

分業②(無題)

スポイルにも、奪うものと与えるものがある。
なんだか分からないけど流れだすドレインとか。
なんだか分からないけど流れ着く恩恵とか。
それは-と+みたいに働いてるようにみえる。
だけどそれはどちらも、構造的にはスポイルだ。
それはどちらも「なんだか分からない」というものに、足場を奪われている。

分業①(「内陸」の経済)


先日、集中授業でスロバキアのことをきいてきた。
スロバキアは中欧の国で、国土は日本の8分の1くらいの、山がちの内陸国家。チェコスロバキアから分離独立して、いまの国家形態になったらしい。

航空写真なんかだと、目立つのは国営工場と、平野と、街と古城だった。街は石造りで、中欧とか東欧っぽいちょっとかわいらしくて陰鬱な感じ。

授業はとちゅうで抜けだしたけど、思ったとこがある話では、教育産業の給料は平均より低くて、金融仲介業の給料は平均より高い、というのがあった。あと政府は人口がふえたらうれしいな的なことを考えているとか。

スロバキアのことはそこまで詳しくないので、こっからはだいぶ推測が入るけど、金融業が有利だっていうのはなんだか中欧のイメージとしてある気がする。古い質屋や人形屋みたいなのが街なかにある印象。

で、もし仮に「金融業>農業とか牧畜」という風になるなら、それは食料とか(いわゆる)資源を、外国に頼っていることになる。それ自体はどうでもいいんだけど、ここで「貨幣」と「食料」が等価値になる、と思うようになるなら、それってフシギな気がする。

「貨幣」は、どれだけ情報化が進んだところで、「食料」とか「生活必需品」の流通形態においての、一時的な価値しかもたない。それは取引における認証札であって、取引から離れたらただの金属片や紙片だ。

だから本質的に価値があるのは、食料や生活必需品であって、貨幣ではない。そして食料や生活必需品の「製造」には、おおむね収奪の暴力がかかわっている。そして貨幣が機能するのは、その収奪-製造が「流通ライン」にのり始めたときだとするなら、貨幣の価値は暴力に基づけられている。いってみりゃ貨幣そのものに価値はまるっきりない。

で、収奪の暴力が「自分の手で」できなくなったらダメじゃん、と思ったのです。いくら貨幣をもっていても、自分で収奪できないんだったら、その貨幣の価値は外部で「収奪を行えるもの」によって決定されることになる。それっていいなりだってことだ。

で、いいなりになる、ってことは「外部が規範になってる」ってことだし、外部のお伺いをたてないと動けないってなることだ。それはつまり、生活が「貨幣」に隷属したから起きることだと思う。生活が貨幣に隷属し、貨幣が外部の収奪によって価値づけられる=外部が規範になってる=外部に隷属してるなら、生活が外部に隷属してることになる。それってすごくアホらしい。

金融業がどれだけ発達しても構わないんだろうけど、その裏でどういう風にすれば自分が餌とれるか分かってないなら、それは金融への隷属だし外部への隷属になる。でも外部って、隷属の対象じゃなく倫理の対象でないのか、と俺は思います。そして倫理的関係ってのは力関係だし、そこに話をもってきたいのなら、自分で収奪できる方法なりネットワークなり分かってないとな、と思ったりしました。

2008年12月20日土曜日

無題(SoTuRoNⅤ)

ここは不況や倫理では動いてないし、どっちかいうと暴力と腕前でうごいてる。ラディカルなだけなのはつまらないけど、そういうとこで遊べるようになろうと思う。
俺の身体は倫理(*)に我慢して、ずいぶん乾いてしまったけど、パシッと遊べれば水気をもつと思う。はじめは下手でいいし、横暴でもいい。ちょっとずつやってく。ポコアポコってやつですw

*:結局、絵本的世界観のすべてが間違っていたのだと思う。自分本位さを廃棄して捧げる「全体性」は絵空事でしかないし、コード幻想みたいなものだ。それはスポイルだと思う

2008年12月19日金曜日

SoTuRoNⅣ

かきおわって、変わったスタンスっていうのは、たぶんもう庇護がある場所からでた、ということだと思う。
だから餌は自分でとらなきゃいけない。餌をとることは収穫や収奪や簒奪だし、それは経済のベースにあることだ。どれだけ分業化や大量生産化がすすんでも、これは同じなんだろうと思う。
そして収穫や収奪や簒奪が暴力的でも、暴力的=残酷じゃない。残酷なのは、ただ失わせるだけのスポイルだ。暴力的なことを怖れていたら何もできない。それはとても当然で普通のことだから。餌とれるようになろうっと。庇護なしで、いろいろ渡り合える方法をストックしないと。

+++

そして「システム内部」での「新しさ」ってのは、システムの庇護がなくなった場面に着いたときの感触だと思う。そこでものは支えがなくても変わるように変るし、変わることを支える庇護は消滅している。
だから庇護がない場所は、ホントにそこにいるならずっと新しさを含んでいる。そこでなにができるか。
たぶん騙まし討ちとか休眠とか罠とかポジティブさとか接続とかは、そういうレベルではじめて機能する。
社会的な方法も、礼儀や儀式ではなく、そういうとこで生き延びる技術だ。
だから俺は敬語も覚えるし、関与の仕方みたいなのもよくしたいし、交渉で収奪できるようになります☆
そして重要なのは、資産を蓄えることに隷属することじゃない(それは生きた場所を「死んだ貨幣」に隷属させることだ)。ピンポイントで重要なのはその場所でどんな感覚が生じ、どんな感覚が通るか、ということだと思う。ピンポイントだけになるのは馬鹿げてるけれど。
具体的になにをしたいのかは分からないし、それは必要ないことだ。そしてどういうことをしたいのかは感覚で分かってる。とりあえず犬とか豚とバトルして収奪できるようになりたいです。餌getしてくぜ☆

SoTuRoNⅢ③

Ⅴ.空間と主体性

1.「取引」の空間-1
 前章では「彼らは彼らの『コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる」と述べた.しかし隠蔽は,一種の減少や撤退に似ることから,それがデメリットあるいはネガティブなものとして捉えられてもおかしくはない.

 そして,ここで生じていることは,「コードによって存立される主体性」と(隠蔽される)主体性という「属性」の「交換/取引」といえる.そしてそれが取引である以上,「コードによって存立される主体性」の方に,属性を幾分か変換することに,取引の際に隠蔽される主体性にい続けることよりもメリットがなければ,その「取引/属性変換」はまず成立しない.

 また,「取引」ならば「取引相手」がどこかにいる,ということとなる.ならば,ここで行われて「取引」とは,「取引相手」とのメリット/デメリットとの「商談」的なものであるといえる.その「取引相手」とは,homeにおいては「コード群」であるし,福祉においては大枠で捉えた「国家」だともいえるだろう.以下では,上記の視点から,コードと主体性の取引の構造を分析する.


2.「取引」の空間-2
 ここまで追ってきたことから「取引」における「メリット/デメリット」を捉えれば,コードによって存立される主体性の「メリット」とは,「コードによって構築される場での保護/存立」だといえる.それは野宿者の生が,「強烈な自己否定の感情が伴われがちである」(西澤 2005b:264)といわれることの反転像,すなわち「存立された『市民/国民』」としての「メリット」ともいえる.

 そしてその「メリット/保護/存立」は,檻のない牢獄の条件を反転させた(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と重なり合う.そして(隠蔽される)主体性にとどまり続けることのデメリットがあるとすれば,それは一つには,その「メリット」が得られない,あるいは得られる見込みが低い,ということだといえる.

 しかし疑問がある.上で(C)生を待つ空間,と述べたが,これは「死を待つ空間」の目的語を単純に反転しただけのものであり,対偶などをとったものではない.別の面から「死を待つ空間」という条件をひっくり返したのならば「死を待つ空間」は「死を待つだけではない空間」となる.

 そして「生を待つ空間」と「死を待つだけではない空間」とでは,印象や状況が全く異なるといえる.また(1)排除の空間(2)自己否定の空間を,同様の面からひっくり返せば,それぞれ「排除だけではない空間」「自己否定だけではない空間」となる.

 これらを並べてみれば,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間,となる.

 そしてコードによって存立された主体性がある空間が,前者となるのと後者となるのとでは,決定的に異なるものがある.それは先に述べた「取引」におけるメリット/デメリットの判断や,「取引」の確実性である.そして「取引」の確実性に違いがあるいうことは「取引相手」の確実性にも違いがある可能性がある.以下では,「取引」や「取引相手」の確実性を確認しながら,その違いをみていく.


3.期待と確証-1
 ここで,前者の「(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間」をカテゴリA,後者の「(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間」をカテゴリBとして考察する.

 カテゴリAでは(3)生を待つ空間,というのが最もその特徴を表しているといえる.そして「生を待つ」を,「生が与えられるのを待つ」と言い換えることが可能ならば,そこには属性変換と引き換えに,「生」を与える取引相手がいることとなる.

 ならばカテゴリAの空間では,そこで,その取引相手が「生」を与える程度に、その取引は成立する,ということとなる.例えばこれをhomeに重ねれば,そこではコードによって「市民/国民」として存立させられることが,「取引」の成立だといえる.

 一方,カテゴリBでは「与えられる」ような傾向が希薄である.(3)死を待つだけではない空間,というならば,それは自身の行為や選択肢や,その結果があるだけで,これといった贈与があるとは言いづらい.そこは「生」が与えられるかどうか分からない,という意味で「生が与えられる,とはいいづらい」空間だといえる.

 ならば,カテゴリAとBにおいて,メリット/デメリットの判断は変化しうるといえる.また,それをうける取引の内容もまた変わってくるといえる.

 主体は,カテゴリAにおいては,主体性を隠蔽し,コード内部に「入り」さえすれば「生」は与えられる.これはメリットあるいは肯定性といえる.しかしカテゴリBではこれといった贈与の保障はない.ゆえに,そこで「コードに入る」ことにおけるメリットあるいは肯定性は,明確には存在しない,あるいはコードの側からは保障されていない.

 言い換えれば,カテゴリBでは何らかのメリットを保障する「判断基準」はコードの側には存在せず,コードに入ることのメリット/デメリットを判断するのは,コードの確証ではなく,主体の経済性においてとなる.

 これをすこし詳しく述べれば,カテゴリBでは保証が曖昧であるか欠落している,つまり保障や肯定性やメリットを確証的に語れない空間では,メリットを基盤にした「妥当性」は生じづらいか,または生じるとはいえない.

 ならば,カテゴリBでは,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだ.

 ならばメリット/デメリットの妥当性は,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,ということだといえる.それはhomeにおいては「コード」の基準ではなく,また福祉においては「国家」の基準ではなく,主体の経済性において判断しなくてはならなくなる,ということだ.

 では次に,「取引相手」に関することを考察する.カテゴリAにおいては「取引相手」は,コードに入りさえすれば,「生」を与えるものとされている.言い換えれば,ここでは属性変換という「コードへの身売り」あるいは「自身の商品化」ということに対して,コードの側から対価が適切に払われるということにされている,といえる.

 そして,「されている」ということを言い換えれば,想定/構想されている,といえる.つまり「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想している側がいる,ということだ.   

 そして想定されるのが「取引」の「相手」であるならば,「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想しているのは,「取引相手」が「取引」をする相手,すなわち主体の側だといえる.

 ここで疑問がある.カテゴリAの場合,「コード内部に入れば『生』が確証的に得られる」となっているわけだが,その「『生』が確証的に得られる」ことの確証というのは,どこにある/基盤付けられているのだろうか.

 第一に,それは「取引相手」によってではない.「取引相手」が述べるのは「コード内部に入れば『生』が確証的に与えられる」ということだけであって,「取引相手」のメッセージを確証付けるものはそこには特にない.

 だとすると,そのメッセージを確証付けるものがあるとすれば,それは主体の側の行為である,ということとなる.では「メッセージを確証付ける行為」を確証付けるものや行為は主体のうちにあるのだろうか.そうではないといえる.

 そこでは主体が想定/構想した「取引相手」のメッセージを,自己の経済性のうちで確証付けようとしている行為だけがあって,その「メッセージを確証付け様としている行為」を確証付けるものは特に他のどこにもない.

 仮に,「取引相手」がとても堅牢に感じられる「だから」主体にとって「取引相手のメッセージ」は「確証がある」とするならば,それは論理的に誤りである.それはいわば「期待」であって「確証」ではないし,両者の混同は誤りである.ならば,カテゴリAでもカテゴリBと同様に,保障は曖昧であるか欠落しているといえる.

 ならば,カテゴリAでも,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだといえる.

 ならばカテゴリAでもカテゴリBと同様に,メリット/デメリットの妥当性は,「コードや『国家』」の側からではなく,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,といえる.


4.期待と確証-2
 「期待と確証-1」で述べたことは重要だと思えるので,カテゴリAに関することを,すこし別の言い方で述べてみる.

 先にカテゴリAに関して,「カテゴリAでは『生』を与える何ものかが構想/想定されているといえる」,また「カテゴリAの空間では,そこで,その何ものかの構想/想定が,実現しうる限りにおいて『生』が与えられる,ということとなる」,と述べた.

 では,その構想/想定は,主体と無関係に行われているのだろうか.それは考えづらい.なぜならその構想/想定を「最終的に」受諾するのは主体の側といえるからだ.

 言い換えれば,その構想/想定の受諾には,主体または主体の判断が関わっている.ならば,その構想/想定を「引き受ける側」として、それを受諾する主体のありようはある,といえる.

 そして,その構想/想定が「引き受けられる」ものならば,そこには引き渡す側(=取引相手/コード/「国家」)が想定されうるといえる.そしてその想定は,確証性の問題に関係する.つまり,その想定されている「引き渡す側」による「引渡し」が行われるかどうかは,確証をとれることではない.

 仮にそれの確証を,主体の側から基盤付けるとしたら,それはつまるところ「引き渡し」を行う側への信頼によって基盤付けられるものである.つまり主体がその確証性に関わるときに,なんらかの基盤付けがあるとしたら,そこには主体による構想/想定されたものへの「信頼の投影」があるといえる.

 ならば主体は,自身の信頼を投影するというその行為のなかにおいて,「引き渡す側を『想定』するもの」になっているといえる.それはいわば期待の構造である.そして「期待」は「確証」ではない.そこに淡い確証のようなものが生じるとしたら,「投影された信頼が投げ返される」程度ではないだろうか.そして,その淡さを明確にし,保障し,基盤付けるものは,取り立ててあげられない.

 例えば「自分が信頼を投影しているのだから,それは投げ返されるだろう」というものがあったとしても,それは自身の信頼への期待である.それは「期待」であり「確証」ではない.それゆえに「確証を基盤としたなんらかの保障」はその空間では,(「期待」と「確証」が異なる程度に)成立しない/しえない/していない.

 ならば,カテゴリAは,なにかのコードを確証にしたり,なにかの確証をコードにしたりすることは無効な空間であるといえる.ならばそこでは,メリット/デメリットを判断する「領域」は,コードなどではなく,主体,あるいは主体の側の経済性に回ってこざるを得ない.これはカテゴリBと同一の構造あるいは条件である.


5.空間と主体性
 ここまでのことから展開できることがある.それは,カテゴリの構成条件にどのようなものがあるとしても、おそらくこの期待と確証との構造は変形しない,ということだ.そこで判断を迫られるのは,主体,あるいは主体の領域の経済性であり,他のなにかではない.

 そして繰り返すことになるが,その空間では,なんらかの「なにかのコードによる確証=コード的保障」や「なにかの確証によるコード=保障的コード」,つまり「なんらかの確証を基盤としたなんらかの保障」は,おそらく成立しない/しえない/していないし,そこで判断をなすのは主体の領域の経済性である.

 ならば,主体あるいはわたしたちが生きているのはそのような空間だといえる.それは,確証や保障がおそらく成立しない/しえない/していない,という意味で,わたしたちの経済性に対し,拓かれ/開かれた空間,あるいはそれをひらいたままにするのもコードによって閉ざすのも,主体の経済領域において判断される空間だといえる.

 そしてここまでの論から,2つの方法あるいは場が残されているのがわかる.1つめは,期待と確証の中間領域において,隠蔽と,隠蔽と引き換えとの「コードを含んだ存立」的行為のなかで試行錯誤をすることであり,その試行錯誤のなかで確証を欠きながらも,「システム」に対して「主体性」を立ち上げよう,というものである.そして2つめは,1つめのさらに基底領域,つまりその「試行錯誤」を立ち上げるレベルに位置する体験を生きることであり,試行錯誤のなかでの「欠けた確証」も欠いたかかわりの領域を生きることだといえる.

 そしてここから展開できる「実践主体/主体性の位置」とは,なんらかのコードによって確証,保障,存立,支持/指示を受けることの撤廃された,上記の空間への,あるいは空間をなす諸々のものやことへの,わたしたち自身のありようであると捉えられる.それは,わたしたちの体験において生きられるものであって,なんらかのコードのたてた基準をベースに「知る/知られる」ものではないといえる.

SoTuRoNⅢ②

Ⅲ.homeとコード

 福田・佐藤は『社会保障とその周辺』で「社会制度審議会は,1995年の『社会保障体制の再構築に関する勧告』において,『社会保障の新しい理念とは,広く国民に健やかで安心できる生活を保障するものである』と述べ」(福田・佐藤 2006:3)た,と述べている.

 その解説として,彼らは「ここで述べられていることは,社会保障とは,貧困層など、限られた一部の人だけを対象とするのではなく、社会を構成するすべての人をその対象ととらえていかなければならない[……]こうした考えは『普遍性』または『普遍主義』と呼ばれています」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.

 彼らはまた普遍主義と並んで重要な理念に「権利性」をあげ(福田・佐藤 2006:3),その解説として「憲法25条は,国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有していると規定しています。[……]また,社会保障は,給付を通じて国民が国に心理的に依存するようなものであってはならず,権利としての給付を受けることを通じて,国民が自立心・自尊心を保持できるような制度であることが大切です」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.

 すなわちここでは,普く行き渡る権利に基づき「国民」という主体は存立され,その自立心・自尊心は,権利をとおして保持される,ということが述べられている.こうした考えは肯定的/善意的に感じられるが,しかし疑問も残る.

 ここで述べられていることを単純化すると「国民(という主体)←権利←憲法」と表せる.ここでは矢印の右側にくるものが、左側にくるものを支持/保持していることとなっている.この図に限っていえば,そこには憲法がもっとも基盤的なものとしてあり,主体を支えている.言い換えれば主体に憲法は先行し,先行した憲法でもって存立したものが「国民という主体」として認識される,ということとなる.

 それならば,そこにはある主体性は憲法の主体性であり,「主体」といわれるものの主体性ではないと考えられる.ここでは「国民」なるものは「憲法」なるものに識別されたものとして,識別された限りでの主体性あるいは自主性を得る,という構図になっている.

 そしてここでの「憲法」を,homeによる保障を識別/決定する,福祉における他の基準群と合わせて解釈するならば,先に述べたhomeの特徴,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,も幾分かは導きうる.

 それはなんらかの基盤に基づく空間である,という意味で支持され保護された空間であり,支持された者としての自己を肯定できる空間であり,支持された者としての生を待つ空間といえる,ということだ.

 そしてhome-lessが,その基盤による支持を失ったものと捉えられるのならば,西澤が述べた「檻のない牢獄は、自己否定の空間である。彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは,再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということも理解できる.その否定性とは,基盤の識別域からあぶれ,支持という肯定性を失ったがゆえの否定性といえる.

 そして西澤が述べた「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47),「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(西澤 2005a:47),「治療が,国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(西澤 2005a:47)ということからいえば,この肯定性/否定性を識別する基盤とは,「『よき』国民」を識別するコード群である,ということとなる。そしてそこからあぶれることが否定的であるのは,あぶれたものは「よき国民」の反転としての「非国民」「治療に値しないもの」となる,という判断からだといえる.

 そこではhome内部のものは識別枠からあぶれないよう「器用」に「勤勉」に行為し,そして「野宿者」はその識別枠からあぶれた「弱者」である自己を否定的に捉える.彼らにとっては参照枠としてのコードが,自己の肯定/否定の位置を決定するものとなっている.

 言い換えれば彼らは,コードを「自己に先行し決定権のあるもの」と捉えているといえる.これは先にあげた「国民(という主体)←権利←憲法」の構図と重なり合う.そこではコードの基底的な部分に位置するものが,それが許容する限りでの「主体」を存立させ,支持/保持するものとなっている.

 しかしこれは奇妙に思える.home内部のものもそうでないものも,「コードを『自己に先行し決定権のあるもの』と捉えている」のならば,そこにはどちらにも「コードを自己に先行する」という判断がある.その判断は主体的なものだと捉えうる,とはいえないのだろうか.

 だが構図では「国民(という主体)←権利←憲法」となっていた.権利や憲法を「コード」とするなら,これは「主体←コード」と書き換えられる.「コードを自己に先行する」という判断があるならば,これは「主体←コード←コードの受諾という判断」となると考えられる.にも拘らず,homeの識別枠は「主体←コード」という形式で働いているようにみえる.次章では,排除と隠蔽というものを切り口に,そこにどういった機構/意識が働いているかの検討を行う.


Ⅳ.homeと隠蔽

1.共同体意識
 西澤は,「G.アガンベンによれば,強制収容所の本質は殺戮にあるのではない.強制収容所は,『法が全面的に宙吊りに』なった,『例外状態が規範そのものとなる』空間である.そこは,法的秩序の外に置かれているが単に外部なのではなく,『自らの排除そのものを通じて包含されている』場所である.そうした例外空間に捕らわれた人々は,生殺与奪の権利を握られたまま主体性―個が想定し得る可能性・潜勢力としての生―を剥奪され,感情や尊厳を喪失した『剥き出しの生』へと還元されていく」(西澤 2005b:264-265)と述べている.

 しかし,強制収容所の内部のものが「自らの排除そのものを通じて包含され」また「生殺与奪の権利を握られたまま主体性を剥奪され」ているのならば,それは広義の意味でのhome内部のものと重なり合う.すなわち,「home内部のもの」も「野宿者」も,「どちらにも『コードを自己に先行するものとする』という判断がある」のならば,それは共に,homeの参照枠を基準にし,自らを内部/外部のものとしている. 

 彼らは自らの判断に先行し,homeの参照枠を基準に自らのポジションを読み取っている,という意味で「自らの排除を通じて包含」されており,またhomeの参照枠を権利の前提とすることで「生殺与奪の権利を握られ」主体性を譲渡して/剥奪されているといえる.homeと強制収容所とがその内部のものに与えるものは異なるし,その違いは決定的な違いなのだとしても,その2つの構造は上記の点では同一であると捉えられる.

 西澤は野宿者を形容して「野宿者も,非人間として放置された例外者である」と述べている(西澤 2005b:265)が,強制収容所内部のものも,広義の意味でのhome内部のものも,自らのポジションを決定する基準を,先行的に機能するhomeの識別域に剥奪されているという意味で,共に「基準から放置された例外者」である,といえる.言い換えれば,そこではhomeの識別域のみが「規範」として機能しており,そして規範が実体あるいは主体に先行している.

 また西澤はT.シブタニの定義を引用し「社会的世界とは,行為の準拠枠になるものの見方を共有することによって結果として成立した人びとのまとまりのことを指す.そのまとまりにおける相互作用を通じて,人びとは共通のものの見方と行為のふさわしさを確認していく」(西澤 2005b:277)と述べている.

 この文章をすこし組み替えれば,「共通のもののみかた」や「行為のふさわしさ」は,「行為の準拠枠になるもののの見方の共有」によってある程度規定される,ということであり,またその共有によって生じたまとまりが,社会的世界である,ということとなる.そして社会的世界が,ものの見方のある程度の共有によって成立している以上,それはそのものの見方を準拠枠にした準共同体的集団なのだといえる.

 そしてここまで追ってきたように,その準拠枠は,home的な共同体においては「規範」として機能しており,それは実体あるいは主体に先行している.ならば、homeにおいて実体あるいは主体に先行しているのは,共同体意識である,と考えられる.


2.主体の選択
 そういった「共同体を前提にする」ことよって成立しているのが,homeにおける主体の存立/保護だといえる.またそれを行為として反転させれば,システムによる「共同体を基盤としない主体」の否定/排斥/隠蔽や,「救済」措置によってそれらを共同体内部の「主体」への書き換ることだいえる.

 しかし,そこで共同体意識が先行している,あるいは「共同体が前提にされる」ということは,そこに共同体意識を自身に先行/優先することを選択しているものがいるということだ.ならば「共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽」という操作を行っているのは,共同体意識を自身に先行/優先させているものの判断である,と考えられる.

 そして広義のhomeの内部のもの,すなわち「市民」も「野宿者」も自ら,彼らを存立させるためになんらかの識別域を,自己の判断に先行/優先し,自己を存立させるための準拠枠としているのならば,共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽を行っているのは,当の彼ら自身の行為/営為であるといえる.

 いわば,彼らは彼らの「コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる.この隠蔽と先行の問題を,次章ではメリット/デメリットと,「取引」という視点から分析していく.

SoTuRoNⅢ①

ここにのっけるのが卒論本文です。書き終わったの自分で見返してみて、内部での討論まで手が回らなかったのがアレだったり、もっとパシッとさせたかったな、ってのはありましたが、その時やることはやったと感じます。長いので、三部構成でのっけます。

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「福祉実践における“home/home-less”に関する主体性の位置の考察」

Ⅰ.はじめに
1.背景-1(世界と人間像について)
 わたしたちがいるこの世界には,いくつかの,あるいは無数の人間像がある.それは社会的人間であったり,経済的人間であったり,理性的人間であったりする.そしてこれらは単独であるわけではなく,多くはそれをとりまく場において生じてきている.

 つまりそれは,場とわたしたちの関係性のなかで,社会や経済や理性などと設定されたものを機能させようと作成されてきた,という側面をもつ.

 古いものではギリシャの民主制(いくぶん限られた地域だが)を成立させていくなかでの「ギリシャ的人間」や,あるいは伝統的宗教の世界像を成り立たせるための「宗教的世界に位置づけられる人間」や,近代における工業や国家観の展開のなかでの人間像や,また現在の社会情勢のなかでの人間像も,そういった側面をもつと考えられる.

 しかし疑問がある.そういった「なんらかの人間像」に見合うものが人間だとするのならば,それに見合わないものはそうではないのだろうか.仮にそうだとすると,そういった世界には「人間の像」があるだけで,実際に様々なかかわりを生き,その像に見合ったことも外れたこともするわたしたちは,とても虚ろにしかいないのではないだろうか.

 例えば科学的言説,宗教的言説,経済的言説,教育や福祉のなかでの言説などにおける「人間像」に当て嵌まらないからといって,それが「人間でない」というならば,わたしたちのありようは言説の内部にしかないこととなる.

 このようなことは奇妙だといっていい.そしてそのようになるならば,一体どこで,わたしたちを欠いた「人間の像」ができたのかということ,そして虚ろになってしまった部分はどうなっているのか/どうなってしまったのか,ということが,ここで問題とするものである.本稿は,その「人間像の設定」のなかで虚ろになってしまうものと,その周辺の構造を,国家と福祉をテーマに,主体と主体性,そして隠蔽と排除の視点から扱うものである.


2.背景-2(場面と方法)
 西澤は『貧困と社会的排除』のなかで,「国民化に伴う排除とそれによる貧困は,歴史的な出来事ではなく,今日的な権力現象の系譜の中に位置づけうるものである.その後、国民国家は,経済的な条件を得て福祉国家化し,『福祉国家の危機』はいわれるものの今日に至っている.」(西澤 2005a:46)と述べている.

 西澤はまた,国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化している(西澤 2005a:47).それから福祉を捉えれば,福祉が国民国家,すなわち「国民」をその構成員として成立する「国家」の機能の一部として行われる限りにおいて,それはそのシステムにおけるまた治療,隠蔽,抹殺の問題と,それへの対応やかかわりを総称した問題群の一部だといえる.しかしそれは単なる排除的な機構として働くものではなく,憲法第25条の「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などのように,肯定的な側面を持っている.

 しかし,濱野らが「制度は一面では,意識的,あるいは無意識的な人間同士の約束事から成り立っていて,秩序化の働きをもつ有用なものであるが,他面でそれは,惰性化することによって人間を拘束するというパラドックスを含んでいる」(濱野 1998:ⅱ)と述べるように,惰性化したシステムは,それが肯定的な側面をもっていたとしても「拘束」につながる傾向があり得る.それは一面では,西澤が述べた,治療,隠蔽,抹殺の問題群と重なり合う.

 このシステムの肯定性と惰性化にかかわるもののありようを,濱野らは「『保護』と『飼い殺し』の差異は,単に処遇上の問題ではなく,実践主体の態度,さらには心の在り様に関わってくる問題だということがわかる。」(濱野 1998:ⅰ)と述べている.

 本稿は,ここでいう「実践主体」を,仮に「『システムの惰性化』によって『拘束』されるもの」と定義し,その主体性が,どのような領域において成立する/しうるのだろうか,ということを分析していくものである.そのために,システムの肯定性と惰性化の問題や,システムにかかわる排除や隠蔽の問題を,システムによる排除の対象としてみられうる,現代のホームレスと,それへの視線に対する分析を切り口にして追っていく.


Ⅱ.ホームレス(home-less)とhome

1.ホームレスへの意識
 西澤(2005b:263)は,野宿者によって生きられる空間の特質を,「檻のない牢獄」という言葉で言い表している.彼によればその牢獄は(1)排除の空間,(2)自己否定の空間,(3)死を待つ空間の3つの特徴をもつとされている(西澤 2005b:263).

 西澤はここでの(2)に関して「檻のない牢獄は、自己否定の空間である.彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは、再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)と述べている.これを反転すれば,ここには「組織社会・定住社会」の空間内にいる自己が肯定できる/あるべき姿として描かれているのが分かる.

 また原(2004:248)は『ホームレスと住まいの権利』で,野宿者のイメージに対して市民に調査をかけている.そこでの結果は以下のようなものである.

①弱者=不健康、孤独、みじめ、かわいそう、しんどそう
②怠け者=怠け者、無気力、自業自得
③邪魔者=うっとうしい、じゃま(+汚い?)
④恐怖=こわい、酔っ払い
⑤気楽=気楽、自由
⑥不器用=偏屈、不器用


 これらは調査への回答を多い順に並べまとめたものとなっている.原はこのイメージ形成のおもな要因を「会話など直接の接触体験ではなく、野宿者の見た目の印象と、自分なりの推測が中心だと考えられる。マスコミをはじめ、さまざまな媒体を通じた情報の影響もあるだろう。」(原 2004:248)と述べている.

 原はまた,「生活の実情や個人史の取材は足さえ運べばそう難しくない」(原 2004:250)と述べている.しかし,野宿者に対して一般の市民が積極的に「足を運んで」「直接の接触体験」を望むか,ということには疑問が残る.

 西澤が「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47)と述べ,さらに「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(2005a:47),「治療が、国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(2005a:47)と述べているように,一般の市民にとって野宿者は「治療に値」せず「非国民的な存在」として識別されたものとなる.

 そしてこれを反転させれば,一般の市民は自らを「治療に値」した「国民的」あるいは「非-非国民的」なもの,として捉えていることとなる.これは西澤が述べた「野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということ,またそこから読み取れる「組織社会・定住社会の空間内にいる自己が肯定・あるべき姿として描かれる」こととも重なる.

 ならば「国民的あるいは非-非国民的」と自らを識別した「市民」が,「治療に値」せず「非国民として識別される」ような空間のものに対して積極的に関わるとは考えづらい.原の研究が,その識別-排除の機構に対して働きかけるものとして作成され「『足さえ運べば』そう難しくない」という表現がそこからくるものだとしても,問題は「(接触以前に)足を運ぶことの難しさ」にあるといえる.


2.識別枠について
 識別の枠の内部が「肯定された」ものであり,外部が「否定的な」ものであるならば、肯定的な部分にとどまろうとするのは,論理的あるいは経済的な判断である.これを覆す要因が他にない限り,枠の内部にいるものが枠をこえ「否定的な」ものとの接触をするのは避けよう,と考えるのは妥当であるといえる.

 ここでは野宿者とは文字通り「home-less」,つまり識別された枠の内部から見捨てられ,枠という「home」を失ったものとして認識されている.

 ここで西澤がだした「檻のない牢獄」の特徴(1)排除の空間,(2)自己否定の空間,(3)死を待つ空間,を反転させれば,homeの特徴は(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,といえる.そしてhome-lessとは,この特徴が失われた状態だと考えうる.

 そしてここから,原の調査結果による「市民」からの野宿者へのイメージで,弱者,怠け者,恐怖,気楽,不器用などがあがってくるのも幾分かは導きうる.枠の外部にいるものはhomeから排除されたものであり,その排除の識別域にひっかかるのは上記の条件のうち一つまたは複数を満たしているから,ということである.

そして条件を単純に反転させるならば,枠の内部の「市民」のイメージは,強者,勤勉,安心,切迫,器用である,ということとなる.そして「市民」すなわち「homeの内部にいるもの」がそうであるなら,home-lessへの意識は,勤勉で器用でないために,安心の「外部」に放逐された弱者,ということとなる.

 しかしここには,もう一つ読み取らなければいけないことがある.外部者の気楽,あるいはその反転としての内部者の切迫,というのはどこから生じているかということだ.それには「home」というのがどのようなものかの分析が必要となる.

2008年12月18日木曜日

SoTuRoNⅡ

かき終って、俺のスタンスは変わりました。
何か発見があったから、とかじゃなく、かき終ったことで、それまでのスタンスから抜けたのだと思う。

卒論でかいたのは、かなり簡単なことです。
「ほら吹き男爵の冒険」という本をむかし読んで、そのなかにあった話で「ほら吹き男爵が馬に乗って沼地に差し掛かると、どんどん沈んでいきました。そこで彼は、自分で自分の髪をつかんで持ち上げ、馬ごと沼地から脱出しました。」というのがありました。
これはパッと見で変な話。彼は沼地にいるから、沼地を足場にしないと何かを持ち上げることはできない。なのに何も足場にしないで、てか自分を足場にして自分を持ち上げた、っていってるから。

俺が卒論でかいたのは、自分を足場に自分を持ち上げることとか無理じゃん、だから沼地でも荒れ地でも狩場でもいいけど、自分がいるとこからはじめないと自分どころか何も持ち上げられないぜ、って話です。それだけw

で、俺はそれをかいて、自分のなかでの「自分の髪をつかんでる手」を、きれいサッパリ廃棄処分しました。それがスタンスが変わったってことです。
いろいろしながら「自分の髪をつかんでる手」を廃棄処分したとこで、やってけるように動いてくと思います。もとがヘタレなんで、オタオタしてるけどw
そこらへんの話はまた今度

SoTuRoN

卒論をかき終り、出してきました。
いろいろ思った。「思った」というとちょっと違うけど。
すこしづつかいていこうと思います。
卒論はアップするか迷い中です。
でも要望あったしアップしようかなw

2008年12月4日木曜日

経済と効率


リンクにある:----r-u----:のサクバさんが紹介していたのだけど、ドームハウスというのを売っているジャパンドームハウス(http://www.dome-house.jp/index2.html)というのがあった。
こういうのってすごくおもしろい。40㎡ちょいのイエ(?)が、400万以下で売ってる。耐震性や耐風性にもすぐれてるし、断熱性もあって地球にやさしいとかナントカ。

個人的には地球にやさしいのなんかどうでもいいのだけど、低コストでそれだけのことが実現できるというのはすごいおもしろいと思う。
低コストってのはいいことだ。例えば年収が高いのって、市場経済のなかでの貨幣価値を基準にした量的尺度でしかない。だけど年収が高くて市場経済的にリッチな家に住んでるのより、低コストで高効率なイエに住んでる方が俺はいいと思う。

ここでいう「効率」ってのは、経済効率のことだ。それは市場経済の量的尺度でなく、自分にとっての生活を成す複合的な経済性における効率のことだ。複合的な経済性っていっても別にむずかしい話じゃなく、自分の手で自分が生きるだけのものを得られるとか、空が青くてきれいだとか、部屋にかえってきたときに温かいココアがうまいとか、コケてケガしたら痛いとか、外に原付で走りにいくのがたのしいとか、仲のいい友達がいるとかそういうこと。

そういう自分にとってのリアリティや自分にとっての利権を得ることを、自分のリアリティに無関係な経済尺度にスポイルされずに、ちゃんと試みようとする/試みられる(try-ableみたいな)こと(の効率?性)が無ければ、どんな「収入」や「評価」を得たところでおもしろくない。

そのabilityの地盤は、どっかに用意された話ではなく自分にとってリアルな感触や感覚だと思う。そういう意味では、市場経済のなかの駒としてどれだけ優秀かよりも、自分の地面から市場経済も含めた諸々の経済性にどれだけ働きかけて、そしてここで何ができるか試みることは全然おもしろいと思う。そういうことをやりたい/やろうと思ってる。

具体的なスキルとかはまだ無いけど、どっかのヘンテコ零細企業にいって、個人として自分がどれだけできるか試しながら、スキルもコネクションもつくってく、つもり。興味ない、自分にとってリアリティのない経済性に飲み込まれるつもりは無いです(゜ー゜☆)

2008年11月30日日曜日

homeについて


卒論をかいていて、自分がきらっていたのはhomeあるいはhome的な意識だと思った。定住性のうちに、ものが生きていることを隷属させ隠蔽すること。日本的な言葉でいえば「イエ」による生の排除だと思う。

例えば学歴や量的貨幣の蓄積みたいなのも、「国家や市場経済というイエ」の内部で、その「イエが認定する価値」を、量的にどれだけ高くしたか、ということだと思う。あるいは「論理的に考える」ということも、「論理」という定住的機構が認定し許容する限りでの「ものの感じ方」を「考える」といっているのだと思う。

そこではhomeが認定するものの考え方を取れば安全/安心で、定住性の外部にいるのは危険で忌むことだという意識が働いている。だけど「home」を基準にして考えるなら、そこには「homeを基準にした生」しかない。どれだけ技能や技術があっても、それが「homeで役に立つ」からというのなら、それは技能や技術を認定するhome内部に隷属した「成果」をあげるものに過ぎない。それならそこにhomeに依らない(*)自分の感覚はない。

home-lessはさみしい。経験的にはあまりの何も無さに意識が吹っ飛びそうになるくらいさみしい。だけどhomeから出るのが怖いことを他の何かのせいにして、いつまでもhomeへしがみ付いてる気持ち悪さは無い。結局homeにしがみ付いてhomeに「正しさ」の幻想をもって、幻想を「理由」にこじつけて自分の感覚よりも定住性を優先しているのは、他ならない自分なのだと思う。

だけどそうしたところで「何も」起きない。リアルも暴力も何も無い。homeの幻想を介した「他者」など、さみしさから逃避した自分の幻想の影に過ぎない。それは自分の生も死も、それこそ一人ぼっちの幻想のなかで行うということだ。それはhome-lessがさみしいことよりもっとどうしようもないんじゃないのか。

暴力の場所でなにができるか分からなくても、遊びも感覚も痛みもリアルさもそこにある(と思っている)。それを自分で隠し続けて、定住性のうちにとどまったり、他の奴をそこに引き込んで自分の相手をさせる人形にするなんてどこにも行き場がないと感じる。

homeのなかの価値よりも、俺はいろいろコミのたのしいことが好きだ。それが正しいか/正しくないかはどうだっていい。そしてたのしいことはhomeや誰かに決めてもらうんじゃなくて、ここで自分で感じてくことだと思う。

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話はとぶけど、この頃「自分がきらいなのは誰かに甘えることじゃなくて、『誰かと自分を含んだ幻想』を通してみた『誰か』に甘えること」だと思った。知り合いと話していて思ったこと。その意味で、「誰かと自分を含んだ幻想」じゃなく誰かに甘える/甘えられることの感じは、いろいろあるけど感じいいの多い。

*:乱暴な分け方だけど、考慮するのと基準にするのって違うと思う。関係性ってやわらかいから「考慮」っていうと固い距離がありすぎるとも思うけど

2008年11月27日木曜日

ou-topos

というそうです。ユートピアのことを原語では。
ou(ない)topos(場所)という意味らしい。

ou-toposは無い、ということ。ここがユートピアのない荒れ地だということ。あるいは非ユートピアであり暴力の場所だということ。そしてそこに何かユートピア的なものをつくる場合、結局それはその幻想への隷属と、幻想に抵触するもの(それが自分自身の気持ちを含めたものであれ)の排除と隠蔽に他ならないということ。その幻想に隷属するかしないかは、自分で決めていいということ。ここは荒れ地で暴力的だけど、いつでも開かれているということ。自分がおそらく何もしらないのだということ。そういうことをきちんと分かっていたい。

「ここ」に立つこと。それはつながりを切るとか、つながりのなかでどうしようもなくでてくる規範のようなものを無効にすることじゃなく。そのコンフリクトも、自分が暴力的なものだということも、リアリティに直面したときの何もできなさも逃れがたいけど。それが何も無くても、そこから逃げても何も無いよりもっと何も無い。

近況報告(?)

Tool - Third Eye Revisited

この頃またTOOLのブームがきたkeroです。メイナードさん(Vo)かっこいい☆、弦と打楽器もすきだー。

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あ、あとこんなものを見つけました。なんだnothingってww。詳細はこんなんらしいです↓。(http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20061113_flying_spaghetti_monster/)
ちょっと買ってみたい気もする・・・。

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学祭で公式フエはおしまいかしら、と思っていたら、合コン(合同コンサート。合同コンパではない・・)にでることになりました。ルンバのリズムの曲吹くんだって。ルンバは初めて。
なのでちょこちょこルンバの曲きいたりしてます。うにゃうにゃきいててリズムの感じが分かるといいなー、みたいな。またいろいろ試してみたいww。今回もいいメンバーと一緒にでれて俺はうれしいのです、わー(゜∀゜*)


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SoTuRoNなるものをかきはじめました。はたしてどこまでマトモな、あるいは言葉にできないアレなできになるのでしょうか。現在、第二章に入ったとこ。そしてナイスな文献が手元にないすorz。なにをいっとるんだ自分;
今日は文献さがしに図書館いってきまーす。外は寒くて白灰色の曇りです。

2008年11月22日土曜日

ゲーム追記:利権

例えばなんらかの教-育システムというのは、ヒトが生まれて生物学的に生長し、死ぬことを前提として成立していることがある。そこでの報酬は、学校での評価という形をとるかもしれないし、企業での評価という形をとるかもしれない。

だけど、ヒトが生まれて死ぬことを「仮定」して前提にしたシステムに入り、そこでの評価を自身の評価とすることは、そのシステムを形成した政治に属すことを意味する。その属し方は様々だと思うけど、その政治への属し方が「その政治から外れるのが怖いから」というのは、結局その政治に、あるいは誰かに与えられた統治に隷属してると思う。

その場合、そのシステムの内部で得られる評価は、その政治に隷属したものとしての評価だ。そして恐怖から自分の判断基準をゆだねて、政治に隷属するというのは、そこに自分のリアルさを隷属させることだと思う。そしてリアルさを隷属させて、あるいはリアルさの隷属と引き換えに得られる評価(例えば「生まれて死ぬもの」として仮定や定義された枠組みのなかで、自分の死を含んだ生を抹消して得た「評価」)は俺にとってはリアルさのないものだ。

どの「政治」を選択するかというのは、自分の判断だと思う。その判断は政治力学的に行われる。そこでその判断をなんらかのシステムに隷属させることは、自身の政治のリアリティあるいは自主性を廃棄することだと思う。自身の政治の自主性を廃棄して得られる利権は、隷属者としての利権だけだと思う。

個人的には、システムは飲み込まれるものでも、無いことにするものでもないと思う。システムの政治性に対しては、自身の政治性から渡り合うものだと思うし、そこでいかに隷属者としてでなく、自分にとっての利権を得る/得ようとするか、ということが重要なんだと思う(*)。そしてその「利権」は、個々によってなんであれ構わないのだと思う。それが自分でものを考えるということだし、自分でなにかをしようとすることだと思う。そしてそれはとても暴力的(≠乱暴)なことだ。だけどその暴力にアクセスしないと何もはじまらない

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*:話が複雑になるから避けたけど、隷属者-支配者の変換のゴタゴタのなかで、ものが動くことはある、と思う。それをないことにするわけじゃなく。

ゲーム

あるシステムというのは、そこにいるみんながみんなを奴隷にしてる、という面があると思う。そこでは「全体」が仮定され、その「仮定された全体の福利」のために、その構成者が行動する、というパターンを取る。

例えば、「あなた/わたしは『国民』なんだから、『国家』に関わる『みんな』が幸せになるように行為しなさい/する」みたいなの(*)。ここでは「国家」が仮定された全体だし、国民は「仮定されたその構成者」になる。そして国民でないものは、救済(=「国民」化)されたり、排除されたり、隠蔽されたりする。

そして個人的には、「国民でないもの」、あるいは排除されてるのというのは、特定の誰かでなく「仮定からあぶれた領域」だと思う。その仮定を成立させる/させ続けるために、仮定を侵害する領域を救済・排除・隠蔽する、ということ(**)。

だけどちっと待ってくれよ、と思う。「仮定」または「仮定にのる」というのは、つまり一つの「ゲーム」にのる、ということだ。ゲームのなかで「いいこと」をやったら経験値とゴールドでも入るのかもしれない、次のイベントにいけるのかもしれない。だけどそこに「入って」しまうのって、自分の生活を「ゲーム」にしてしまうこと、ゲームに自分のリアルさを隷属させることだと思う。

ゲームキャラにはゲームキャラの権利があるんだろう。奴隷には奴隷のたのしみがあるんだろう。それは否定しない(非-暴力的に否定できる立場にいるわけでもない)。だけど奴隷になるかならないかは自分で判断することだと思う。「仮定された全体」が国家でも市場経済でも情報ネットワークでもなんでも、それが固定的でも流動的でも、仮定に過ぎない。その「仮定された全体の構成者」もゲームに過ぎない。そこに「自分の判断の場/自分のリアルさ」をのせたらマズイと思う(***)。

だけど思うのは、俺が他のなにかに関わってゴタゴタしている、という限り、俺はいつも「ゲーム」と「リアリティ」のコンフリクトの領域で判断を迫られている、ということだ。そこでは「ゲームに過ぎない」という「ゲーム」は、ゴタゴタに食い込んで、相当程度に圧倒的な存在感をもつ。そこではゲームのルールは強く、リアリティのがよっぽどちっぽけだ。

だけどリアリティにいないでどこにいんの?とは思う。そういう場所で花も咲くしヒトも死ぬ。それを失くしたらおよそなんにも残らない(たぶん残るのは、リアリティを失った隷属者としての消滅だけだ)。
国家も戸籍も名前も、水道代も電気代もDNAも給料も、貨幣も言語も血縁も、ゲームあるいはヴァーチャルだということ。そしてヴァーチャルが消滅したあとの世界は茫漠としてて広くて虚無的でまぶしいこと。そういうことを俺は自分でわかっていたい。そして、そこでのいろんな無力さとか怠惰さとか逃避願望とか欲望とかから、たぶん「ゲーム」はでてきたのだと思う。

そういう意味では、ヴァーチャル/システム/ゲームに隷属する弱さを含めて、ここの、あるいは自分のリアリティなんだと思う。だからゲームは安易に否定したり無いことにしたりするものじゃないと思う。だけどゲームの「外部」はおそらくいつでもひらかれている(****)。

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*:そこでの報酬は、奴隷/ゲームキャラ/隷属者の報酬あるいは「利権」だと思う。それがいいか悪いかは別として。だけど俺が求める利権はそれではない

**:ある場合には、その全体性に反対する立場は「なぜあなたはあなたも含めた『全体の福利』を侵すのですか」といわれるのだと思う。反対者が反対するのが、「仮定された全体性」つまりリアルさを奪う「ゲーム」のゲーム性に対してであって個々の福利性でないにしても、その意見は「全体性への敵意=福利性への敵意」と混同されうる。

***:「仮定された全体」がある、ということは、仮定者のスタンスがある、ということだ。しかし「仮定された全体」のなかに「自分の判断の場=仮定者のスタンス」を飲み込ませる、ということは、どこにも判断するものがいなくなる。あとはシステム化した惰性の行動と、システムから外れることの恐怖の感情と、判断を失ったシステムが残るだけにならないか?と思う。この言い方は極端だけど。

****:そういう「ゲーム」とリアルさの入り混じったとこで、自分のリアルさを基調にどうするか、どう判断するかってのが俺には重要みたいです

2008年11月19日水曜日

ももんじゃ

ほんにゃらぷー

ほんにゃらぷー

ほんにゃらぷっぷー、ほんにゃらぷー

(ももんじゃのうた)

・・

・・・

すいません。なんとなくかいてみたかっただけです(゜∀゜;)


ちなみに上の画像は、俺がある知り合いに「ももんじゃ(さん)」と呼ばれている原因となった当のももんじゃです。とさかが生えてるから似てるんだって。
ももんじゃー☆

2008年11月15日土曜日

ぽんぽこぽーん(ジュラ紀の残骸)

みかえしたらひどかったのでかきなおします
失敗したら消滅または元のがもどるでしょうorz
近頃フエふいてないからか、しゃきっとしてないですね・・
フエふくといろんなことがわかります。
しゃきっとしてなくてすみません。歯ごたえのないコーンか

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ものを食べるのは(生理的選択を行っているという意味で)差別的だということ、自分に差別的なとこがあることと、自分に差別的なとこがあるからそれを形式化していい、というのは違うと思う。それは形式の安定性に依存した差別であって、もとのナマの差別とはカタチが違っている。

ナマのことを通過せずにものが動いたり変わったり開いたりするなんて間抜けな話だ。そしてナマのことにはさみしいことも悲しいこともあったりする。それはフツウだし、その意味でマイナスでもプラスでもない。それはいうならポジティブだと思う。

さみしいことを排斥して至れるのは、閉じたハコのなかだけだ。そしてそこでは、他のいろんなことも排斥されている。それがネガティブということなんだと思う。そしてその排斥はフツウに起きるし、「その」フツウに起きることが、他のフツウに起きることを失わせるというのはあることだと思う。

ネガティブでいるのはある意味では安寧だ。それでもポジティブでいることに価値はある(と思う)。それはシビアで酷くてやわらかくてまぶしくて開いてる。それはとてもフツウなことが起きてるのだと思う。

あと、この頃フヌケていたと思いました。いろいろあるけど、学祭が終わって「断片」までかいて、それまで気を張ってたのが崩れてクッタリしていました。カラダが「もうダメぽ」といっておられるので、ダメじゃなくなるまで休んだら、またゴタゴタがあるとこに行きたいです。フツウのことがいっぱい起きるとこに行きたい。
それは新しさもやわらかさもネガティブさも暴力もシステムも含んだ遊びの場を行くこと/変わることだといってもいいと思う、思った

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あ、かきなおしたけどいちばん上の文はけさないどきます。後でみたらなんかおもしろかったww

2008年11月14日金曜日

雑記ぱらぱら(mixiより転載ほか)

この頃mixiでかいた雑記の群れとかです。しばらくしたらこの記事は消すかもですが、近況報告がてら・・・。(殴り書きみたいなのが多いのはmixiがメモのゴミ箱と化しているからでござる;)

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見た。体験は白くて光ってて軽くて暴力的だった。物理的な痛みのない原爆のようだった。摩滅して消し飛んだ。俺はこれを行くのか

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連続とは、断絶の連続のことだ。それはアナログ/デジタル、といってデジタルと対立しながらデジタルに依存して、依存ゆえに囲い込まれるアナログではない。連続は断絶の領域にあるし、それは断絶の連続だ。

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殺すことは言語を絶つことだ。そしてそれは可能なことだ。殺人は可能だしそういう場所にいる。殺人は言語で語れない

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ある固定性をとれば、何もおきなければ論理どおりに(場合によっては「論理」どおりに)進むのだろう。だけどここは論理が折れる場所だ。あるいはその固定性が折れる場所だ。ここの建材は折れた論理と変わることだ、と感じる


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この頃(すごく久しぶりに)マンガをいくつか買いました(゜∀゜)。
読書しないどころかマンガも読まない(他のひとの部屋か立ち読み程度・・・)の自分にはめずらしい感じ。

傭兵ピエール(佐藤賢一、野口賢)
近所のブックオフでみつけて。以前雑誌で第一話だけ読んで、なんとなく覚えていました。

銃夢(木城ゆきと)
これもブックオフで。LAST ORDERという続編もちょっとかった。あ、画像はLAST ORDERの方です。

童夢(大友克洋)
数年前に知り合いから見せてもらったのを、ふいっと思い出して。

とかです。これ以外にもいくつか。前から断片的にもっていたのもあるけど、押入れの奥底に消えてしまったのでまとめてかってしまった・・・。そしてチョコを買ったら俺の財布には100円くらいのこりました。のーん;

2008年10月27日月曜日

断片

ボケたアタマで思ったことです。すっごい極端なんだけど、各国の教育って、ようするに軍隊選抜試験だなあと思った。「バッド・カンパニー」の描写をみたからでしょうか。
富国強兵ってまだ続いてんのか。そういう意味では。しかし軍隊そだてて何を得ようっていうんだろう。日々の糧か、それとも謎のなにかか。
国家も政治っていう名前の戦争、っていう名前の商売やってるわけだし、たいへんだ。そしてそういう意味では、優秀な軍人より優秀な商人のが強さを発揮するフェーズはあるのだと思う。
「利権」を「得る」という面で。

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個人といわれるものにおける新しさや体験や欲望を、非-「社会」的、というのはカンタンだと思う。だけどそういう非-「社会」的なものを生みだすレベルの欲望とか体験から、「社会」といわれるものがシステマナイズされる、という面もあると思う。
その意味で、個人といわれるものの体験を、非-「社会」的、といってしまうのは、それが「社会」的なものもつくりだすことがある、という点で、その体験自体への部分的な、あるいは決定的な否定になると思う。
儀式に飲まれるわけでも、非-社会的になるわけでもなくここに立つ、ということは、そういう分かりやすい否定を破棄してこの場所にいることのような感じもする。そういう面だけではないのだろうけど。

+++

ある面では、個人に求められるのは、なにかの儀式系に拠ってではなく、非システムを含んだシステムのなかで(あるいはシステムを含んだ非システムのなかで)自分の「利権」を「得る」ようなことだと思う。その「利権」はなんでも構わないのだろうけど。そして利権を得ることは侵害する/される、あるいはそういう暴力に関わることだと思う。これをいうには俺には準備が足りなさ過ぎるけど。

+++

システムがどう動いているのか知りたい。システムへのinとかantiとか、儀式に飲み込まれるとか飲み込まれないとか、新しさとか古さとか、そういうものがないまぜの場所に自分で立ってものを判断するのはおもしろい。ガキっぽいかもしれないけど、でもこれはシビアで酷くておもしろいのだと思う。そういうことをきちんとしたい

儀式とか判断とか

手塚治虫の漫画って、主人公が都合よく不幸になるなあ、と思った。
不幸というか「定常状態から放逐されて、もう定常状態には戻れない状態」みたいな。
なんかの事故でカラダがグチャグチャになって、脳を人工頭脳と入れ替えられて「人間」ではなくなった(かといって「ロボット」でもない)とか。これは火の鳥の話だけど。

手塚治虫にかぎった話じゃなくて「『不幸』な状態」って、「幼児の安心な状態」から放逐されるとか、エデンの園から放逐される、とかいろいろあったりする。でもそれって「不幸」なんだろうか。
「不幸」って、なんらかの状態を「幸せ」と位置づけて、それに劣位のものとして与えられる「名前」な感じがする。

この前知り合いの部屋に妙な宗教のチラシがあって、それによると人類はいまハチャメチャなことしてるから、それに神様が腹立てて世界をメタクソにして、その後人類はよさげな生きものとして生きるようになる、みたいなことがかいてあった(うろおぼえ)。

「昔はよかった(のに、誰かさんが「悪いこと」したから今はこんなにダメになった)」も、「将来もっと幸福な世界がくる(だから今は「不幸」なのだ)」も、同じな気がする。

それは何かを時系列という物語のなかに位置づけて、「過去とよばれるもの」あるいは「未来とよばれるもの」に対して、「このごろ」は劣位である。「だから」その「埋め合わせ」をするのだよ、みたいな論理を相手に強要してくる。別に強要している表現はなくとも、「過去または未来はいいものだ」「このごろはダメである」といってくるのは、暗に埋め合わせを求めているのだと思う(手塚治虫の漫画にはよく「その不幸を埋め合わせてくれる相手や異性」がでてくるけど、それこそ相手を人形扱いだと思う。)。

だけど「なにか理想をつくること、そして現在(といわれるもの)を、その理想とのギャップの埋め合わせにつかわせること」、というのはなんかヘンテコでないか。その「理想状態」というのは、「埋め込まれた/埋め込まれる、物語」じゃないのか、と思わなくもない。詳細は本人も分からないけど。

でもその「埋め込まれる物語」を含んだ儀式体系のなかに、誰かあるいは自分自身を位置づけて、その物語とのギャップを埋めようとし続ける/させ続ける、ということ、またそのギャップが埋まったら「めでたしめでたし」とすることは、いま起きていることに対して適正な判断を奪い、その判断を「物語あるいは儀式」のなかに簒奪させてしまうことな気がする。

二つあるのだと思う。
1)起きることというのは、とてもシビアなことがありうるということ。
2)原初的でやわらかい情動や感情には、そのシビアさがとてもつらいことがありうるということ。

だけど、シビアさとかつらさ=「不幸(という位置づけ)」ではないんじゃないかと思う(てか安易ではないのか)。そういうシビアさとか荒廃性とかを、「不幸」とかテキトーな物語や儀式体系のなかに位置づけるとかより、ここで、あるいはここの荒廃性のなかで、いま起きていることに対して(硬直からとかじゃなく、多分だけど、やわらかさがあるところから)適正なあるいは必要な判断をする/していこうとする、という方が、ずっと重要なことな気がする。

2008年10月26日日曜日

memo

とにかく俺は、自分のなかのエリート意識とか特権性をかたちづくっている、自分のなかの儀式体系、あるいは自分のなかの儀式体系の正統性をぶち壊したいです(そういうエリート意識とかは、つまらない逃避や幻想に感覚を向かわせるだけだ、きっと)。
ぶち壊しにできたら、絶対いまよりものがフラットにみえる気がする。

+++

ある面では、儀式系にちゃんと関わる、つまり逃避するのでも飲まれるのでもなく、儀式系の場所にいて、そしてここにいて、そして自分の判断をしよう、ということは、起こることのうち「起こることをないことにすること」に、自分も巻き込まれている/巻き込まれている場合がありうる、という状況を分かる必要があるのかなあ、とも思う。わかんないけど。

だけど儀式にinするのも、antiでいるのも同じことだ。また多くの儀式を「利用する」のも、多くの儀式より「さらに大きい儀式」をもってきているだけだ。inでもantiでもなく、儀式群がある場所、というより儀式群が生じた理由がある場所から、儀式群に対して適切な判断をできるようになりたい。

+++

すこし前に知り合いに「keroさんタフですね」と言われました。どうなんだろう。
でも「タフ」って、すこし硬直してるみたいで好きではないとこもある。あ、中国人はタフだと思うかもー。そして俺は結構弱っちい・・・、にょーん。

雑文8

手塚治虫の「火の鳥」を知り合いの部屋で読みました。それでラカンの話をちょっと思いだして、「手塚治虫ってマザコンだなあ」と思った。

ラカンの話ってのをいい加減にまとめると、ヒトははじめに母子一体の状態があり、そこから「生まれ」て、幼児としてすごし、しばらくしたらいろんな規律が横行する「社会」にでていくよ、そういう過程で色々変わるよ、って話です。すげえいい加減。

手塚治虫がかく男性と女性の出会いは、「社会」から外れた男女が、社会の外部において互いの幼稚で稚拙な情動を受け入れあって結ばれる→だけど結ばれた二人は社会の暴力にひき潰される→でも二人が残したものは生きようとしていく、という感じが多いかなー、と思った。

それって「社会から外れた状態」、つまり幼児と母親や母子一体における結びつきに憧れてて、でも社会の暴力性をないことにはできないから、とりあえずその結びつきは壊れることにして、でもやっぱりそこに執着があるから、その結びつきからでてくるものはまた生きようとする、みたいな感じにしてみたかったのかな、と思いました。ようするに社会の暴力性から逃避したとこの、母親との安心のなかの関係に憧れてたのかな、と。

社会のゴタゴタから目を塞ぎたいだけじゃねえか、アホか、とは思う。でも「安心」に住まいたい、かつ「安心」に他のヒトと住まいたい、というのは感情的には分かります。俺もある意味閉鎖的な場所でそだったので、そこにある「安心」が、麻薬っぽくて強度の高いものだというのは知ってます。ときどき安易にそこに流れたくもなる。

ただラカンの話がホントかどうかはともかく、母子一体のエデンの園みたいな状態とか、幼児のときにかわいがられ(あるいは少なくとも社会に晒されない)で「安心」でいるのって、多少はあるようにも思う。個人的な経験が大きいからなんともいえないけど。

だけど社会といわれるものの暴力性から逃避して、そこに逃げ込むというのはインチキじゃないかと思う(1つには、その暴力には自分も加担しているんじゃないかと感じるから)。それと、ラカンの話(いい加減にしか分かってないけど)によると、ヒトは「社会」にでるときに「社会の掟」や「法」に遭遇し、そこで赤ちゃんなり幼児のときの一種の全能感や全能性を失い、失うことで逆に積極的に「(社会における)自己」を確立する、というのがあったけど、それもどうかなー、と思う。

エデン幻想みたいのもってるヒトにとっては、ここは楽園の跡地というか、廃墟みたいな場所だと思う。そして法とか掟とかいうのは、その廃墟のなかで機能している儀式だと思う。その廃墟の荒廃性や暴力性から逃げるのでもなく、儀式に飲み込まれるのでもなく、単に内的世界を実現するとかでもなく、「ここ」でなにかできる(*:「できる」というと変だけど・・)んじゃないか、少なくともやろうとすることはできるんじゃないか、と俺は思ったりします。

・・・

少し話はズレるけど、幼児がいろいろ思うときって、言葉を覚えたときのほかに、食事をはじめたときのような気がする。ホントかウソかは分からないけど。

+++

(*)
フツーの(?)言葉でいうと、システムとか儀式からトンズラするのでも、飲み込まれるのでもなく、自分の足でここに踏みとどまって、自分のやわらかいとこを含めたとこから、システムとか相手に可能性にチャレンジ、みたいな。なんの可能性か、といわれてもよくわかんないけど。あ、あと「チャレンジ」とかってスポ根みたいでアレですが;

雑文7


この場所ではいろんなことが起きます。わけわかりません。でもすごくたのしいです。いろんな儀式、いろんな暴力、いろんなやり取りがある。起きることが起きるのは、すごくたのしい。そして起きる起きることのなかには、起きることを起こさないようにしようとする部分があったりするのだと思う。それはものを複雑にし、不毛にし、くだらなくします。だけどそれも起きることのなかのことなんだと思う。
1つには、いろんなことを理解できるようになりたい。自分じゃないことのこと、他者、ひどいシビアさや暴力、いろんな感情や情動。儀式にどう関わるか、あるいはまた別の暴力を取るかの判断をしていくか。

2008年10月25日土曜日

雑文6

前の記事にいまは不安定とかきましたが、その状態で記事をかいてます。いいことなのかわからないけど、いまはそこにある自分の焦りとか醜さも含めてかいてみようと思います。

+++

俺はときどき(よく?)変なヒトですねとか、いつも変わったこと考えてるとか言われます。自分では「そうかなー?」という感じなんだけど。でもまあ、自分みたいなヒトが多数派なわけではないことも(経験的に)知ってるので、「変なヒト」と言われるのもいちおうわかる。

こういう(いつも考えたり思ったりしてるような)ことを考えるのは、(いろんな言い方ができて、そのなかの1つの言い方なんだろうけど)たぶん「他のヒトが考えたことのなかで一生終わるのはつまんない」と思ってるかららしいです。裏をかえすと「自分自身で世界を体験してみたい」と思ってるからというか。

何か嫌なことから身を守るために、適当な装置をつくって、その装置を稼動させ続ける儀式をやってそれでお終いとかは、つまんない感じがします。てかあんまりだ。

嫌なことがあってもシビアなことがあっても、逃避から半分あるいは全部閉じたハコのなかに入るより、自分で世界を体験するほうが絶対おもしろいと思ってる。

他にも欲求や欲望(?)みたいなのはあるけれど、1つにはそういうことで動いているようです。単純バカか。いや、ホントは単なる単純バカではなく、単純バカで甘ったれで弱虫でお調子者でエゴイストでアホという体たらくなのですが・・・。

+++

(前の記事とかにかいたような)学祭でやりたかったことというのは、俺の言葉になってしまいますが、以下のことです。

①自分の単純で原初的で素朴なとこから音をだすこと
②新しさへ踏みだすこと
③自分がいる場所でできることをすること

そして思ったのは、特に①のこと。単純で原初的で素朴、というのは、言い換えれば「子ども」というところがあると思います。年齢が幼いとかそういうことではなく「ある原初的な情動群」みたいな。
俺は自分のそういうところから音をだそうと思っていました。だけどそれを「(自分の)子どもみたいなとこ」を「確保」した上でやろうとしていた、と思ったのです。

「確保された/されうる、子ども(みたいなとこ)」というのは、つまり何らかの(社会)システム系を想定して、そのなかで固定的な場所を与えられた子どもらしさだと思います。それは言い換えれば、子どもらしさを「庇護」するシステムを想定して、そのなかに閉じこもったものでもあったし、また別の言い方をすれば「固定性」を保とうとした分だけ、それを侵害するものをシャットアウトしていた、あるいはそれを侵害するものを侵害していた、ようなものだと思ったのです。

それは言い換えれば、その「想定していたシステム系」を、自分が(ある意味では本来的に)確保できるものだとし、それを確保するための行為をどこかでしていた、ということだと思います。
何かに「本来性」の名を付し、それを保つために行為をする、というのは、その「本来性」として想定された一種の「ご本尊」を維持し続ける儀式だと思います。

だけど、それが儀式ならば、すべての儀式がそうであるように、それは社会的歴史的構造的な産物です。飛躍はあるけどそうだと思う。それがどれだけ個人的なもの(あるいは儀式)であれ。

それを自分にとって「本来的」だとすることは、自分の足場をそこにゆだねていることだし、自分にとって起こす以上の侵害を引き起こしていることだと思ったのです。それはよくない、と。

いまスタンスが不安定なので、ある程度の妥当性を感じていえるわけではないけれど、社会的歴史的構造的な産物というのは、あるいは儀式というのは、それによって自分のなにかを「確保」していいもの、するものではなく、それがどういったものか判断し、それとジタバタしながら、そこで自分のやり方を展開していくものだと思います。「展開」っていうのはどうかとも思うけど。

子どもらしさを「やわらかさ」とかいうなら、俺は自分のやわらかさを、儀式によってではなくジタバタするなかで維持できる程度に維持しながら、あるいは生じる程度に生じていくなかで、いろいろやりたいと思っています。その「維持できる(あるいは生じる)程度」は、とても0に近いかもしれないし、ほとんど0なのかもしれないけど。

やわらかさを失って不毛とか不感症になるのは嫌だし、そうなるべきじゃないと思っているけれど、つまらない儀式を使って維持したやわらかさから動くことは(強い言葉だけど)ゴミだと思ったのです。

そんなこんなで、いまはスタンスが不安定だけど、いろいろ試行錯誤しながらやってみたいと思っています。ここまでの文からだと脈絡なさすぎるけど、例えばなぜ社会システムとか経済システムが動き始めたのか、そしてとりあえず現在こう動いている/動こうとしているのか、とかを知ってみたいと思っています。1つには。そしてはっきりいろんなことを体験してみたいです。

ああ、もう(雑文5:mixiより転載)

どうして俺はこんなにバカなのだ。己のアタマの悪さにもっとバカになりそうだ。ちょっとかしこい幼稚園児でもしってることがわからん。つまり

①どのようなものも、あるいは相当程度のものは社会的歴史的構造的産物であり
②俺はアホ丸出しでそこに立ってる、あるいは立とうとしたがってる

ということがわかってねえ。俺がアホなのはそうだから②はおいといて、①がわかってねえ、わかってなかった。一体何歳なのだ、まったく

+++

【追記】

学祭がおわってから、どうやら不安定なようです。

学祭で、それまでやろうと思ってたことをやって、なんだか少しできた感じがしたこと。それと、それまでやろうと思ってたことに、スタンスとしてすごく甘さがあったなと思ったこと。

この2つを自分で感じたことで、自分のスタンスみたいなのを壊したり組みなおしたりで、今ゴタゴタしてる最中です。学祭後に体調くずしたのもあったけど、それはそんなに大きいことじゃなく、上の2つのが自分のなかでは大きい感じ。
いまは足場があんまり無くて、感覚のなかで試行錯誤してる感じです。足場が無いぶん不安定というか。こういう、不安定さのなかでの試行錯誤はきらいじゃないのだけど。

不安定なときは焦りがちですが、焦って動くとやっぱりいろんなことがズサンになってしまいがちです。いままでの経験から判断しても。
だから、自分のなかにいろいろやってみたいことはあるけど、できるだけ焦りからやらないようにしようと思います。

しばらくのあいだヘンテコな姿をみせるかもしれませんが、(何をというわけではないけれど)ヨロシクオネガイシマス・・・。

2008年10月22日水曜日

雑文4

このごろ思ったけど、論理的=整合的、ではない。
俺は整合的なのは好きだけど、論理的かどうかはどうでもいいと感じることが多いようです。

+++

むしろ「論理」を基盤付けるために、ある類の整合性を失ったり、非整合性に譲ったりすることの方に違和感を持つ。ある類の、というのは、自分にとってごく素朴で単純な感じ方(における整合性)、みたいなの。

+++

この「雑文」シリーズは、学祭の準備をしてるあいだにすこし形になったりならなかったりしたことを、思いだすでもなくなんとなく書いているものです。文体にすこしリアリティが低いのはそのせいです、1つには。
未定ですが、10月のあいだはこのシリーズで書いてるかもしれません。

2008年10月21日火曜日

雑文3

この頃「貨幣」とか「商品」という言葉を(勝手に)つかったりします。
100円玉とかだけじゃなく、言葉もある面では貨幣だと思ったり。

100円玉は、100円玉が意味のないとこだと、ただのぴかぴかした金属片だと思う。ジュース買えない(; ;)、ジュースは120円だけどww

なんだろう、自分が「貨幣」っていったりするのは、「ある価値体系のなかで意味があるとされる断片」みたいな感じです。そして、貨幣に価値があるのは、支払いの対価が得られる限りにおいてだと思う。

たとえば外国で100円いれても自販機からジュースでてこないし、レート交換がなければ100円はてんで価値がないす。「ぴかぴかした金属片」を自分がどう思うか程度の価値しかないというか。

そして、ある種の言葉、ある種の枠組みというのは、そういうものだと思う。
たとえば「人間」という「概念(?)」が得られる「価値」というのは、それがある体系内で価値付けされている程度の価値でしかない。そういう意味で、「人間」というものは「貨幣」だと思います。

外国で100円が意味が無いのと同様に、たぶん「人間」という言葉も、それが異質な他者には意味が無い、と俺は思います。そしてそういう(←特定の価値体系における「貨幣」が、その体系にとって「異質なもの」には意味をなさない)ところで、「人間」という言葉とか、別のいろいろな言葉があって、100円玉があって、お金の体系があって、経済が動いているのだと思います。

なんだろ、ある面では100円玉には金属片の価値しかない場所で、それでも100円玉に100円の価値が与えられ、ゴタゴタ機能している、というか。
そういう場所の異質さとか、暴力的な「貨幣」の流通性とか、逃避とか、成り立っている構造とか、欲望とか、コンフリクトとかを、もっとよくわかるようになりたいです。

あと、言葉をかけるときに、相手が「特定の価値体系の内部にいるもの」だと規定して言葉をかけるのは、相手の異質さにすごく向き合ってないことだと思う。

+++

ところで「宇宙論」ってなんだか胡散臭いです。
「あるかないか謎だけど、とりあえず名前をつけて」みた、「宇宙」という名前の「貨幣」を、その貨幣が成立する価値体系の内部の言語で語ろうとしている感じがして。なんか論理が循環している気がする(*)。無限の鏡みてるみたいな雰囲気です。

+++

(*)
1つの言い方をすると、宇宙論とかのやり方は、「宇宙」という「自分(あるいは話者)」を含む「安定的な」地図やモデルを措定して、その「モデル上」で「これこれこうだから」「実際もこうなんじゃないか」というものな気がします(この言い方もモデル的だけど)。

俺が疑問に思うのは、その地図またはモデルの「安定性」についてです。やっぱりモデル的なことをいうと、仮に言語が貨幣的であり、貨幣とは異質さを含んだ、異質なものたちの通貨だとするなら、その価値あるいは安定性は流動的なものになると感じる。

その流動性を見失って、「この言語は○○によって定義されるからOK」という態度を取り、その言語が示すモデルのうちに住まおう、あるいは何かを「説明」しようとすることは、異質さを巻き込みながら貨幣が生成とか流動していく暴力に向き合うことから、決定的に逃避している感じがします。

その逃避を隠して、話者を含むモデルのうちにモデルを説明しよう、というライン取りを「(あやしい)論理の循環」と感じるのだけど。話者自体がそのモデルのなかにどっかで取り込まれてるみたいだし。

2008年10月20日月曜日

雑文2

言語には、条件を審査してくるタイプの言語があると思う。「この言語を使うには、あなたは自分が○○の世界に住まうものである、ということにしなければならない。ところであなたはこの言語を使いますか?」みたいな奴。ある前提とか世界観にのらなければ、その言語を使えないようになっている言語。

例えば裁判所の弁論だと法(の世界観)とか、数学だと排中律と無矛盾律とか、科学論文だと実証性(反証可能性)とか。

こういうのって、一面ではなんだか会員制の公園みたいで変だなあと思う。公園の会員にならないと、その公園が使えないの。

遊ぶのがなんでもかんでも自由だ、とはいわないけど、会員権を得てその公園で遊ぶようになるのは、なんだか自分の足で公園に立つのではなく、その制度を成り立たせている権能に服従して「遊ばせてもらってる」感じもします。その公園で遊ぶのがどんだけたのしくても、会員権をもらって「システムの庇護」のなかで遊ぶ時点で、それはどこかで嘘の遊びじゃないかと思う。

ときどきどっかにある「こどもの国」みたいな名前のついた公園にも、似たような薄ら寒さを覚えます。「それ『自称大人』がつけた『こどもっていうもの』の『国っていう名前の囲い』でしょ」みたいな(*)。

ただ法や学問とかは、一種の論証技術だし、その論証の強度をもって遊びとか何かとかを確保する、という方法があるのは分かります。そこらへんがどうなってるのかなー、とは思う。
そういう意味では、論証的言語(言語の論証性?)がもつ、闘争性とか、(その勝ち負けの結果の)序列性も気になります。あ、ちなみに闘争や序列がよくないとか思ってるわけではない・・。必要なこともあると思う。

それと、論証性のあれこれは(自分がわかってないので・・)さておき、論証の持つ「誰かに対しての論証」という面を欠いた「条件のいる言語」は、どこにもいけないと思う。ただ自分自身を成立させる恣意的な条件(←正しさみたいなの)のうちで自足するだけで。

+++

(*)
そういう意味では、法とかも「『自分たち』のために『自分たち』でつくった『自分たちの囲い』でしょ」と思う。だけど「囲い」がなくては、暴力に晒されることになる、だから「囲い」をつくる、という感情もわかるし、単純に否定するつもりはないです。
だけど「囲い」を持ちださざるを得なかった弱さや暴力を否定して、囲いの正当性を言いだすのは、囲い自身を成立させたときの原初的な感情や感覚を失って、囲いの正当性のなかに鈍磨と一緒に自足することにも感じます。

序列(@熱)


たとえば教育とか農業って「計画的に」行われる。基本的にそうだと思う。そこでは計画により適切、より従っている方が「序列的によい」とされることが多いと思う。いっぱいとれる作物や家畜、いい業績や成績をあげる人物、とか。

だけど「計画」が選ばれるのは、1つには生存における弱さからだと思う。豚が「生産的に」殺されるのも、子どもが「教育」されるのも、ある面ではその弱さのゆえかもと思う。

そしてその弱さのまえにあるのは、「計画と序列」だけでなく、この場所の暴力性(荒廃性?)だと思う。荒れ地とか。荒れ地はすきです。

2008年10月19日日曜日

雑文@熱

学祭から体調を崩して、いまも熱がでてます。喘息でてるしorz
なんか浮かされてるかも。雑文です。

+++

学祭でフエを吹いた。そうじゃないこともしたけど。
いろいろあるけど、その時自分にとってフツウなことができた感じがした。
自分の弱いとこから、この場所に立って、何ができるか、ということ。

なにか「特別なこと」がある/あった、からじゃなく、よかった。

一緒にでてくれた人、きいてくれた人、ありがとうです。

+++

この場所が、天からパンの降ってくる場所、生きようとするもの(のポジティブさ)がそのまま生かされる場所だったら、言葉とかいろんなものは生じてない、と思った。
ここが天からパンの降ってこない場所で、生きようとするものが引き起こすネガティブさがあって、それでもそのネガティブさをこえて通過したいものがあるから、言葉とか構造とか、いろんなものがあるんじゃないかと思った。

+++

ところでこの頃昼間生活(わりと)になりました。
だいたいいつも試行錯誤してるけど、昼間生活になってからまたしてます。
いろんなことが起き過ぎて、自分の理解がおっつかないけどたのしいです。

2008年10月14日火曜日

事務(?)連絡

きのうケータイを落として壊れた(; ;)ので、keroにはしばらく電話とメールは通じないす。カナシス
某サークルには(なるたけ)現れるので、なんかあったらそっちでどうぞです

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【追記】
あ、「サークルでは遅いのだよ」とかのがあれば、プロフィール欄にのってるパソコンアドレスまでドウゾ・・。

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【再追記】
代用機をゲットしましたー。これで連絡はつくです、きらーん☆。しかし代用器のアドレス帳は現在白紙・・・;。あと関係ないけど原付パンクしました。修復不能なのでタイヤ交換ですと。カナシス(; ;)

+++

【再々追記】
どうやらなおった模様です。近日中にもらってきまーす☆

2008年9月23日火曜日

追記的雑記(近況報告)

1つ前の記事にもかきましたが、HELLSINGというマンガを知り合いのやつめ鰻氏から借りて読みました。
ハマった、というのと違うけど、よかったです。いろいろ思った。
なかにでてくる、「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保障してくれるというわけだ。よろしい、ならば私も問おう。君らの神の正気は、一体どこの誰が保障してくれるのだね?」というセリフがすげー好き。

+++

近所の床屋に髪を切りにいきました。「寒くなってきたからちっと長めで」といったら、どんぐりボウズにされました。床屋のおばちゃんは温かい人だけど、俺のアタマは寒くなってしまった・・・

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10月の学園祭で長い葦の管を吹くことになりました。下の動画の2分4秒~2分38秒くらいで鳴っている、葦の管を束ねた楽器です。

AWATIÑAS - WARA (Carnavalito)

これがおよそちゃんと鳴りません。動画にでてくる黒髪もふもふの人たちをみて「俺はこんな髪型してる奴より吹けないのか」と思ってちょっとくやしい。しかし彼らはみてておもしろいので(髪型とか)、まあいいかという気分

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上の動画の黒髪もふもふの人たちはAWATIÑASというのですが、彼らがやってるNegra bandidaという曲が、なぜか俺のなかでHELLSINGの曲になり、この頃ずっとブームです。なんだかひたすら聴き続けてます

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学園祭のため昼型生活に切り替えようと思い、昨日は夜の12時過ぎに寝ました。そして目覚ましもかけずに4時に起床!!俺ってばすごいかもー、と思ったりしていろいろ用事をすませ、さすがに眠気もあったのでお昼にちょっとだけ昼寝したら、起きたのが夕方6時前でした。ガッデム(死
なんだかこの頃カラダが休憩モードみたいです。バイオリズム(?)みたいなものの低調のとこ

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ところで今は空が晴れていて星がきれいです。
空気が肌寒くてちょっと澄んでる

2008年9月22日月曜日

狭さについて:進化論?

いまいるとこ(茨城県)にきてからですが、ちょっとだけ生態学や進化論をかじりました。俺の話にはよく「狭さ」という言葉がでてきますが、そんな話です。進化論といわれるものに対する自分の判断というか。

俺は進化論みたいなものを、ある一面から簡略化すると以下のように捉えています。

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1)ある場所に、100人の大人がいる。
2)そのうち50人が死んで、50人が残る。
3)残った50人から、100人の子どもがうまれる。
4)子どもがそだって大人が死んで「1)」へ戻る。

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話を単純化しすぎてるのはわかります(例えば3)では、残ったのがオス25人メス25人で、それぞれカップルを組み、各カップルから2人づつ子どもが生まれる、みたいにしてるし)が、でも複雑な話(形質伝達、組み合わせ、環境圧、変異など)にもつれ込んでも、俺の判断は基本的にこのラインにあります。

そして俺が「狭さ」というのは2)の局面です。100人のうち50人死ぬのは色々あると思います。事故死とか、何かに巻き込まれたとか。しかし、いちばんの原因は「お腹がすいた」からだと思います。100人がみな生きようとして、しかしエサがないから、他のものを「エサ」にして食べた、というのがいちばんの原因だと思います。

だったら豚飼えばいいじゃん、という話はナシで。ここでいう「100人」は、ヒトでなく、そこにいる生きものの総数と捉えたようなものです。100人以外に生きものはいない(微生物くらいはいるかもだけど)。

(ついてにいうと「資源が無限にあればいい」というのも、この話ではたぶんナシです。どれだけ空間が広くとも、それらは勝手に湧いてでるわけではないと思う。勝手に湧いてでるわけではないものを、「これは『○○だから』つかって『いい』んだよ」というのは違うと思っています。)

100人は、あるいは殺された50人はみな、他のやつの「エサ」になるために生まれたのではない(そういえばこの前、知り合いの外国人が話すのを聞いていたら、「クジラは喰われるために生まれたのではないから殺すのはかわいそう、だけど牛豚は食肉のために育ててるんだから食べてもいい」といっていて、「宗教」的だなあと思ったことがあった)。

だけどみな「腹が減る」から、一部が「エサ」になることもある。進化論というのは、ある一面からみればそういうものだと思います。棲み分けとかエコとかいったところで、この関係から逃れることはおそらくできない。その「みな腹が減る」「だから」「一部が殺される」ということを、俺は「狭さ」といいます。そしてこの「狭さ」に関して思うところがいくつかあります。

1つ目。俺は政治思想とかはとくにもってないヒトですが、「共産主義的な主義」はきらいです。たぶん語の一般的意味ではなく。
1つには、誰かが「共ニ産ズル」といいはじめたときに、その「共というカテゴリに入るもの」が生きていくために殺されるものがでてくることを免れないと思うから。それって「共ニ産ジ」ていないだろう、と思うのです。
ある面では、ここは誰もかれも天から食料が降ってくるユートピアではなく、むしろ共食いの地獄に近いと感じます。そのなかで「共」というカテゴリを作り、そこで相互不侵犯を「主義」として約束するなら、「共」のカテゴリに入らない「他」のものを侵犯して「エサ」にする必要がでてくる。
それは「全体に対する『共産』ではなく、結局エゴを満たす仲間内だけの『共産』」じゃねえか、と。このやり方は、結局どこかに「エサにされるもの」を「決めて」そこから奪い続けなければ成立しない、名前と行為が矛盾したやり方だと思います。「暴力的共産主義」なら話はわかるけど(というか、実際とられてる「主義主張」って「暴力的共産主義」が多い気がする)。

2つ目。カマトト(←果てしなく死語;)は無理。カマトトってのは「いい子ぶりっ子(これも死語orz)」ってやつです。どれだけ弱くても、惨めな立場にいても、他のものを喰って生きようとしていることには変わりないと思う。それを「ぼくは弱かったんだから仕方なかったんだよ」というのは言い逃れだと思います。このごろ某所からかりて読んだHELLSINGというマンガに「鉄火をもって闘争を始める者に人間も非人間もあるものか」というセリフがありましたが、「(「狭さ」の逆の状態という意味で)広さ、あるいは腹をみたすこと」の奪いあいに関わるものに、何かを理由にした(弱いから、人間だから、○○だから、喰っていい、あるいは「きれいな場所に守られていていい」みたいな)言い逃れは欺瞞だろうと感じます。
(第一、「なに」に「守ってもらう」と言ってしまえるのか謎です。それは自分の代理人の手を汚させ、自分はきれいなフリをするということのように感じます。「守ってもらっている」じゃなくて「代りに手を汚してもらっている」の間違いじゃね?と)。

3つ目。「『どのようなものが生き残るか』は前もって決定しがたい」。これはここまでの文脈でだすのに無理がある話ですが、とりあえず書いときます(本人もホントははっきり分かっていません)。
次にくるものが喰えるかどうか、というのは謎です。今までのやり方を踏襲して喰えることもあるし、そうでないこともある。「今までのやり方に基づいた物差し」は、次に物をはかるのに役に立つかは分かりません。もし「今までの物差し」で「次のものもはかれる」と無判断に思うのならば、それは次のものを見ずに聞かずに触れずに、「これはこういうものだ」と思い込み、その思い込みのなかに閉じることだと思います。

4つ目。そして、「腹がへる」「腹をみたす」というのは比喩です、「喰う」も。
「腹がへる話」をあるやり方で敷衍すれば(敷衍するには単純化しすぎだけど)、利権の争奪、空間の奪い合い、道を歩いて草を踏みつけること、ものを食べること、誰かの発言をさえぎることetc.に幾分かは関係する話だと思っています(強引なとこもありますが・・・)。政治も経済も、きれいごとではなく、狭さの、あるいは広さの取り合いみたいなとこがあると思う。だからここまで書いてきたのは、実は進化論では全然ない面をもってたりします、たぶん。

5つ目。長い。もう本人も疲れてきました。ここでやめます。
ときに生態系(といわれるもの)は調和的、といわれたりしますが、調和というのは平和とは全然違うものだと思います。それは闘争も簒奪も含み、暴力的で、広く、穏やかさも醜さもあるものだと思います。
俺の個人的好みですが、そういうものを「これ(あるいは次にくるもの)はこういうものだから」という物差しの空虚さにのっかって語るより、自分の足で地面つかんで、起きるものをみたほうがおもしろいと思う。

2008年9月20日土曜日

追記的無題(名前について)

えーと、前の記事に書いた「誰かオレを幸せにしてくれー」についてきかれたので、それについてのことです。
あれは徹夜明けのアタマで壊れてかいたので、実質のことではなく、およそ冗談みたいなものです。

ところで果たして俺は幸せなんでしょうか、よくわかりません。
ただ、その基準ではおそらくものを考えていないです。
そのように感じることもあるし、うれしいことも、苛立つようなことも、傷つくようなこともあるけど、幸せ/幸せじゃない、と考えると、「幸せ」という「きれいなハコ」のなかにいろんなことを閉じ込めてしまうようなので。

印象ですが、ものはみな仮のものだと感じます。もちろん痛みや感覚、いろんな感情はあるし、それが空虚なものだというのではないです。実体的なんだと思う。
そうではなく、例えばAがBにとってAで、BがAにとってBだというのは、仮のことだという話です。
何か絶対的な基準点があり、それに基づく記号系のなかで、AはAであり、BはBであるから、『AがBにとってAで、BがAにとってBだ』というのではないのだと感じます。

雨のなかで見てそう思ったのだけど、例えば傘は、それが壊れるまで傘です。それをさす人にとって、それが壊れるまで「傘」です。「傘」という名前をもち、機能する針金やビニールなどの「部分の寄せ集まり」です。
それは、なにか絶対的な基準点があるから「傘」なのではなく、さす人が「自分が求める機能にとって信頼に足る」ものだからその人にとって「傘」になってるんだと思う。
それは『傘』という「部分の寄せ集まり」に先行する『絶対的概念』があるから「傘」なのではなく、さす人の求めるものに応える限りにおいて「傘」なのだと思います。

だけど傘は壊れることもある。つよい風に吹かれても、車にひき潰されても壊れます。振り回しててもときどき壊れるけど。
「そしたらそれはもう傘じゃないのか?」
これに答えるのは難しいです。というより、それは使用者がその「壊れてしまった部分の寄せ集まり」に対して投影する信頼の程度によって、壊れてしまったものか、「傘」なのか、決まるのだと思います。

そして信頼を投影するには、投影するものにとってある種の意志が問われるのだと思います(強い言葉ですが)。つまり「絶対的な基準点が『ある』わけじゃないし、その点を基準にした完結した記号系が「ある」わけでもない」「しかし、俺はこれを「傘」と呼び、そのように使う/使わせてもらう」みたいな意志が。
(そこで「絶対的な(場合によっては相対的な、でも)基準点」を設置した、「だから」おまえは○○なのだ、というのは実質空っぽなものを先行的にあることにして、空っぽを基準に相手を示す行為だと思う。「基準が空っぽな分」を勝手に相手に押し付けて相手を示すようなインチキ行為。)

「(壊れてしまうかどうかわからない)部分の寄せ集まり」が使用者にとって「傘」であり、AがBにとって「A」であり、BがAにとって「B」である、というのは、「信頼を投影する/投影させてもらう」という意志が問われることだと思います。(意志をもた「ねば」ならない、というどこかに規範系を作ることではなく。正直、弱さも逃げもあるし、それがズサンさを生じさせてしまうとはいえ、それはありなんだと思う。てきとうと言えばてきとうと言うかも。)

実体はあると思う、「部分の寄せ集まり」には。それは痛みを感じ、好意をもたらし、残酷なこともうれしいこともあります、少なくとも俺にとっては。
だけどそれが「名前として」も「実体」であり、出来事はみな「きれいなハコ」のなかで起きている、というのではない、と感じます。
部分の寄せ集まりになにかを読み取り、それを信頼のようなものとして投影し、それを「相手」とする/させてもらう、のは、当人の意志の問題だと思う。それは(こう呼べばこう応えてもらえる、ということが)保証されているわけでも、安全安心なわけでもなく。

幸せかどうか、という基準では、たぶん俺はものを考えません。「自分は(例えば○○がいて)幸せだ」といったとたんに、相手も自分も、意志を欠いた「きれいなハコ」のなかに閉じ込めてしまうようで。(そしてそれは相手を、実質的に貶めてしまうようなものだと思います。そんななかで麻痺した安心に入り、それを侵犯するものは無判断に「汚いもののハコ」に横暴に押し込むつもりは俺にはないです。)

そんなハコのなかで、意志を欠いた「名前」をただただ捲っていることより、俺は、暴力からトンズラせずに、それでも会いたい相手にちゃんと毎回会いにいくことがしたいです。起きることが起きるとこで、気持ちから相手の名前を呼びかけるのならちゃんとしたい。いろいろ変わっていくのかもしれないけど、いまはそう思っています。

2008年9月19日金曜日

中間発表

もう少ししたら卒論の中間発表があるということで、レジュメをかきました。
正直、ぶっ壊れかけで立ち枯れしたアタマでかいたので、いろいろ欠陥ある感じですが、例によって晒してみます。
これを教員に送って、訂正されたものが中間発表の資料になる、つもりです。
卒論は、どこまでいけるかわからないけど、自分が思うことをかいて、いきたいとこまでいけたら、と思っています。

・・・

というかつかれたよー。ばかー、ばかー。誰かオレを幸せにしてくれー


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暴力論


Ⅰ.問題の所在

力と暴力というのは、人間の行う活動において不可避であり、ほぼ根源的な領域における関係や営為といえる。なぜなら、それらの関係、それらの営為は、我々が他者との関係を切り結ぶ際の躓きの石でもあり、また同時に切り結びの際の要石ともなるからである。
他者との関係は、広く捉えれば社会的関係の部分であり、力や暴力がそこに関連する以上、それらを語り、それらを生きるうえで、力や暴力に関する問題は必然的に避けがたいものとなる。
尤も、それらはほぼ根源的だが本質的ではない。より本質的なのは、営為そのものの切り結び、すなわちコミュニケーションの問題である。我々が、他者と関係を切り結んでいこうとする、というその行為こそ我々の活動の本質の一部であり、この論で扱う実質的なテーマである。
そしてそうであるならば、暴力に関する問題は避けて通るべきではない。なぜならば、暴力を経ずに切り結ばれる関係とは「過去にすでに契約された関係」の再確認に過ぎない。他者と「新たに」関係が切り結ばれることが試みられるならば、それは保証を欠いた試みとなる。保証を欠いた試みは、ひとつの問のなかに、あるいはひとつの問へと投げ開かれる。この投げ開きこそ、この論で意味する暴力の1つである。これを欠いた関係、暴力を経ずに切り結ばれる関係は、実際のところ「過去に結ばれた契約の内部」において、すなわち外部への関わりを欠いて行われたものに過ぎない。外部への関わりを欠いているのならば、それは「内部」の無判断な反復である。
もちろん関係は、内部にとどまることもあるし、外部と「新たに」切り結ばれることが試みられることもあるだろう。しかし無判断な内部の反復は、その実外部からの閉鎖である。それはコミュニケーションではなく、むしろそこからの逃避と麻痺である。
この逃避と麻痺を引き起こす暴力がこの論の意味するもう1つの暴力であり、この逃避と麻痺から引き起こされる暴力が、また別の暴力である。
本論はこの3つの暴力の問題を軸として扱い、システム、言語、教育などの、いくつかの抽象的かつ具体的問題を読み込みながら、最終的には力とコミュニケーションとの問われようを扱う。

Ⅱ.方法

文献研究の方法を用いるが、実際の論の展開は社会科学に近似したものを用いる。
すなわち、経験とデータに基づく実証的な方法、いわゆる経験科学の方法論ではなく、仮説的で条件的な推論に基づく論理展開の形式をとる。
これは本論が、経験科学の方法論が立脚する前提の成立条件、言い換えれば前提という「契約」の成立可能性から問うていく、という傾向を持つことによる。(それ自身が問いの対象とするものを、それ自身の基盤にすることは、論理の展開に齟齬を生じさせるものであり、適切ではない。)


(進行状況、参考文献は略)

2008年9月14日日曜日

無題(mixiより転載)

俺はやりたいことがある、最速で、ここを行くこと、ここへ行くこと。先へ行くこと。
俺のやりたいことはなんだ?
俺はここが好きだ、醜さも汚さも含めてだ。
俺はここを行くことが好きだ、新しさも鮮やかさも含めてだ。
死人に邪魔されるのはガマンならない。
世界は力で切り開いていくものだ。
切り開くことは行くことだ。行くことはものを踏みにじることだ。
ここを行くことはここを踏みにじることだ。
俺はここが好きだ、俺はここを行くことが好きだ。

+++

生態系は自分自身を喰って成長しつづけようとする。
それは自身に隷属して、自身に君臨しようとするものだ。
醜くて汚くて純粋で子どものような衝動の行為だ。
それは鏡ではない。それは鏡を含んでいても、それのつなぎ目をつなげるのは暴力だ。

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技術は飼いならしだ。技術に隷属してなお技術を求めたのは、隷属してでも求める地平があったからだ。遠くにいくこと、ここにいくこと。

2008年8月18日月曜日

無題

社会的、あるいは非社会的な記号であれ、どれほど積み上げても、ある不安に対して安全を保証したり確証したりするものにはならない(これは一般化できないけど、おそらくそうなんじゃないかと思う)。
そういった記号の積み上げは、誰かの不安に対して、その不安をベースとする論理サーキット(*)の条件を満たすことに付き合っているだけであって、その不安に向き合っているわけではない。
過去のようなものを振り返る、ということだけではなく、あのとき俺はどうすればよかったのか、と思います。


(*)造語です。論理の袋小路の一種類。6を左に90°ひっくり返したようなかたちを想像してます。
そこに入ると、固定されたことにされた圧の惰性でくるくる回り続けるもの。出口(6のアタマみたいなとこ)はあっても塞がってたり。解除(破壊)されることも。


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すこし硬直した位置からの推測になるけど、応えることは、ここにいることを選択することだと思う。だけどその選択を選択するのは、「論理サーキットに付き合う」ような真似じゃなく、あいてや贈与に向き合うところ、いいかえればひとりの場所からじゃないか

以前にもかいたけど、季節が動くのを体験するのも、誰かの気持ちに向き合うのも、そういうひとりの場所、あるいは責任転嫁しない場所からだと思うよ、自分は

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【追記】

いろいろですが、ゆっくりと澱みたいな圧を解除しながら、ものを感じられるレベルを落とし込んでいこうと思います・・・

2008年8月16日土曜日

ability


例えばableでなければ資格がない環境とかで、dis-abilityの烙印を押されるのはつらいよなあと思う。だけどものができるようになるのは、ホントはたのしいと思うし、いまどれだけdisでも、そこからたのしくやっていいと思う。子どもや期待ってそういうものだし(ふざけた話なのは、disが能力ではなく、感情に「先取り的に」つくことだと思う。遊んでる子どもからヒステリックにその行為を簒奪するようなこと。何かの感情が決定的に取り合われないことetc.)。

実際、「ableでなければならない」っていう圧があることで、ダメになってしまうableはいっぱいある。それこそいっぱいいっぱいある。
だけどableでなければならないことなんか、ホントは極々わずかだし、そういったものは「ableでなければならない」というyes/noの決定が意味のない領域のじゃないかと思う。例えば好きな奴を悲しくさせないこと。限定的な関係だけに限った話ではなくて

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この頃なんだか更新のペースが早いのと、ちょっと視野が狭い感じの記事があるのは、俺が自分の冷静さを解除してきてるからです。今まで感情的になり過ぎそうなとこは、できるだけ冷静にいこう/やろう、と思ってたけど、その冷静さ、言い換えれば一種の客観性に疎外されていた部分もあったと思うので、いまはそれを解除しています

卒論のこと

自分が育った環境では、固定された硬直から、俺の話をまったく取り合わない人に囲まれていた。それはとてもひどい場所だった。

卒論では、俺は「硬直ゆえではなく、構造的に『話がきかれない状況』をどうするか」ということを扱おうと思います。言葉遣いはこれとは違うとしても、構造としては同じものになると思う。
だけど多分、固定された硬直というのも、「構造的に『話がきかれない状況』」のなかから生じたものなんじゃないかと思うとこがあります。

だから俺が扱うことは、敷衍すれば固定された硬直まで及ぶことになるかもです。だけどそれでは今の俺には荷が重いので、言い換えればそこまで話が及ぶと俺のスタンスが硬直してしまうとこがあるので、まず上記のことを扱おうと思います。
もしかしたら、固定された硬直まで話が及べるかもしれないけど、今はできるとこからやってこうと思います。

プライドって


untitled #1 (vaka)

プライドってあんまり好きじゃなかった。自分がひどいカタチで持ってたのとかで。でもいまはそうでもないとこもあります。

ホントのプライドって、自分のことを好きでいたい気持ちとか期待だと思う。
それが折れたり潰されたときに、パターン化した「自分は○○な(例えば優秀な)はずだ」っていう、硬直したものがでてくるのだと思う。

(ホントはそういうときは、がんばったのだから休んでいいと思う。休むことが許されずに、硬直せざるを得ない状況は、とてもつらい場所だ。俺がアクセスしようとしているのは、そのつらさがどう向き合われ、どう解除(?)されるか、ということでもある、たぶん)。

自分のことを好きでいたいという期待はあっていいと思うよ。
何かができなくて悲しいのは、硬直したプライドが傷つくからじゃなくて、その底にあるやわらかい期待が傷つくからだと思う。
だけど実際重要なのは、できる/できないじゃなく、少なくともそれだけじゃなく、やわらかい期待が受け入れられることじゃないかと思う。

今の自分には分からないことが多いけど、パターン化された「プライド」を、パターン化した行為で保持したくなるのも分かるけど、でもそれだけじゃないとこを向いていいと思う。

予感、あるいは推測でしかないのだけど、ものが通るラインはある、と思う。でもそれは圧も鬱屈も、そしてときには硬直も含んだラインだと思う。それはパターンで押し切ってしまったらダメになるとこがいっぱいある、きっと。

・・・

そういう意味では、「健全なパターン」を探すより、パターンが破綻してしまうところを見ろよ、と思うこともあります。

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画像が再掲なのは気にしないで・・。keroは持ちネタが少ないのです。あと、この記事にはこれをのっけてみたかったというのがありまして

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【追記】

何かができなくて悲しい、というのは他にも、それができないことで、自分のやわらかいとこからなにかに関与することが硬直してしまうからだと思う。
でも、何かができたとしても、やわらかいところから関与することが硬直してるなら、それってやっぱり悲しいんじゃないか。
いや、できるようになるのは基本的にたのしかったりうれしかったりすると思うけど。

2008年8月12日火曜日

実家にて②

さっきばあさんや母方のおばに会ってきました。
(うちは共働きだったので、小さいころ俺はおばとばあさんに保護されていました。弟も)
その話を弟と二人でしたのだけど、過去のことだけど、やはりおばはせっかちで、結果ばかり欲しがるところがあったな/あると思います。
自分は(あるいは弟も)わりと穏やかなとこがある気質なので、結果を取ることにせっつかれるより、もっと工程をたのしめたらよかったなと思います。そんな時間があったら、きっと違ったと思う。
おばが悪い人だとは思わないけど、だけど彼女からはネガティブな影響ばかり受けたと思う。
過去の(if~という)問題というより感覚の問題で、彼女がいなければ、あるいは近くにいなければ、もっと穏やかにいろんなものに向き合う時間をすごせたように思います(そしていまはそうしたい)。
いいかたは暴力的だが、彼女のことは、自分のなかで抹消していいと思った。

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変な話かもしれないけど、弟と、俺たちはもっと工程に向き合えるはずだから、できるようになろうっていった。そうしよう。彼とはもっと話をしようと思う

実家にて①(数学:弱さとか他)

いま実家にいます。
実家にいったら数学の本があったので、ちょっと読んでみました。
俺は数学が苦手です。生理的にできない、といってもいい。かなりアウト。

数学の本に1つ問題があったから抜粋してみます

△ABCで、各辺をa,b,c、各頂点から対辺に引いた垂線をそれぞれh,k,lとする。
ここで、a,b,cの大小に関係なく、1/h+1/k>1/l(これを★とする)となることを示せ。

これは一般的な解を導けば

・・・消去済。問題の読み方もろに間違えてました(しかもここにかいたのも適当すぎて間違えてた;)。いちばん下にマトモなのかいときます・・・

(解答とかのない本なので、↑は俺がてきとうにかいたのですが)

こういうときに自分が思ってしまうのは、lが無限みたいに長くて、hもほとんど無限みたいに長くて、kがホントにわずかなものでしかない場合、その「無限のような長さ」にあるものに、「三角形の定義や必要条件」を当て嵌めて考えてしまっていいんだろうか、みたいなことです。
あるいは、lもh無限みたいに長くて、kがないに等しいようなものの場合どうするんだろうか、とか。

無限や、ほとんど無限みたいな、想像でしか語れないorそもそも語れる領域を逸脱しているものにまで「定義」みたいな「自分が楽に操作できる範囲」のものを当て嵌めたり、あるいはkがないに等しいようなとき「それは『三角形』じゃなくて『直線』だから」といって、自分の手にひらに納まるものとしてカテゴリ分けするようなことができませんでした。
嫌味とかじゃなく、ホントに情けないことに呑み込めなかった。

(ここで「もうちょっと自分に素直さがあったら呑み込めたのかなあ」とか思うこともあったりなかったりですが、生育環境が「お前は○○でなければならない」みたいな圧迫感と閉塞感の強いとこだったので、それ以上自分でまで「定義とかを使う」ことは耐えがたかったというのが。)

結局、そういうことができないから、以降の論を進められるわけもなく、という感じで、他にも理由はあるのだろうけど、数学はできないのです。
(他の人からは、いや十分できるから、みたいなことを言われることもあるのだけど、基本的な思考?様式が生理的にキツかったというか)

ただ俺の情けなさは置いとくと、そういう風に「語れる領域を逸脱したもの」をサクっと語ってしまうのって場合によってはどうなのかな、と思うとこもあります。

でもそういうのが全否定的に嫌いってわけじゃないです。語れる領域を逸脱したものを語りたいとか、語ってみたいと思って、それをしようとするやわらかい欲求。あるいはそこでどうしても当たってしまう語れなさを語ってしまうある種のアホさ、あるいは疑いのなさってあると思います。
また弱さからくるどうしようもなさと、そのどうしようもなさゆえに必要となってしまう硬直もあると思うし。

(だから俺が自分を情けないと思うのは、そういうある種のアホさや硬直から成り立とうとするものを、自分に硬直があって、過去に受け入れることができなかった、というとこかもです。)

ただ数学とかについて思うのは、そういった方法で語ろうとするときに、その方法がある硬直から選ばれた、ということをいわれるところがあれば、もう少し理解しやすかったかな・・・、と思います。

・・・

数学についてはあまりうれしくない感情もあったりなかったりなので、もしかしたらまたでてくるかもです。ださないかもしんないけどねww

+++

この話とは飛ぶけど、「平行移動」というのも矛盾を含んだ表現だと思っていたりしました。中3か高1くらいのときだったか。
デカルト座標は基本的に「移動」というありようを(固定を固定することで)排斥して作成されているのに、そこで「グラフが移動して~」はなんだかなあ、と思ってました。排斥したものを、あるようなことにして語るのってどーなの?、と。

+++

作成中・・・。忘れなければそのうち書いときます

2008年8月11日月曜日

メモ(以前のもの)


体験における無機質さが体験の強度だと思った。
それとは別に新しさや遭遇もある。
ゆっくりした時間や、ある種の素直さ(?)も。

むかしのこと

うたの一件があってから、なんだか妙にむかしのことを思い出します。
具体的なナントカ、というのではなく、自分のことを取り囲んでいた構造みたいなのを。

母方のおばは「keroは優秀じゃないとうちの子じゃないよ」的なことをいっていて、それもつらかったのだけど、もう一つつらかったのは、自分の素直な感情からでた行動が、父親にあたまごなしに否定され、度々ひっぱたかれてきたことでした。

母親は(彼女自身の感情のなかで)うろたえるばかりで、事態に混乱してばかりだったな・・。

俺が理屈っぽく(論理みたいな言葉で話す傾向がでたというか)なったのはおそらく2つか3つ理由があって、感情を話しても取り合ってくれない父親になにかを話すためと、マズイ事態が起きたときには自分で対処できないとまわりに取り込まれるばかりだ、と思ったからかもしれません。

どこに非があったのかはわからないし、俺の素直さの耐久度?がなかったから、事態がつらいものになったのかもしれないけど、でもどうにかできたこともあったんじゃないかな、と思います。
(その「素直さの耐久度」みたいなのがなくて、自分が硬直してしまったことに、俺はいちばん無能感を感じるかもしれません。)

卒論も、過去にはそこまで執着はないけど、これ以上はそういうことが起きるのはいやだ、というとこが3割くらいあってテーマを設定した気もします。他にもあるけど。

ベタベタな言葉だけど、拭いがたい傷は今でもあります。だけどそれでも、できるだけ素直なとこから動きたい、とか思っています

+++

【追記】

いろいろつらいこともあるけど、でも俺は一緒に生きてみたい奴といっしょに生きたいと思っています。
これは今の俺の立ち位置からいえることではなく、今の立ち位置からすれば推測に過ぎないし、変わるかもしれないけれど、この世界は生きるに値すると思います。きれいな話にまとめるということじゃなく、きっとそうだと推測してます。

2008年8月9日土曜日

うたのこと

今日はなんだか感傷的な日でした。
普段はあまり感傷的にはならないのだけど、今日はめずらしくなってた。
ホントはどっちかというと感傷的になりやすい方だけど、いつもは自分で解除してるので。
ただ今日のはやりづらいものでした。

2つあったんだけど、そのうちの1つを。
もう1つは恥ずかしいのでちょっと・・・。

俺はいまでこそ音痴で通ってますが、じつわ子どものときはうたがすきでうまかったのです。自己評価はシビアな方なので、あんまり過大評価はしてないと思うけど、それでも。

小学生3年生くらいまではうたが好きで、うろ覚えだけどどっかの少年合唱団(聖歌隊?)のテストとか受けさせられてパスしてたりしたのでした。そういう場所は好みじゃなかったから入らなかったけど。
それがいつの間にかきた声変わりの時期に、それまでとでる声の域が変わったのと、それともう1つあって「うたい方がわからなくなった」みたいな感じでした。

それを思い出すことがあって、「なんだか今は不能者みたいだなあ」と思ったのです。昔できたことが、今はできなくて、それは技術やそういうものじゃない変化で、不可逆的なのかも、みたいな。

昔?は可能だった不可逆的な選択って、ダメちんな感傷にいきがちです。
そういうのって嫌いなんだけど、今日はなんだかそこにいてしまった;

不能みたいのを感じることもあって、人前でうたうのは嫌いなのだけど、うたは嫌いじゃないので、それこそ趣味レベルでうたってみようかなー、とちょっと思いました。うたわないかもですが。

+++

感傷モードを残しつつかいたので、この記事はそのうち消滅するかもしれません・・・

2008年8月5日火曜日

恋愛問題(?)2

別に恋愛に限った話でもないのだろうけど、相手に対してある記号的役割を果たす/果たし続ける、っていうのってどうなのかな、と思います。

例えばどれだけ好意があったとしても、「私は彼/彼女/なにかに対してこのようなものである」と、相手に対する自分の立ち位置をはじめから決定して関係にのぞむっていうのはどうなのかなー、と。

一般的に自立っていうと、「自分の周辺の社会構造が求める記号的役割を果たすことが可能である」みたいなニュアンスが含まれることもあるけど、そういう意味でなく自立できないと、俺はなにかに会いにいくことに躊躇するところがあります。

この場合の自立っていうのは、社会のことは放置するとして、「自分は記号的な役割を果たす/果たせばいい」とかいう前提に固定的に依存しているのではない、というか(やわらかい熱のある、非固定的な依存は嫌いじゃないです)。

恋愛にしろ、友達にしろ、ビジネスにしろ、そういう風にある固定的な前提を相手との関係に持ち込むというのは、相手をちょっとなめてないかな、と思うのです。

自分は、何か大事なものがあって、それとの関係をもちたいなら、相手との関係に固定的に依存していないとこから関与しようとすることができないと、関与する資格がないだろ、と思ったりします。

ものがどう動いて、どう変わって、どう新しくなったり朽ちたりするのか、を自分ひとりで体験できるものじゃないと、相手に合わせる顔がないというか。

別にそんな資格があろうがなかろうが、ものは動くときには動くし、遭遇が起きるときには起きるけど、個人的にはそういうひとりでいるとこにちゃんと立てるとこから色々したいと思う。

あ、ひとりって、「ひとり」を気取るってもんじゃないす。それはひとりじゃないと思う。いろんな関係性へのやわらかい依存があるなかで、それを固定的な前提にせずに、侮らずに、なにをどう体験できるか/しようとできるか、ということだと思います。

+++


ここのところずっと、ものが新しくなること、何かがシステムを通過することばかり考えたりつかまえようとしてきたけど、ものが変わるのは、そういう通過する/しないとか、yes/noで区切られるデジタルなものだけじゃないんだと思った。

変質には、もっと静かで穏やかでゆっくりしたものもある。コーヒー飲んだりするような時間。

2008年8月4日月曜日

無題

あいての弱さを認めてあげられないのはつらいよなあ、と思う。
別に自分の弱さでもいいんだけど、まあ自分のは自分でどうこうするとして。
あいてが弱いとこも含めて真剣だったりポジティブなとこからやろうとしたものを、「それはダメ」とかいったり、笑い飛ばしたりするのってつらいよなあと思うっす。

+++

蛇足だけど、そういうことする奴って、それ以前に誰かや何かから、自分の弱さを認めてもらえなかったことがあるような気もしなくもない。具体的というか、個別的には知らないことのが多いけど。
でもそれってあんまりだよなあ・・・

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「DVの連鎖」みたいな言葉があるけど、べつに家庭内に限らず、そういう「あいての出来なさや弱さをバカにすることで、自分の(許されなかった)弱さを隠し続ける」みたいなのはつらいっす。凹みます

弱さが引き起こすどうしようもなさもあるから、「弱くても『いい』」とは言えないとこもあるけど、でも弱さも含めてあいてだったり自分だったりすると思うよ

2008年8月3日日曜日

生態系のこと


Final Fantasy VII Music - Main Theme


sigur ros - untitled #1 (vaka)

少し前にふいっと気温が下がったときがあって、なんだか秋の終わりとか冬みたいな気分になりました。
冬になると聴きたくなる音楽があるのだけど、上の2つもそんな音楽です。

季節が変わる感じってすきだ。子どもの時は秋がすきで、それ以外はそうでもなかったのだけど、いまは冬がすきだし、そうでない季節がきてもだいたいおもしろいなあと思ってます。

話は変わるけど、俺は「自然体」みたいな言葉が嫌いです(言い方によるけど)。季節とかがかわっていくのとかを、第三者的な場所でながめているだけな感じがして。
季節がうごくなかで「自然体」を気取るのって、いろんなことが変質する不自然さや、それを通過したときの広く開けた感触を、自分で受けてない気がする。

季節がうごいて、生態系っていわれるシステムが変質していく。あるいは季節も含めて変質していく。
冬の始まりとかに、起きたらすごく寒くなって、空がすごく青いようなこと。
そういう季節の変質に出会い、それを分かるのは、「自然体」なんていう傍観者的なとこじゃない、(in-divid-ualとかじゃなく)変質も含めた個人、あるいは当事者としての個人のとこでじゃないかな、と感じる。

あと、どっちかというと、in-divideみたいな殻にこもるんじゃなくて、ものに触れることを通過をしてもありうる、あるいは残っている感触とかの方が、個人の実感な気もする。そしてその通過は「ぼくはN回通過した」って数えられるものじゃなく、それを数えられる「固定された基盤」から変わっていってしまうことというか。

そういうことが起きた/起きてるときの、世界の開けた感じとか、その感触はすごくすきです。冬がすきなのはだからかな、あのシビアな感じが。
もののありようがそういったことだけだとは全然思わないけど。

2008年8月2日土曜日

恋愛問題(?)

なんだかからだが休み期にはいって、ほわほわぺよぺよしてるkeroです。
休み期なことと、それと自分がいまどんな感じか(暗中)模索してるとこから、
しばらくヘンテコな記事が続くかもしれません。
そんな感じの1つめの記事・・・

+++

以前ある人と話をしたのだけど(具体的に「誰」というより、複数の人にいったことのゴタマゼというか)、つきあう/つきあわない、っていうのは、恋愛感情からいうものではないと思う、自分は。

それは恋愛感情で妄想いっぱいになったとこからではなく、「自分はあなたと一緒にいたい」というところからいうものじゃないかな、というのが自分の気持ち。

まあ俺だって恋愛感情をもつことはあります、経験などから判断しても。
だけどそれは往々にして、自分の弱さやダメさを「補って」くれる記号だと相手をみなしてるとこで一人芝居してるだけな気がする。

そういうのを持つな、という話じゃないです。
それぞれの弱さはある、と思うし、そういう弱さをないことにしなくていいと思う。
そこからくる感情も同様に。

だけど誰かの方を向くときは、その弱さからくるものではないとこから向きたいな、と思います。
「弱さを補ってくれるもの」として相手をみる、というのは、自分が欲しい鏡の投影をしているだけであって、相手をみているのでないと思うから。

なにかにアクセスすること、アクセスしようとすることは暴力的なことだと思う。
1つには、自分の弱さも含めたところからくるものを、言い訳せずにそこに晒すことだから。
それがどう受け取られるかはずっと分からないままだと思う。やってみないと。
やるには覚悟が必要だと思う。それは「これをやる」という決定ではなく、自分の弱さを隠そうという固着を壊して踏みだすようなこと。「決定」ではなく、やわらかい「破棄」みたいなもの。

それは「破棄」という強いことばではなく、ホントは自分のやわらかさから動こうとすることだと思うけど。
なんというか、「強い意志」とかからではなく、自分のやわらかさや、対象に惹かれるところから、暴力の領域に踏みだすようなこと。
でもそうやって行った場所の広さや、鮮やかさや、痛さが、ここの、あるいは他者のリアリティの1つの姿な気もする(でももっといろんなこともある気もする・・)。

+++

俺のいまの一つの課題、てか欲求は、死ぬことです。
だけど独りよがりでつながりを切ったなかで死ぬのではなく、世界とかいろんなものへの憧れとか信じようとしてるとこがあるのと、死ぬこととを両立できないかな、と思っています。
あ、「死ぬ」ってある程度は比喩みたいなものだけど。
生理学的な生命活動の停止、ではない。と思う・・・

2008年7月26日土曜日

無題


saeglopur

二項の命題が矛盾するのは、命題が、それ自身が固定的であることに固執しているからだ。
命題が破綻したところには矛盾はない。
そこでなにが起きるかこそが重要なんじゃないか、と思う。
破綻は暴力だし変質だし、それは新しさも呼ぶ。台風のあとの空みたいに。
だけど台風の受動者として、台風が呼んだ新しさを享受するのはごめんだ。

+++

経済競争とか生存競争とか、「競争」っていう表現がある。
だけど何と何が「競う」っていうんだろう。
ただみんな、真剣に生きようとしてるなかで、壊れたり、痛かったり、やわらかかったり、かなしかったり、あたたかかったりするだけじゃないのか。

+++

ここは壷のようなところだと感じる。期待がいっぱい詰まった壷。
その期待が暴力を生むにしても、それでも暴力は期待や、生きたいという衝動から生じるのだと思う。
だけど、みんなその暴力を生きているにしても、それを実感を持って生きるのは、「みんな」なんていえる第三者的な立場じゃない、個人の領域だと思う。
それは第三者的な立ち位置にない、という点で孤独な領域かもしれない。
「孤独」という固定的な立ち位置に拠らない、つながりのなかの孤独というか。

+++
【追記】

この記事はホントは一続きになるものだったのが、書く機会を逸して中途半端になってしまっていたのを、そのままなのも落ち着かないなあと思い、後で小さな断片にしてみたものだったのです。

記事の文脈も、断片同士の文脈も謎なのはそこらへんがありまして・・

てか書けそうな感じがあるときじゃないと、その感じとか書けそうだったつながりとかが自分でもよく分からなくなりますね。ヘンテコなものをのっけてしまったと反省orz

2008年7月21日月曜日

あたまがいいって

自分でいうとバカみたいだけど、俺はたまに「keroさんあたまいいですね」といわれることがあります。
いう人に悪気はないんだろうけど、本人はそれをいわれるとちょっと凹むのです。
ふざけて自分で「俺あたまいいから~ww」とかいったりすることもあるけど。
でもそれいってるのもあんまりいい気分じゃない。

この頃知り合いで国家試験モドキを受けた奴がいて、そいつが「全体で○○位だった」っていってたんだけど、そういうのをきくと「試験での順位より、受かっていった先でどれだけモノとか人と向き合えるかのが大事じゃないかなあ」と思ったりするのです。

テストでどれだけできたかって、例えば陸上競技でどれだけタイムをだせたか、みたいなとこがあると思う。
いいタイムでれば、それってすごいなあと思うけど、でも仮に好きでもない競技を「自分はできなきゃダメだ」みたいな気持ちでやってたらつらいと思う。

自慢みたいなことする奴って、ホントはそれをやりたくてやってるんじゃなくて、何か「これができなきゃダメだ」みたいな強迫観念とかからやってるから、点数でたときに「自分はこれだけできたんだ。だから強迫観念がつけいる隙は持ってないよ」ってアピールをしている気がする。
他の人に対してではなく、自分の方にやってくる強迫観念に対して。
それってきいてても凹みます。

昔の自分もそういうとこあったんだけどね・・・。
育った家の一部の人が「お前は『優秀』じゃなきゃダメ」みたいな感じで、その期待に応えないとまずいし、それができなかったら自分はすごく何もないんじゃないかな、みたいに思ってたというか。
子どものときだけど。ああでも、そういう傾向はかなり長く続いていたな・・・(受験が終わってしばらくくらいまで)。

なぜかどういうわけか、変な試験では点数とれたのだけど、本人はちっともうれしくなかったのです。
強迫観念を「自分のプライド」だとすり替えていたし、いくら点数っていうモノサシからの評価もらっても、そのプライドからの圧迫があったので、ただイライラしてつらいだけだったというか。

「あたまいい」の発言聞くと凹むのの1つの理由は、その変なプライドモドキからの圧迫を思い出すから。

それともう1つの理由は、「それをいうのって、相手をみてるんじゃなくて、何かのモノサシで測った相手をみてるんじゃないかなー」と思うからです。ようするに「相手じゃなくてモノサシをみてるだけ」というか。

モノサシにも色々あるし、それは(ごく偏った)社会的評価っていうモノサシだけじゃなく、自分の卑屈さとかだったりもすると思う。でもそういうとこから相手みるよりも、そういうのじゃないとこからみたり接した方が好きだなー、と思います。

「モノサシの無い世界」っていう「モノサシ」を持ってくる、っていう意味じゃなく、自分でやってもそっちのがいい。てか最後は表題から全然ズレましたね・・・。

あと自分が思うのは、そういったモノサシが壊れた場所で、あるいは他のなにかとの関わりのなかでの、リアリティ、感情、軟らかさ、まぶしさ、葛藤、虚ろさやわからなさとかから、なにが望まれ、なにが起きるか、ということが大事なんじゃないかな、ってことです。

2008年7月18日金曜日

7/17

今日(今日というのは昨日だが)はじめてケーナが吹けた。
3年弱やってたけどはじめて吹けた。
今までずっと吹こうとして何もできなくて、悔しいわ腹立たしいわ情けないわって思いだったけど今日できた。
すげえ、やった感があった。はじめて納得した。
うまれてはじめて納得したかもしれない。
納得っていっても、最低の最低のラインに立てたっていうだけだし、吹けたっていっても実際それ以外何一つできなかったんだけど、でもよかった。
たぶんこれはうれしいんだって思えた。やったと思えた。
はじめて思えた

+++

蛇足になるけど、自分のなかで自閉したような音のでかたが、ずっと嫌で嫌でたまらなかった。
どうすればいいんだろうってずっと思ってた。
毎回、模索するたびにダメダメで、(比喩だけど)こんな音だしてるなら死んじまえと思ってた。
はじめて、他のなにかに向いて音が鳴るようなことができたと思った。
それがすごくうれしい

2008年7月11日金曜日

メモ

めんどくさい/めんどくさくはない、というのは俺にとって重要な判断基準らしいです。

麻痺や固執に固執した奴に付き合うのとか、固まったシステムとかの門番みたいなポジションにいるのは最終的にはめんどくさいです。めんどくさくないのがいいな

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自分はいろんなことをしらないなあと思った。わりといつも思うけど。
いろんなことがどううごくのかしりたいな。
しった分は体液とかがちゃんと動ける

2008年7月10日木曜日

マイコが好き!


「毎日、マイコ」という派遣OLのシュールな(?)毎日をかいたやつがあります。
http://imjoc.jp/

これすごく好きなんだけどww
どうしよう、とっても好きだー。

・・・全然紹介になってねえ;

まあこれが好きだっていう話ですよ。
おもしろいとかそういう感じだけじゃなく、なにかめでたいわけでもないんだけど、なんだか不思議にいいな、っていう気分になります。
4コマだとウィーク28の「同窓会1」「同窓会2」とか、
ウィーク24の「涙」が特にいいなと思う。

洞窟の話

この頃自分のブログをみかえしてみて、「なんだか金太郎飴みたいに同じ話がでてくるなあ」と思ったkeroです。
きっと自分にとってはそこが重要なんでしょう。
たぶん今回も金太郎飴みたいな話です。

洞窟の話ってのは、先日知り合いと話していて、卒論で扱う「暴力」についての話になって、そこであげた比喩みたいなものです。

・・・

仮にイキモノが2体、洞窟に閉じ込められたとする。
2体ともお腹がすく。生きたいし、生き延びて自分の欲求からの体験をしたい。

この場合、どちらかがどちらかを食べなければならない(仮定の話です・・)。
どちらも「生きたい」という同じようなベクトルの欲求を持っているにも関わらず、その同一のベクトルが関係性において葛藤、コンフリクト、矛盾を生む。

これが卒論で扱う「関係性の暴力」になるのかなー、っていう話をしました。

洞窟=関係性は、「2(体)」を生かすことはできない。
たぶん1.7体くらい。っていうのが俺の印象です。

くたばる0.3分はどうなるのか、っていうのが、きっと卒論のメインの話になります。
その0.3分が、まともにくたばる筋道?があるんじゃないか、と俺は思っています。
インチキ(いろんなインチキがあるけどそこは今は省きます)なしで、まともにできんじゃないの?と思ってる。100%とはいわない(「100%」ってインチキくさい)けど、まあ85%くらいはまともに。

そこで何かがちゃんとくたばることのなかに、新しさとか自由とか感情とか、そういういろんなことは集約されてくる気もする。1つには、って話だけど。

でもそれとは別に、洞窟って個体の欲求とは別なんだろうな、とも思います。
個体は、というか自分だったら、自分は生きたいし、相手が生きているのもうれしい。
痛いことや傷つけることなんか嫌いだし、好意をもっていろんなのにちゃんと関わりたいと思う。

だけど生きようとするなかに、これは具体でも比喩でもあるけど「食べる」というようなこと、それによって傷ついたり壊れたりすること、そういうことが含まれるのは、洞窟のハードさやシビアさ(←うまくいえないけど)なんじゃないかな、と思います。

(「食べる」ことをちゃんというと、「同一の方向性をもった2つのベクトルがあるときに、そのうち一方が一方を併呑すること」みたいな感じです。これが遂行されることに対して教条的な「正当性」からの理由付けはできないと思う。)

そしてそのシビアさと、個体の欲求は、そもそも(論理としては)無関係なのに、個体はそこに巻き込まれるんだろうな、とか。

そこらへんをちゃんとやりたいな、と思うのです。
宗教的なものとか、先取りされた話に棚上げしないで、ちゃんとやりたいなー、と。

+++

ところで再び「きみのブログアカウントは怪しいよ~」という宣告がきました。
ホントに消えてしまうのか・・・、おろおろ;
いちおう(消滅の反省を踏まえて)過去ログとってあるので、ここが消滅したり使えなくなったら引越し先にうつろうと思っています。引越し先はプロフィールのとこにかいてあるです。

2008年6月30日月曜日

レポート再び

お久しぶりです。すこし前~この頃まで、調子の乱高下とボケにいたkeroです(まだちょっとボケ風味ですが・・・)。
そういう時はあまりここには書かないようにしよう、と思っていたら、ずいぶん日があいてしまいました。

もう一学期も終わり近くになり、レポート書いたりしています。
テスト勉強(←基本的にすごい苦手(涙))も単位が欲しい1科目だけはちゃんとしてます(; ;)

今年は卒論もかくので、なんとなくですが、レポートにもそこでかこうかなと思ってることの断片がでてきたりしてます。今回はそのうちの1個(の下書きというかラフスケッチというか)をあげてみます。言葉遣いとか色々ぐだぐだですが・・。

たぶんだけど、卒論はこういう方面のことが(ことも?)かかれる、かもしれません。いろいろ未定な感じですが、卒論では暴力論をかくのかなあ、と思ってます。

+++

【レポート】

授業のなかで思ったのは、一般的にエロスとタナトスといわれるものは同じもの、あるいは同じようなものではないかということでした(一般的、といっても、どの程度一般的なのか分からないところもありますが)。

うまくいえませんが、それはどちらも「生を生きることへの欲求」が、関係性のコンフリクトのなかで変性し、異なる発現形になったもののように思います。
(「生を生きることへの欲求」は、すこし言葉を変えれば「遭遇への欲求」「新しさを生きる欲求」といってもいいかもしれません。)

これらはある場合には、エロスが性や自己維持の傾向、タナトスが攻撃や自己破壊の傾向だといわれています。しかしタナトスという概念に対する単純な(そして用語を曲解し過ぎかもしれない)疑問ですが、生き物は「死にたい」のでしょうか。そうではないと感じます。

例えば、ものすごい速度でバイクを走らせるのも、バンジージャンプとかをやってみたりするのも、「死にたい」から「それをする」のではなく、「自分がどこまで見れるのか知りたい」あるいは「自分がどれだけ遠くまでいけるのか知りたい」から、そういった「危険」といわれることをやる部分があるように思われます。

その「どこまで見れるのか」や「どれだけいけるのか」という欲求は、単に好奇心というより、「自分がどれだけ新しい世界を生きられるのか」を試してみたい、言い換えるなら「リアリティを生きることへの欲求」ではないかと感じます。

この「リアリティ」を生きることへの欲求というのが、先に述べた「生」を生きることへの欲求、あるいは、「遭遇すること」への欲求なのではないかな、と思います。ようするに、生き物が望む(ものの1つ)のはリアリティなんじゃないかって話です。

エロスという概念の、性あるいは他者への出会いへの欲求、あるいは、それを実行していくための「自己」の維持、という傾向も、その「リアリティを生きることへの欲求」の派生形みたいに思えるところがあります。

あるいは、「欲求」よりも「リアリティ」こそが生き物の根幹にあり、その条件の結果として生き物には、自らのリアルな領域を起動させながら、世界のリアリティを生きること、を望むというところがあるのかもしれません。半分飛躍と妄想かもしれませんが、その「自己の底部のリアリティ」と「外界のリアリティ」の境目は自/他というものではなく、幾分曖昧にも感じます。

そしてテクストにあった「ヴィーナス」を「開く」というのは、この欲求、あるいはこの欲求の派生形が、組み合わさった一つの形のように思われます(ここでの意味は、ユベルマンが用いたのと変えていますが、しかし同一の文脈上にのせることはできると思います)。

まず「新しいものをみたい」という欲望、そして「自己を維持していたい」という欲望の2つです。そして、それらが今回のテクストにおいての組み合わせとしてでてくるのは、「自分は『安全な』記号的世界にすまって」おいて「対象、あるいは好奇心や性的な対象のことは破壊し、『開く』」というものです。

ここには矛盾があります。そしてその矛盾を隠蔽している工作方法が、「ヴィーナスを開く」というモチーフ(繰り返しますが、ユベルマンが用いた意味とはちょっと違っているかもしれません)を、どこか暗く陰惨で、いくぶん歪んだ美しさのあるものにしているのだと思われます。

そしてここでいう矛盾とは、論理的な矛盾というより、行為における矛盾、あるいは遂行的矛盾のことです。つまり「自分のリアリティ」は、脅かされない安全な場所においておき(エロス的な志向)ながら、他者のリアリティを開いて視る(タナトス的な志向)、という「リアリティに対する態度の矛盾」です。

実際、そこで隠蔽、あるいは安全の確保が行われている以上、行為者のリアリティは、他者のリアリティに開かれているわけではありません。その意味で、行為者は自らのリアリティをも隠蔽しているといえます。そしてその隠蔽につかわれるのは、快楽や美のモチーフだ、というのがぼくの意見です。

自らのリアリティが、自らの行為によって隠蔽されている、ということを隠し続けるために、「天上の美しさ」だのなんだの言って、その「対象が行為者にもたらす快楽」のなかに耽溺し、自らのリアリティから逸脱し続ける、という方法がここでとられている方法なのだと思います。

実際のところ、他者に対して自らのリアリティを曝して向ける、ということは、「安全が確保された方法」ではないと思います。それゆえに、そこに臆病さや固着が入り込めば、それは簡単に保身へと走るでしょう。しかし保身をしておきながら、「リアリティへの欲求」が消えがたい者は、そこで「他者の死」あるいは「魅力的に感じるものの死」へと、逸脱していくのだと思います。そしてここでいう「魅力的」というのは、「自らのリアリティを(安全ななかで)触発し、起動させる対象」という程度の意味です。

しかし、どのような欲望も、リアリティから発し、リアリティへと向く、と仮定できるならば、上記のような方法は、自らの欲望自体にも反する、あるいは自らの欲望も隠蔽している、という意味で、自らに矛盾した閉じた環のなかにいるものと思われます(これは「論理的に閉じた環のなかにいる」というより、快楽と臆病さの惰性によってサーキットを回り続けている、という方が正しいでしょう)。

もちろん外部、あるいは他者に対して「これがリアリティだ」ということはできないと思います。それはどこかで「わからなさ」を含む領域に属することだし、それを「これが~」という形のなかに固定して、それに対して行為を遂行する、というのは、変性する、またどのように変性するかは決定しがたい領域を、「形」のなかに入れている「ことにしている」、という意味で、やはり遂行的な矛盾を抱えることのように思います。

しかし「固定」を持ち込みがたいにしろ、自らのリアリティからその領域のリアリティへ向く行為のなかに、生が含まれていても死が含まれていても、「生」や「死」の記号性に固着せずに、生じたリアリティと外部のリアリティが(記号的調和などとしてではなく、場合によっては夾雑に)混じって変質していく領域を、ちゃんと機動させていくということは、へんにサーキットのなかにいるよりいいんじゃないかな、と思いました。

(蛇足みたいですが、それが機動するなかで、新しさ、あるいは「タナトス」的な意味ではない死が生きられることがあるようにも感じます。)

2008年6月9日月曜日

ストレッチ

ストレッチがわりと好きです。普段はあまりしないけど。筋(すじ)をのばすストレッチとか筋トレより、筋に負担をかけるストレッチの方がいいなと思う。

からだが「楽に」とか「楽しく」動くより、なにか規範があるわけでもない必要さから機動する、という意味でいい感じに動くのが自分には好みみたいなので、そういう風に動くようになるようなストレッチが好きみたいです。

楽しい、とか、好き、っていうのは、簡単に必要さを疎外して逸脱しはじめるから、どうも自分はそっちにはいかない傾向があるみたい。

でも「純化」されたり、mustで求められた必要さよりも、楽しいとか好きとか意味不明とか、いろんなゴタゴタがあるとこで機動する必要さがいいなと思います。ホントに。

そういう必要さから、どうしようもなさやシビアさも、ずっこい装置や罠も込みで、なにかが変質して、新しさがぺろって開いていく感覚は、「俺は○○が好み」っていうのじゃなくほんとに好きです。

ただ、変質や変わることだけじゃなく、固着とかじゃないとこで、何かが穏やかに、あるいは暴力的に、あるいはグダグダにあることも、意義(?)があるのだと感じるけど。

+++

【追記】

自分は音楽系のサークルでフエを吹いたりしてる(上手くはない)のですが、昨日はそのサークルが参加する学園祭の曲決めでした。
今年は有志というカタチで2つのメンバーででるのですが、ほんとに「こんなことあっていいのかよ」ってくらいいい人たちと組めて、俺はめちゃめちゃうれしいです。
別になにかの区切りが大事とは思わないけど、今年はOB以前としてでられる最後の機会なので、自分のできることいちばん(というと語弊があるけど)やろうと思ってます。
mustっていう意味じゃなくて、そこで起きることが起きるように動けたらいいと思ってます。

2008年5月21日水曜日

恒常-系


すこし前に読んだ本に、「病いの語り」というのありました。病いを、医学的な治療対象というよりは、経験そのものとして扱おうとした本、という印象だった。書き手のスタンスは好きになれなかったけど、そのなかである治療者が、ケアについてどう感じているのかを喋ったところがあって、そのなかの「腐った粒」という表現が印象的でした。以下簡単に抜粋します。

病いの語り 第14章 P285~286から
「医者も他の人たちと同じです。貪欲で、嫉妬深く、脅えやすく、まったく生活が逼迫して……ひどく追い詰められれば危険なこともするでしょう。しかし、人間をケアするということは人間らしくなることです。傷つき、脅え、困りきっている人を助けようと努力するなかであらわになる私たちの小さな人間性の限界や失敗そして成功を見ることになるのです。…中略…どこと言えない搔痒感や、はっきりと指差せないがひどくヒリヒリするできものにイライラしているような具合いです。人間の核に、蝕むような、腐りかけた粒がひとつあって、それが私たちの気を狂わせようとしているような感じです。」

恒常系って、一般的にはホメオスタシスといわれるけど、自分はもっと広くて曖昧なくくりで捉えてる。ものの姿の一つのカタチ、あるいはカタチを保ってつなごうとする動きみたいなもの。「腐った粒」というのは、その中のどこかにある「核」というようなものじゃなく、一つの恒常系が、他の恒常系や無機物と関わり、接触したり摂食したりするなかで、ポジティブさもネガティブさも含めて、あるいはそれが持つ死も生も含めて、カタチをとり、動いていこうとする衝動(あるいは欲望といわれるもの)を呼んだ名前だと感じた。

恒常系が「カタチを保とう」とするところには、ひずみがあると感じる。その時点ではいつまでも「安定したカタチ」になっていなくて、不安定な要素をたくさん孕みながら、それを砕いて排泄して、それを補うものを摂食して、カタチを保とうとする動きがあるところが。いつまでも欠損を抱えたカタチ、あるいはカタチになりきれない、カタチを作っていこうとする機構群や、その軟らかい動き。

それは一つの恒常系としてでも、あるいはほかの何かにつながり、関わろうとするなかでも、それ自体のもつ欠損を露呈し、つながることや機動していることそれ自体が暴力になってしまう、ある意味ではずっと失敗(あるいは欠損状態の断続や連続)でしかいられないもの、みたいに感じる。それは「成功の対義語としての『失敗』」とかじゃなく。

そういうものが持つひずみも欲望もあるところに、正しく不適切にいようとしないでどうすんだ、ってのは思ったりする。自分に対してだけど。
そういう不適切で暴力的なところに対して、(関係や、そこにある鬱屈を切り捨てるとかじゃなく)切り拓かれたありよう、荒野のようなありようというのは、虚無主義にならずに、ものが生きようとすることの虚無をうける感じですごく好きだ。
そういうところから、その死も生も含めてでからだは(あるいは系になれない恒常性は)動くし、変質もするし、声や、感情とすら呼べない感覚も作動するのだと感じる。

そこの関係、あるいはカタチになれない恒常性の合間を、静かに暴力的に、いろんな(と「括って」いえるものじゃなく、もっと自分にとって手触りのある)なにかを、ふと巻き込み/巻き込まれながら、通行していこうとするものを知ること、そこから動こうとすること、というのは自分には重要なものに感じられたりする。(文のこういう終わり方ってすこし前もしたようなorz)

メモ

結局ある種の甘さというのは、(おそらく本質的な暴力の領域に対する)遂行的矛盾を巧妙に隠す装置と、そこへの耽溺や依存なんだと思った。

その背徳的な感覚、本質的な暴力を巧妙に「ないことにしたり」「すりかえたり」して愉しむ感覚って、自分が自分にできるだけの(暴力や、空隙あるいは余白に対する)ありようや向き合い方をしていない、どこかで麻痺や隠蔽を「ないことにしている」ような感覚なんじゃないのか。

2008年5月19日月曜日

熱とつながり

なにかがなにかに触れる、あるいは触れ合いがある、というのは、一面では片方の、あるいは双方の熱や圧力が伝わる、ということと、もう一面ではその熱や圧力が相手を侵犯したり壊してしまいかねない、というとこがあるように思う。

その触れ合いのコンクリフトって、とても避けがたいように自分には感じられたりする。
(ある種の暴力は、そういうとこからきたりするようにも感じる。あるいはどんなコミュニケーションのなかにも疎外や暴力や、その要因が入ってるというか)

みんなが頑張れば世界はよりよくなる、という考えがあるけど、そういうのって、みんながそのコンクリフトを見ないことにするようにしていく、っていうことなら、それはコミュニケーションの否定じゃないのか、と思う。

+++

そういう意味で「疎外をないことにする箱」を作って、そこに入ろうというのは、(暴力も疎外も含んだ)コミュニケーションを否定した上で、その箱の中で「コミュニケーションしている振り」をすることなだけに感じる。

そしてそこに虚構が絡むと、すごくいろんなものの弱さを掬い取って耽溺させる罠みたいになってくる。だけどそれってありうるつながりや、弱さが弱くて惨めなまま生きられることに対する否定なんじゃないのか。

そこを否定しておいて、耽溺できる場所に連れて行くというのは、結局口を塞いだまま喋っていることにするような真似だと思う。

追記+α


schism

+++

じつわ、自分がいろんな企業説明会にひょこひょこ行ったりしたのは、前の記事の意味でのパイプラインを自分の目でみたいなー、というのがあったりしたのです。説明会いくのも飽きてきた今日この頃なのですが

+++

ところで「自分がどこにも属してない感覚」ってすごく大事だ、っていってるヒトがいた。
それってすごく同感なんだけど、「どこかに属さざるを得ない弱さ」をないことにしてしまうならどうなのか、と思ったりしました。

パイプライン

(なんか全然まとまりのない文になってしまいました、すみませんm(_ _)m)

就職活動をする前から、経済のことはそれなりに気になってました。
単に貨幣がどううごくか、ということでなく、何が流通するのかということ。

「流通」というのは多分一般よりかなり変則的な意味で自分はつかうのだけど、どのように植物がそだち、どのようにコンクリの壁が建ち、自動車が走り、鶏が肉として殺され、虚構がうみだされ、貨幣が流れ、そこでどのような痛みやよろこびやリアリティがあり、疎外とつながりがありうるのか。

いいかえれば、どのような体験、どのようなリアリティ、あるいはアンチ体験やアンチリアリティ(虚無や空虚さ。それとは少し違うけど虚構を生きざるを得ないこと)が流通しているのか(あるいは流通せず、ただ固定的にそこで風化していくのか)、みたいな。

自分ではそういうのが流れる(あるいは流れない、流れられない)経路を「パイプライン」とか呼んだりします。単に物流、あるいは貨幣の経路でなく、ものが生きることのポジティブさもネガティブさも含めて起動する、微細だったり脆かったり暴力的だったりする経路群のこと。

経済が気になってたのは、それが起動する場所にダイレクトにいくこと、そこで手を動かすこと、というのは俺にはそれなりに重要なことのように思えたからです。別に儲けるとか儲けないとかは割とどうでもいいのだけど(食ってはいきたい)。

少し話がそれるけど、「子どものとき」って、何かの体験や経路に対してダイレクトなところがあると思ったりします。だけど俺は、「子どものとき」を称揚するのは好きではないです。

「子どものとき」っていうのは、個人的には「親の経済的な庇護」の元でのありようだと思っているところがあるのです。そこでの「ダイレクトさ」は、ある部分では経済的なものから切り離された地点でのダイレクトさじゃないのか、と思うとこもあるので。

だけどそれはやっぱりダイレクトだし、ある部分ではかえがたいものなんだと感じます(矛盾してるようですが)。そういう意味では、「経済に手を突っ込んだときのダイレクトさ」と比べて(そもそも比べるものではないにしろ)、どっちがよりダイレクトだといえるようなものではないと感じます。

俺が嫌いなのは「親に経済的に庇護されて、自分の好きなことをやってられた『子どものとき』はよかったねえ」という奴です。そんなわけねえだろう、と。

子どもには子どもの暴力も弱さも危うさもあって、そこを生きてるのはそいつにとって「庇護の膜に包まれた安全なゆりかご」なんかじゃなく、(場合によってはその「庇護に包まれた気持ち悪さや暴力性」も含めて)リアルなことなんじゃないかと思う。

ちょっとずれました。話をパイプラインにもどすと、自分は「パイプライン」を、これも変則的な意味でのホメオスタシス(生物学用語)とか恒常系みたいに感じるとこがあります(それだけじゃなく、もっと無機質なとこもあるにしろ)。

ものが、痛みも弱さも奇妙なつながり抱えながら、そこでなんとかカタチを保とうとしたり、崩れてしまったりするなかで、生きようとする欲望からできるもの、みたいな。そういう意味ではとても脆い、あるいは固定的でなく変質や変形を抱えた恒常性、を保とうとする動きや運動みたいなもの。

パイプラインは、そういうものだったり、あるいはそういう欲望が作動する領域からできているように感じたりする。そこにはリアリティだけじゃなく、リアリティの持つ残酷さから目を逸らして虚構を生み出さざるを得ない弱さとかがあったり。

だけど、そういう弱さのなかに耽溺をはじめて、それを隠し続ける記号や道具を自分のまわりに集めるというのは違うと思います。ただの麻痺ではないかと。

個人的には、ということになるかもしれないけど、ものの痛み、弱さや強さ、空虚さ、病とかの、ものの欲望の動きのなかで「自分にとってのリアリティが、ポジティブさもネガティブさも含めて起動する場所」にいたかったりします。

(痛みとか病といっても「(ポジティブさに対立する)ネガティブさの象徴」として特権化されたものじゃなく。もっとどこにでもあるような、ふとした動きにも関係するようなもの)

手触りに不必要な虚構や偽りがない場所というか、「俺はいま、現実と向き合ってこんな感じで生きてるぜ」ってのがすげえ実感できて、その上で自分がなにを望むか知ることができる場所。

あるいはそこで疎外にもつながりにも暴力にも触れ、自分が固定的なものとしてでなく、変質しようとする、あるいは変質してしまうこととか。そういうことって自分には重要なことだったりするのです。

2008年5月16日金曜日

なんぞこれww


http://b-tm.net/aori/org.php?n=kero+80&a=17&b=7&c=17

こんなものを見つけました。無駄におもしろすぎるww
上のは「ベジタリアン」ですが、「ミッキー」とか「パラサイト」も大好きです