規範、教条、常識、名前はなんでもいいが、過去以外のすべてを空っぽにして、虚ろにしてしまうことがある。
わたしたちはきれいにいきるのだ、とか。
わたしたちは互いに優しくあるのだ、とか。
そいつ(話す側)も体験してもいないような教訓話を、ひたすらに耳元で垂れ流され続けて、まだ起きていない、あるいはいま起きようとしている、痛みとかよろこびとかかなしさとかを、踏みにじるような真似が、「きれいな生き方」だとでもいうのか。
ある部分では、「きれいな場所」などどこにも保たなくていいし、病が動くようにいっていいのだ、と感じたりする。
2008年3月6日木曜日
TOOL
すこし前、TOOLというバンドのÆnemaというアルバムを買いました。
それを猿のように聴きまくり「TOOLスゲー!!」と思った勢いで、Lateralus、Undertowというアルバムも注文したのです(早くこないかなー)。
もともとはハードロックの音、苦手だったのにな。
感染源の友人のところでたまに聴かせてもらってるうちに、いつの間にか慣れてしまったのです
・・
・・・
もしかしてうれしい罠!?
というわけ(どんなわけだ)で今回はTOOLの動画を2つ。
Ænema
Parabola
どっちの曲も、途中で突き抜けるみたいに入る弦(ロックに詳しくないので楽器は謎)がカッコイイ(゜∀゜)!!
変態なボーカルとかドラムもすごくいいし。
その友人はこのバンドを「職人」と評してたけど、音がシャープですごくそんな感じ。うまく書けないけど、とにかくいろいろすばらしいのです。
アルバム待ち遠しい・・・。
それを猿のように聴きまくり「TOOLスゲー!!」と思った勢いで、Lateralus、Undertowというアルバムも注文したのです(早くこないかなー)。
もともとはハードロックの音、苦手だったのにな。
感染源の友人のところでたまに聴かせてもらってるうちに、いつの間にか慣れてしまったのです
・・
・・・
もしかしてうれしい罠!?
というわけ(どんなわけだ)で今回はTOOLの動画を2つ。
Ænema
Parabola
どっちの曲も、途中で突き抜けるみたいに入る弦(ロックに詳しくないので楽器は謎)がカッコイイ(゜∀゜)!!
変態なボーカルとかドラムもすごくいいし。
その友人はこのバンドを「職人」と評してたけど、音がシャープですごくそんな感じ。うまく書けないけど、とにかくいろいろすばらしいのです。
アルバム待ち遠しい・・・。
触れること、変わることとか

俺はいろんなものを好きじゃないんだろうと思った。「好き」っていうと、立場を固定するようで、その固定の下になにかを隠すようで。そうじゃなく、自分を含めて、なにかが変わっていくことに触れたりかかわったりすることが、funnyみたいな意味じゃなく(funnyとかいう言い方って「自分は安全な立場にいるけど、他は動く」っていう感じだ)、たのしいんだと思う。いいかえるなら気持ちが動くんだと思う。残酷なことも、奇妙なことも、やさしいことも含めて。「生きるものは変わるものだ」なんていう、生の下に死を隠した傲慢な態度からじゃなく、生も、たぶん欠損(死とかいわれるものもそうなのかな)も込みで、なにかが動いて壊れて触れて変わることが。
勝手な主観かもしれないけど、ここは、あるいはこの関係は、暴力的だし残酷だしやさしいように思う。苦痛も慰安も要請もあるなかで、動いたり壊れたり触れたりして、気持ちがいちばん変わっていくように動いていい。そのときそのときの「かたち」や、「かたちがあることの残酷さや慰安」は、代えがたいし、ないがしろにしがたいにしろ、「きれいなもの」とか持ち出して、そういうのを邪魔するのは好きじゃない。
+++
【付記】
変わることが「いい」ことだ、とは思ってないし、それはいいたくない。
きっとそこにはディレンマがつきまとうし、壊れること、絶望的なこともどこかで避けがたいのかもしれないと思う。
それを「いい」といって先取りするなんて、それこそ冒涜だと思う。
2008年3月4日火曜日
就活あれこれ
先日、某児童書出版社のテストと説明会をうけてきました。
はじめにかいてしまうと、説明会はとても屈辱的なものでした。
説明をした出版社の人の話を、自分なりに解釈すると、
・わたしたちは子どもに庇護を与えなくてはならない。
・わたしたちの世界は「やさしく、想像力豊かで」あらねばならないので、
それを「子ども」に伝える装置をつくっていこう。
・なぜわたしたちの世界が「やさしく、想像力豊かで」なければならないかと
いうと、それはわたしの欲望が信じていたいハリボテ神がそう望むからだ。
・装置がうまく作動すれば、世界はハリボテ神の庇護と、
「わたしたちお互い」の「お互いへの」庇護で美しくなるだろう。
というものでした。
ようは「庇護された空間」をつくって、そこに「きれいなもの」としていたかったり、「庇護の空間」のなかの「きれいなもの」を愛でていたいんだな、という印象でした。
そこでは、暴力や(いわゆる)欲望や、汚さや醜さは排除されて、
ふとでてきてしまう痛みは、オブラートをかけられて、「お互いのやさしい言葉」のなかにうずもれて麻痺させられていくんだろうな、と思ったのです。
そう信じるのは構わない。だけどそれは、っていうかそういうのこそが、
「こうなれば自分(たち)はもっとうまくいくのに」というわがままの押し付けと、そこへの耽溺じゃないのか。
これは別の所にかいた言い方だけど、そういうのは経済として決定的にシビアさに欠けていると思う。
つまり、余剰空間と、「資源」が、いくらでも供給されるような世界を、
そういうものが痛みを欠いて供給される世界を想定しているからだ。
だけど、例えば「なにか」が食べられるために殺される時、痛みが「ない」とでもいうのか。
それとも、その「痛み」は、「やさしい世界」のために当然のように差し出されるものとでもいうのか。
(べつになにかの愛護団体みたいに「命の価値や尊厳」がどうこうとかそういうのではない。ていうかそれを奉るようなのは好きじゃないし、「ああ、侵してはならない『いのち』を傷つけるなんて!」みたいなのは嫌悪したりする。)
説明会では、本当にその場でFuck You!!といってやりたかったのです。
自分は子どもの頃、絵本が好きでいっぱい読んでいたのだけど、
「こんなやつらが作ったものをよろこんでよんでいたのか」と、思わず思ってしまったりしました。
言葉は強いけど、その庇護に甘えた、屈辱的なもののよろこび方をしていたな、と。
だけど、いまの自分のなかにも、その屈辱はあると思ったのです。
つまり、どこかで「庇護の空間」を欲しがっている、あるいは、それがでてきた時に、それや、そこにある「きれいなもの」に甘えたがる、みたいなとこがあるな、と。
それは「やさしくて想像力のある世界」じゃなく、一見全然ちがってみえるものかもしれないけど、その変種には変わりないんだろうな、と思いました。
変種はいっぱいあると思う。
「やさしい世界」を「否定する記号」としての立場とか、
チャクラ(謎)が解放されたからだの状態とか、
あるいは「礼儀正しい作法の群れ」のなかに痛みを封じ込めた世界とか、
「自分たちは汚いんだからいいんだよ」という開き直りとか、
「行き場のない世界」への耽溺とか、
「死の通過」によってあらわれる「あたらしさ」とか。
でもそのどれも(といったら言い過ぎだけど)、
結局は「庇護」された空間を求めているんじゃないかと思いました。
それがなければ、壊れてしまうのかな。
それはわからないけど、ただ自分は、そんな庇護や「きれいなもの」を欲しがるのはやめよう、と思ったのです。
すこし話は変わるけど、自分はどちらかというと広告系やデザイン系を志望しているのですが、いま思うと、それを志望したとこには、「『庇護』とか『ハリボテ神』が欠け落ちたところで、そういうものをぶっ壊すだけのこととか、なにかを塗り替えることができないかな」と思ったからかもしれないです。
それももしかしたら、「庇護」の一変種なのかもしれないです。デザイン系とかを志望したときに自分が思ってたことは、「『庇護』がないとこで、言い換えれば(きれいなものへの)期待や計画空間がないとこで、それでも何かを塗り替えられることがあるかどうかやってみようか」みたいなことでした。
ここらへんはよくわからないです。庇護のこととか、いろいろとか。「塗り替える」というのも、そこに「きれいなもの」が入ってくるなら、なんだかヘンテコにも思います。
それと、その児童書出版社のテスト(テストは説明会の前にあったのです)は、作文(小論文?)と一般常識(SPI2?)と適性検査だったのですが、作文のお題が「日本語」で、なんにもかくことがなかったので、謎の小説を書いてだしてしまいました。
どうも小論文を求められてた気がしたけど・・・orz
はじめにかいてしまうと、説明会はとても屈辱的なものでした。
説明をした出版社の人の話を、自分なりに解釈すると、
・わたしたちは子どもに庇護を与えなくてはならない。
・わたしたちの世界は「やさしく、想像力豊かで」あらねばならないので、
それを「子ども」に伝える装置をつくっていこう。
・なぜわたしたちの世界が「やさしく、想像力豊かで」なければならないかと
いうと、それはわたしの欲望が信じていたいハリボテ神がそう望むからだ。
・装置がうまく作動すれば、世界はハリボテ神の庇護と、
「わたしたちお互い」の「お互いへの」庇護で美しくなるだろう。
というものでした。
ようは「庇護された空間」をつくって、そこに「きれいなもの」としていたかったり、「庇護の空間」のなかの「きれいなもの」を愛でていたいんだな、という印象でした。
そこでは、暴力や(いわゆる)欲望や、汚さや醜さは排除されて、
ふとでてきてしまう痛みは、オブラートをかけられて、「お互いのやさしい言葉」のなかにうずもれて麻痺させられていくんだろうな、と思ったのです。
そう信じるのは構わない。だけどそれは、っていうかそういうのこそが、
「こうなれば自分(たち)はもっとうまくいくのに」というわがままの押し付けと、そこへの耽溺じゃないのか。
これは別の所にかいた言い方だけど、そういうのは経済として決定的にシビアさに欠けていると思う。
つまり、余剰空間と、「資源」が、いくらでも供給されるような世界を、
そういうものが痛みを欠いて供給される世界を想定しているからだ。
だけど、例えば「なにか」が食べられるために殺される時、痛みが「ない」とでもいうのか。
それとも、その「痛み」は、「やさしい世界」のために当然のように差し出されるものとでもいうのか。
(べつになにかの愛護団体みたいに「命の価値や尊厳」がどうこうとかそういうのではない。ていうかそれを奉るようなのは好きじゃないし、「ああ、侵してはならない『いのち』を傷つけるなんて!」みたいなのは嫌悪したりする。)
説明会では、本当にその場でFuck You!!といってやりたかったのです。
自分は子どもの頃、絵本が好きでいっぱい読んでいたのだけど、
「こんなやつらが作ったものをよろこんでよんでいたのか」と、思わず思ってしまったりしました。
言葉は強いけど、その庇護に甘えた、屈辱的なもののよろこび方をしていたな、と。
だけど、いまの自分のなかにも、その屈辱はあると思ったのです。
つまり、どこかで「庇護の空間」を欲しがっている、あるいは、それがでてきた時に、それや、そこにある「きれいなもの」に甘えたがる、みたいなとこがあるな、と。
それは「やさしくて想像力のある世界」じゃなく、一見全然ちがってみえるものかもしれないけど、その変種には変わりないんだろうな、と思いました。
変種はいっぱいあると思う。
「やさしい世界」を「否定する記号」としての立場とか、
チャクラ(謎)が解放されたからだの状態とか、
あるいは「礼儀正しい作法の群れ」のなかに痛みを封じ込めた世界とか、
「自分たちは汚いんだからいいんだよ」という開き直りとか、
「行き場のない世界」への耽溺とか、
「死の通過」によってあらわれる「あたらしさ」とか。
でもそのどれも(といったら言い過ぎだけど)、
結局は「庇護」された空間を求めているんじゃないかと思いました。
それがなければ、壊れてしまうのかな。
それはわからないけど、ただ自分は、そんな庇護や「きれいなもの」を欲しがるのはやめよう、と思ったのです。
すこし話は変わるけど、自分はどちらかというと広告系やデザイン系を志望しているのですが、いま思うと、それを志望したとこには、「『庇護』とか『ハリボテ神』が欠け落ちたところで、そういうものをぶっ壊すだけのこととか、なにかを塗り替えることができないかな」と思ったからかもしれないです。
それももしかしたら、「庇護」の一変種なのかもしれないです。デザイン系とかを志望したときに自分が思ってたことは、「『庇護』がないとこで、言い換えれば(きれいなものへの)期待や計画空間がないとこで、それでも何かを塗り替えられることがあるかどうかやってみようか」みたいなことでした。
ここらへんはよくわからないです。庇護のこととか、いろいろとか。「塗り替える」というのも、そこに「きれいなもの」が入ってくるなら、なんだかヘンテコにも思います。
それと、その児童書出版社のテスト(テストは説明会の前にあったのです)は、作文(小論文?)と一般常識(SPI2?)と適性検査だったのですが、作文のお題が「日本語」で、なんにもかくことがなかったので、謎の小説を書いてだしてしまいました。
どうも小論文を求められてた気がしたけど・・・orz
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