先日、某児童書出版社のテストと説明会をうけてきました。
はじめにかいてしまうと、説明会はとても屈辱的なものでした。
説明をした出版社の人の話を、自分なりに解釈すると、
・わたしたちは子どもに庇護を与えなくてはならない。
・わたしたちの世界は「やさしく、想像力豊かで」あらねばならないので、
それを「子ども」に伝える装置をつくっていこう。
・なぜわたしたちの世界が「やさしく、想像力豊かで」なければならないかと
いうと、それはわたしの欲望が信じていたいハリボテ神がそう望むからだ。
・装置がうまく作動すれば、世界はハリボテ神の庇護と、
「わたしたちお互い」の「お互いへの」庇護で美しくなるだろう。
というものでした。
ようは「庇護された空間」をつくって、そこに「きれいなもの」としていたかったり、「庇護の空間」のなかの「きれいなもの」を愛でていたいんだな、という印象でした。
そこでは、暴力や(いわゆる)欲望や、汚さや醜さは排除されて、
ふとでてきてしまう痛みは、オブラートをかけられて、「お互いのやさしい言葉」のなかにうずもれて麻痺させられていくんだろうな、と思ったのです。
そう信じるのは構わない。だけどそれは、っていうかそういうのこそが、
「こうなれば自分(たち)はもっとうまくいくのに」というわがままの押し付けと、そこへの耽溺じゃないのか。
これは別の所にかいた言い方だけど、そういうのは経済として決定的にシビアさに欠けていると思う。
つまり、余剰空間と、「資源」が、いくらでも供給されるような世界を、
そういうものが痛みを欠いて供給される世界を想定しているからだ。
だけど、例えば「なにか」が食べられるために殺される時、痛みが「ない」とでもいうのか。
それとも、その「痛み」は、「やさしい世界」のために当然のように差し出されるものとでもいうのか。
(べつになにかの愛護団体みたいに「命の価値や尊厳」がどうこうとかそういうのではない。ていうかそれを奉るようなのは好きじゃないし、「ああ、侵してはならない『いのち』を傷つけるなんて!」みたいなのは嫌悪したりする。)
説明会では、本当にその場でFuck You!!といってやりたかったのです。
自分は子どもの頃、絵本が好きでいっぱい読んでいたのだけど、
「こんなやつらが作ったものをよろこんでよんでいたのか」と、思わず思ってしまったりしました。
言葉は強いけど、その庇護に甘えた、屈辱的なもののよろこび方をしていたな、と。
だけど、いまの自分のなかにも、その屈辱はあると思ったのです。
つまり、どこかで「庇護の空間」を欲しがっている、あるいは、それがでてきた時に、それや、そこにある「きれいなもの」に甘えたがる、みたいなとこがあるな、と。
それは「やさしくて想像力のある世界」じゃなく、一見全然ちがってみえるものかもしれないけど、その変種には変わりないんだろうな、と思いました。
変種はいっぱいあると思う。
「やさしい世界」を「否定する記号」としての立場とか、
チャクラ(謎)が解放されたからだの状態とか、
あるいは「礼儀正しい作法の群れ」のなかに痛みを封じ込めた世界とか、
「自分たちは汚いんだからいいんだよ」という開き直りとか、
「行き場のない世界」への耽溺とか、
「死の通過」によってあらわれる「あたらしさ」とか。
でもそのどれも(といったら言い過ぎだけど)、
結局は「庇護」された空間を求めているんじゃないかと思いました。
それがなければ、壊れてしまうのかな。
それはわからないけど、ただ自分は、そんな庇護や「きれいなもの」を欲しがるのはやめよう、と思ったのです。
すこし話は変わるけど、自分はどちらかというと広告系やデザイン系を志望しているのですが、いま思うと、それを志望したとこには、「『庇護』とか『ハリボテ神』が欠け落ちたところで、そういうものをぶっ壊すだけのこととか、なにかを塗り替えることができないかな」と思ったからかもしれないです。
それももしかしたら、「庇護」の一変種なのかもしれないです。デザイン系とかを志望したときに自分が思ってたことは、「『庇護』がないとこで、言い換えれば(きれいなものへの)期待や計画空間がないとこで、それでも何かを塗り替えられることがあるかどうかやってみようか」みたいなことでした。
ここらへんはよくわからないです。庇護のこととか、いろいろとか。「塗り替える」というのも、そこに「きれいなもの」が入ってくるなら、なんだかヘンテコにも思います。
それと、その児童書出版社のテスト(テストは説明会の前にあったのです)は、作文(小論文?)と一般常識(SPI2?)と適性検査だったのですが、作文のお題が「日本語」で、なんにもかくことがなかったので、謎の小説を書いてだしてしまいました。
どうも小論文を求められてた気がしたけど・・・orz
2 件のコメント:
「一ダースの子供を与えればなんにでも育ててみせよう」
そんなことを言った人がいましたが、
きっと教育も子供向け出版も、
実質はまったく同じなんだろうなと思います。
滅菌消毒された何かでコーティングされているだけで。
あるいは実験室要素が排除されて、
代わりにぴかぴかの信仰が装填されただけで。
きっと本人たちは上の発言の人(実は忘れている)を非難するだろうけれど。
>教育も子ども向け出版も
あとで思い出してみて、きっとそうなんだろうな、と思いましたよ。
「絵本はこう読むのが『いい』んだ」っていうのを決めて読ませるように仕込むのって、相手を従属物だと思ってる気もしたのです。
きっと「やさしい世界」の従属物だと思ってるんだろうけど、その「やさしい世界」を欲求してるのは誰なの?みたいな。
それって、受験産業で金儲けのために「お宅のお子様には○○がたりませんよー」とかいって怪しい教材を売り込む業者とどう違うのかな?とも思いました。
「やさしい世界」と「金儲け」をすり替えて装填すれば同じじゃないかな。本人たちはどれほどの差があると思ってるのか・・・
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