
俺はいろんなものを好きじゃないんだろうと思った。「好き」っていうと、立場を固定するようで、その固定の下になにかを隠すようで。そうじゃなく、自分を含めて、なにかが変わっていくことに触れたりかかわったりすることが、funnyみたいな意味じゃなく(funnyとかいう言い方って「自分は安全な立場にいるけど、他は動く」っていう感じだ)、たのしいんだと思う。いいかえるなら気持ちが動くんだと思う。残酷なことも、奇妙なことも、やさしいことも含めて。「生きるものは変わるものだ」なんていう、生の下に死を隠した傲慢な態度からじゃなく、生も、たぶん欠損(死とかいわれるものもそうなのかな)も込みで、なにかが動いて壊れて触れて変わることが。
勝手な主観かもしれないけど、ここは、あるいはこの関係は、暴力的だし残酷だしやさしいように思う。苦痛も慰安も要請もあるなかで、動いたり壊れたり触れたりして、気持ちがいちばん変わっていくように動いていい。そのときそのときの「かたち」や、「かたちがあることの残酷さや慰安」は、代えがたいし、ないがしろにしがたいにしろ、「きれいなもの」とか持ち出して、そういうのを邪魔するのは好きじゃない。
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【付記】
変わることが「いい」ことだ、とは思ってないし、それはいいたくない。
きっとそこにはディレンマがつきまとうし、壊れること、絶望的なこともどこかで避けがたいのかもしれないと思う。
それを「いい」といって先取りするなんて、それこそ冒涜だと思う。
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