2008年4月22日火曜日

ひ、ひっこし?

連絡(?)みたいなものです。
自分がこのブログでつかっているIDのメールボックスに、
どうしたことか入れなくなっているkeroです。

「まあいいや、ブログつかえるし」と思っていたら
なんだかこのブログの入力画面に、
「ちょっとあんさん、メールボックスにあるメッセージ確認してよね」
という通知がきてしまいました(゜_゜;)

これって放置しておくとブログが消えるのかしら、と思ったのだけど、
パソコン音痴な自分にはそれ以上のことはわかりませんでしたorz

なので、もしかしたら今つかっているIDで、別の場所にブログを作るかもしれません。
その場合はまず入れ物だけつくっておいて、後から記事ごとお引越し、
みたいにすることを考えているので、もしそうなったらここに新しいブログの位置をのせますね。
(そのときは、たぶんプロフィール欄にのせると思います。)

記事が消滅したこともあったし、なんだかゴタゴタが続いててすみませんなのです。

無題

ようするに俺がとても嫌いなのは、マスシステムでも記号的相補関係でもなく、(関係することの)しがらみの、拒絶、排斥、隠蔽なんだろう

2008年4月12日土曜日

kero宛連絡のこと

先日、某人物からこのブログに表示しているアドレス宛にメールをいただいたのですが、なぜかどういう訳か一体どうしたことか、メールが迷惑メールフォルダに届いていました(゜△゜;

がびーん、な、なぜ・・

もしかして、今までにメッセージを送ってくれた方がいたら、ほとんど見ることのない迷惑メールフォルダにきていたかもです。というか今回フォルダをみたのは、285件とか表示されてた迷惑メール数が、40件に減ってて、「アレ?」と思ったからなのです。

もしも今まで送ってくれた方がいたら、放置していた迷惑メールフォルダのなかで、送信から30日過ぎて消滅してしまったかもです(汗

送ったのに返信がねーゾ、とお怒りの方、いたら申し訳ナス・・・
ホントに申し訳ナス・・・

管理人はパソコン音痴もいいとこなので、迷惑フォルダにくるメールのより分けすらできません(涙
ですので、これからは定期的にチェックするようにします。しますです。
もしメール送ってくれた方がいたら、ホントにごめんなさいなのですが、「前にメール送ったよ」との連絡か、メールの再送をしていただけるとありがたいですm(_ _;)m

2008年4月11日金曜日

おまけ。卒論関係

先日卒論デザイン準備というものがあり、すこしだけ書き物をしました。
まあ「論文のデザイン」という体裁をかなり逸脱したものでしたが。
なにかの機会だし、その一部分をのっけてみようかと思います。
自分でも「どうなのかなー(いろんな意味で)」と思ってるところがあるので、
しばらくしたら消してしまうかもしれないけど・・・。
ホントにごくごく一部だけ、ゼミにもってったものより書き足してます。

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1)研究動機/背景

医療や教育など、さまざまな場面で、押し殺されてしまう語りというものがある。

例えば医療における診断の場面では、患者は、自らの痛み、苦しみ、虚無感などの「病い」を、生理学的疾患という「医学における専門的フィルター」をかけられた語りへと翻訳される。
またある種の教育の場面では、被教育者が何者であるかに関わらず、「社会的成功」をもたらす種類の語りや行為(テストの点がいい、内申がいい、学歴がいい、など)が称揚され、そこから外れた語りは、そこで声をあげることが許されない、ということがある。

クラインマン(1996)が「診断とは、じつは、面接のシステマティックな歪曲なのである」と述べているように、これらは「システマティックに歪曲された」語りの強要あるいは排除の形式といえる。
すなわち、このような場所では、医学的な成功(生物、生理的な「健康」状態)や、教育的な成功(社会的地位あるいは記号の獲得)につながる語りだけ許され、その「物語」からあぶれたり、それを犯す語りは徹底して排斥される、という構図が働いている。

この「物語」は、それぞれの場面でイコン的なものであり、またそこに力関係が働く以上、「物語の強要」は、(それを設定した)力関係=権力的な構図のなかでの暴力だといえる。
この権力的暴力のなかで、語られない語り、あるいは語ることを殺されてしまう語り、というものがある。
それは例えば診断場面における医学的専門用語のフィルターをかけられる以前の、患者のなまの痛みや声であったり、教育場面において被教育者が感じながら、しかし「称揚されるものから外れて」いるゆえにあげられない言葉や声だといえる。

だが実際のところ、権力を構築するさまざまな「物語」を取り払った関係においては、そのような声こそが、その関係を成立させる要素であり、またその関係を生きるものの語りといえる。

けれども、そのような関係、そのような領域では、「全人格的な語り」が可能である、というのではない。というのも、関係とは他者との接触であり、そこに接触部分がある以上、その部分から受ける圧迫からひずみ、変質するのが語りの性質といえるからだ。

そのような意味で、権力的な「物語の強要」を取り払った場面でも、「関係する」ということの暴力はあるし、また私たちは逃れがたくそこにいるものといえる。

とかなんとかかいて続く・・・、ような代物だったり。
本人にもよくわかってないというのが実情な感じです。

メモ

ストーリー、起承転結のないところでも、
なにかは起きているし、消滅することもある

2008年4月7日月曜日

言葉とか


言葉や態度のなかに、あいてを囲い込んで身動きとれなくさせてから、あいてを「動き」とか「変化」とか語るものがある。言葉や態度はべつに嫌いじゃないが、そういうのは好きになれないし、嫌悪する。

身動きとれなくなるようなことを避けようというのじゃなくて。
触れることは、どこかでそれが避けがたいことだし、それをシャットアウトするのは、とても曖昧なつながりの拒絶だと感じるから。

つながりの鬱屈も、気持ちが動くこととか振動することも切り捨てないで、そんな意味でいろんなものがストレートに感じられるのが好きだ。

個人的には、そういうことを許容するくらいにここは広くて、やさしいことも残酷なことも起きるように思う。

わけわかんないこと言ってると思われるかもしれないけど、たとえば商業とか工業とか、季節が動いたり花が咲いたりすることも、そういうレベルでうごいてるようにも感じる。