先日卒論デザイン準備というものがあり、すこしだけ書き物をしました。
まあ「論文のデザイン」という体裁をかなり逸脱したものでしたが。
なにかの機会だし、その一部分をのっけてみようかと思います。
自分でも「どうなのかなー(いろんな意味で)」と思ってるところがあるので、
しばらくしたら消してしまうかもしれないけど・・・。
ホントにごくごく一部だけ、ゼミにもってったものより書き足してます。
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1)研究動機/背景
医療や教育など、さまざまな場面で、押し殺されてしまう語りというものがある。
例えば医療における診断の場面では、患者は、自らの痛み、苦しみ、虚無感などの「病い」を、生理学的疾患という「医学における専門的フィルター」をかけられた語りへと翻訳される。
またある種の教育の場面では、被教育者が何者であるかに関わらず、「社会的成功」をもたらす種類の語りや行為(テストの点がいい、内申がいい、学歴がいい、など)が称揚され、そこから外れた語りは、そこで声をあげることが許されない、ということがある。
クラインマン(1996)が「診断とは、じつは、面接のシステマティックな歪曲なのである」と述べているように、これらは「システマティックに歪曲された」語りの強要あるいは排除の形式といえる。
すなわち、このような場所では、医学的な成功(生物、生理的な「健康」状態)や、教育的な成功(社会的地位あるいは記号の獲得)につながる語りだけ許され、その「物語」からあぶれたり、それを犯す語りは徹底して排斥される、という構図が働いている。
この「物語」は、それぞれの場面でイコン的なものであり、またそこに力関係が働く以上、「物語の強要」は、(それを設定した)力関係=権力的な構図のなかでの暴力だといえる。
この権力的暴力のなかで、語られない語り、あるいは語ることを殺されてしまう語り、というものがある。
それは例えば診断場面における医学的専門用語のフィルターをかけられる以前の、患者のなまの痛みや声であったり、教育場面において被教育者が感じながら、しかし「称揚されるものから外れて」いるゆえにあげられない言葉や声だといえる。
だが実際のところ、権力を構築するさまざまな「物語」を取り払った関係においては、そのような声こそが、その関係を成立させる要素であり、またその関係を生きるものの語りといえる。
けれども、そのような関係、そのような領域では、「全人格的な語り」が可能である、というのではない。というのも、関係とは他者との接触であり、そこに接触部分がある以上、その部分から受ける圧迫からひずみ、変質するのが語りの性質といえるからだ。
そのような意味で、権力的な「物語の強要」を取り払った場面でも、「関係する」ということの暴力はあるし、また私たちは逃れがたくそこにいるものといえる。
とかなんとかかいて続く・・・、ような代物だったり。
本人にもよくわかってないというのが実情な感じです。
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