
すこし前に読んだ本に、「病いの語り」というのありました。病いを、医学的な治療対象というよりは、経験そのものとして扱おうとした本、という印象だった。書き手のスタンスは好きになれなかったけど、そのなかである治療者が、ケアについてどう感じているのかを喋ったところがあって、そのなかの「腐った粒」という表現が印象的でした。以下簡単に抜粋します。
病いの語り 第14章 P285~286から
「医者も他の人たちと同じです。貪欲で、嫉妬深く、脅えやすく、まったく生活が逼迫して……ひどく追い詰められれば危険なこともするでしょう。しかし、人間をケアするということは人間らしくなることです。傷つき、脅え、困りきっている人を助けようと努力するなかであらわになる私たちの小さな人間性の限界や失敗そして成功を見ることになるのです。…中略…どこと言えない搔痒感や、はっきりと指差せないがひどくヒリヒリするできものにイライラしているような具合いです。人間の核に、蝕むような、腐りかけた粒がひとつあって、それが私たちの気を狂わせようとしているような感じです。」
恒常系って、一般的にはホメオスタシスといわれるけど、自分はもっと広くて曖昧なくくりで捉えてる。ものの姿の一つのカタチ、あるいはカタチを保ってつなごうとする動きみたいなもの。「腐った粒」というのは、その中のどこかにある「核」というようなものじゃなく、一つの恒常系が、他の恒常系や無機物と関わり、接触したり摂食したりするなかで、ポジティブさもネガティブさも含めて、あるいはそれが持つ死も生も含めて、カタチをとり、動いていこうとする衝動(あるいは欲望といわれるもの)を呼んだ名前だと感じた。
恒常系が「カタチを保とう」とするところには、ひずみがあると感じる。その時点ではいつまでも「安定したカタチ」になっていなくて、不安定な要素をたくさん孕みながら、それを砕いて排泄して、それを補うものを摂食して、カタチを保とうとする動きがあるところが。いつまでも欠損を抱えたカタチ、あるいはカタチになりきれない、カタチを作っていこうとする機構群や、その軟らかい動き。
それは一つの恒常系としてでも、あるいはほかの何かにつながり、関わろうとするなかでも、それ自体のもつ欠損を露呈し、つながることや機動していることそれ自体が暴力になってしまう、ある意味ではずっと失敗(あるいは欠損状態の断続や連続)でしかいられないもの、みたいに感じる。それは「成功の対義語としての『失敗』」とかじゃなく。
そういうものが持つひずみも欲望もあるところに、正しく不適切にいようとしないでどうすんだ、ってのは思ったりする。自分に対してだけど。
そういう不適切で暴力的なところに対して、(関係や、そこにある鬱屈を切り捨てるとかじゃなく)切り拓かれたありよう、荒野のようなありようというのは、虚無主義にならずに、ものが生きようとすることの虚無をうける感じですごく好きだ。
そういうところから、その死も生も含めてでからだは(あるいは系になれない恒常性は)動くし、変質もするし、声や、感情とすら呼べない感覚も作動するのだと感じる。
そこの関係、あるいはカタチになれない恒常性の合間を、静かに暴力的に、いろんな(と「括って」いえるものじゃなく、もっと自分にとって手触りのある)なにかを、ふと巻き込み/巻き込まれながら、通行していこうとするものを知ること、そこから動こうとすること、というのは自分には重要なものに感じられたりする。(文のこういう終わり方ってすこし前もしたようなorz)

