2008年5月21日水曜日

恒常-系


すこし前に読んだ本に、「病いの語り」というのありました。病いを、医学的な治療対象というよりは、経験そのものとして扱おうとした本、という印象だった。書き手のスタンスは好きになれなかったけど、そのなかである治療者が、ケアについてどう感じているのかを喋ったところがあって、そのなかの「腐った粒」という表現が印象的でした。以下簡単に抜粋します。

病いの語り 第14章 P285~286から
「医者も他の人たちと同じです。貪欲で、嫉妬深く、脅えやすく、まったく生活が逼迫して……ひどく追い詰められれば危険なこともするでしょう。しかし、人間をケアするということは人間らしくなることです。傷つき、脅え、困りきっている人を助けようと努力するなかであらわになる私たちの小さな人間性の限界や失敗そして成功を見ることになるのです。…中略…どこと言えない搔痒感や、はっきりと指差せないがひどくヒリヒリするできものにイライラしているような具合いです。人間の核に、蝕むような、腐りかけた粒がひとつあって、それが私たちの気を狂わせようとしているような感じです。」

恒常系って、一般的にはホメオスタシスといわれるけど、自分はもっと広くて曖昧なくくりで捉えてる。ものの姿の一つのカタチ、あるいはカタチを保ってつなごうとする動きみたいなもの。「腐った粒」というのは、その中のどこかにある「核」というようなものじゃなく、一つの恒常系が、他の恒常系や無機物と関わり、接触したり摂食したりするなかで、ポジティブさもネガティブさも含めて、あるいはそれが持つ死も生も含めて、カタチをとり、動いていこうとする衝動(あるいは欲望といわれるもの)を呼んだ名前だと感じた。

恒常系が「カタチを保とう」とするところには、ひずみがあると感じる。その時点ではいつまでも「安定したカタチ」になっていなくて、不安定な要素をたくさん孕みながら、それを砕いて排泄して、それを補うものを摂食して、カタチを保とうとする動きがあるところが。いつまでも欠損を抱えたカタチ、あるいはカタチになりきれない、カタチを作っていこうとする機構群や、その軟らかい動き。

それは一つの恒常系としてでも、あるいはほかの何かにつながり、関わろうとするなかでも、それ自体のもつ欠損を露呈し、つながることや機動していることそれ自体が暴力になってしまう、ある意味ではずっと失敗(あるいは欠損状態の断続や連続)でしかいられないもの、みたいに感じる。それは「成功の対義語としての『失敗』」とかじゃなく。

そういうものが持つひずみも欲望もあるところに、正しく不適切にいようとしないでどうすんだ、ってのは思ったりする。自分に対してだけど。
そういう不適切で暴力的なところに対して、(関係や、そこにある鬱屈を切り捨てるとかじゃなく)切り拓かれたありよう、荒野のようなありようというのは、虚無主義にならずに、ものが生きようとすることの虚無をうける感じですごく好きだ。
そういうところから、その死も生も含めてでからだは(あるいは系になれない恒常性は)動くし、変質もするし、声や、感情とすら呼べない感覚も作動するのだと感じる。

そこの関係、あるいはカタチになれない恒常性の合間を、静かに暴力的に、いろんな(と「括って」いえるものじゃなく、もっと自分にとって手触りのある)なにかを、ふと巻き込み/巻き込まれながら、通行していこうとするものを知ること、そこから動こうとすること、というのは自分には重要なものに感じられたりする。(文のこういう終わり方ってすこし前もしたようなorz)

メモ

結局ある種の甘さというのは、(おそらく本質的な暴力の領域に対する)遂行的矛盾を巧妙に隠す装置と、そこへの耽溺や依存なんだと思った。

その背徳的な感覚、本質的な暴力を巧妙に「ないことにしたり」「すりかえたり」して愉しむ感覚って、自分が自分にできるだけの(暴力や、空隙あるいは余白に対する)ありようや向き合い方をしていない、どこかで麻痺や隠蔽を「ないことにしている」ような感覚なんじゃないのか。

2008年5月19日月曜日

熱とつながり

なにかがなにかに触れる、あるいは触れ合いがある、というのは、一面では片方の、あるいは双方の熱や圧力が伝わる、ということと、もう一面ではその熱や圧力が相手を侵犯したり壊してしまいかねない、というとこがあるように思う。

その触れ合いのコンクリフトって、とても避けがたいように自分には感じられたりする。
(ある種の暴力は、そういうとこからきたりするようにも感じる。あるいはどんなコミュニケーションのなかにも疎外や暴力や、その要因が入ってるというか)

みんなが頑張れば世界はよりよくなる、という考えがあるけど、そういうのって、みんながそのコンクリフトを見ないことにするようにしていく、っていうことなら、それはコミュニケーションの否定じゃないのか、と思う。

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そういう意味で「疎外をないことにする箱」を作って、そこに入ろうというのは、(暴力も疎外も含んだ)コミュニケーションを否定した上で、その箱の中で「コミュニケーションしている振り」をすることなだけに感じる。

そしてそこに虚構が絡むと、すごくいろんなものの弱さを掬い取って耽溺させる罠みたいになってくる。だけどそれってありうるつながりや、弱さが弱くて惨めなまま生きられることに対する否定なんじゃないのか。

そこを否定しておいて、耽溺できる場所に連れて行くというのは、結局口を塞いだまま喋っていることにするような真似だと思う。

追記+α


schism

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じつわ、自分がいろんな企業説明会にひょこひょこ行ったりしたのは、前の記事の意味でのパイプラインを自分の目でみたいなー、というのがあったりしたのです。説明会いくのも飽きてきた今日この頃なのですが

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ところで「自分がどこにも属してない感覚」ってすごく大事だ、っていってるヒトがいた。
それってすごく同感なんだけど、「どこかに属さざるを得ない弱さ」をないことにしてしまうならどうなのか、と思ったりしました。

パイプライン

(なんか全然まとまりのない文になってしまいました、すみませんm(_ _)m)

就職活動をする前から、経済のことはそれなりに気になってました。
単に貨幣がどううごくか、ということでなく、何が流通するのかということ。

「流通」というのは多分一般よりかなり変則的な意味で自分はつかうのだけど、どのように植物がそだち、どのようにコンクリの壁が建ち、自動車が走り、鶏が肉として殺され、虚構がうみだされ、貨幣が流れ、そこでどのような痛みやよろこびやリアリティがあり、疎外とつながりがありうるのか。

いいかえれば、どのような体験、どのようなリアリティ、あるいはアンチ体験やアンチリアリティ(虚無や空虚さ。それとは少し違うけど虚構を生きざるを得ないこと)が流通しているのか(あるいは流通せず、ただ固定的にそこで風化していくのか)、みたいな。

自分ではそういうのが流れる(あるいは流れない、流れられない)経路を「パイプライン」とか呼んだりします。単に物流、あるいは貨幣の経路でなく、ものが生きることのポジティブさもネガティブさも含めて起動する、微細だったり脆かったり暴力的だったりする経路群のこと。

経済が気になってたのは、それが起動する場所にダイレクトにいくこと、そこで手を動かすこと、というのは俺にはそれなりに重要なことのように思えたからです。別に儲けるとか儲けないとかは割とどうでもいいのだけど(食ってはいきたい)。

少し話がそれるけど、「子どものとき」って、何かの体験や経路に対してダイレクトなところがあると思ったりします。だけど俺は、「子どものとき」を称揚するのは好きではないです。

「子どものとき」っていうのは、個人的には「親の経済的な庇護」の元でのありようだと思っているところがあるのです。そこでの「ダイレクトさ」は、ある部分では経済的なものから切り離された地点でのダイレクトさじゃないのか、と思うとこもあるので。

だけどそれはやっぱりダイレクトだし、ある部分ではかえがたいものなんだと感じます(矛盾してるようですが)。そういう意味では、「経済に手を突っ込んだときのダイレクトさ」と比べて(そもそも比べるものではないにしろ)、どっちがよりダイレクトだといえるようなものではないと感じます。

俺が嫌いなのは「親に経済的に庇護されて、自分の好きなことをやってられた『子どものとき』はよかったねえ」という奴です。そんなわけねえだろう、と。

子どもには子どもの暴力も弱さも危うさもあって、そこを生きてるのはそいつにとって「庇護の膜に包まれた安全なゆりかご」なんかじゃなく、(場合によってはその「庇護に包まれた気持ち悪さや暴力性」も含めて)リアルなことなんじゃないかと思う。

ちょっとずれました。話をパイプラインにもどすと、自分は「パイプライン」を、これも変則的な意味でのホメオスタシス(生物学用語)とか恒常系みたいに感じるとこがあります(それだけじゃなく、もっと無機質なとこもあるにしろ)。

ものが、痛みも弱さも奇妙なつながり抱えながら、そこでなんとかカタチを保とうとしたり、崩れてしまったりするなかで、生きようとする欲望からできるもの、みたいな。そういう意味ではとても脆い、あるいは固定的でなく変質や変形を抱えた恒常性、を保とうとする動きや運動みたいなもの。

パイプラインは、そういうものだったり、あるいはそういう欲望が作動する領域からできているように感じたりする。そこにはリアリティだけじゃなく、リアリティの持つ残酷さから目を逸らして虚構を生み出さざるを得ない弱さとかがあったり。

だけど、そういう弱さのなかに耽溺をはじめて、それを隠し続ける記号や道具を自分のまわりに集めるというのは違うと思います。ただの麻痺ではないかと。

個人的には、ということになるかもしれないけど、ものの痛み、弱さや強さ、空虚さ、病とかの、ものの欲望の動きのなかで「自分にとってのリアリティが、ポジティブさもネガティブさも含めて起動する場所」にいたかったりします。

(痛みとか病といっても「(ポジティブさに対立する)ネガティブさの象徴」として特権化されたものじゃなく。もっとどこにでもあるような、ふとした動きにも関係するようなもの)

手触りに不必要な虚構や偽りがない場所というか、「俺はいま、現実と向き合ってこんな感じで生きてるぜ」ってのがすげえ実感できて、その上で自分がなにを望むか知ることができる場所。

あるいはそこで疎外にもつながりにも暴力にも触れ、自分が固定的なものとしてでなく、変質しようとする、あるいは変質してしまうこととか。そういうことって自分には重要なことだったりするのです。

2008年5月16日金曜日

なんぞこれww


http://b-tm.net/aori/org.php?n=kero+80&a=17&b=7&c=17

こんなものを見つけました。無駄におもしろすぎるww
上のは「ベジタリアン」ですが、「ミッキー」とか「パラサイト」も大好きです

2008年5月15日木曜日

Reality

作場さんという人(リンクにある------r-u------のヒト)が、

やはり「俺は今現実と向き合っているぜ」という感覚に対してこそリアリティという言葉が使われるべきです。

とかいていたのだけど、全くそう思う。その通りだと感じる

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俺がある面で求めているのは、リアリティを前にして、リアリティにいて、からだがどう動くか、というその一点だけだといっても過言じゃない。てか、その面ではそれだけでいい

そういう意味では、自分にとっていちばんリアルさがある場所で手を動かしたい。(自分にとっての)リアルさを起動する場所。ひずみ

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リアリティが起動する場所にいきたい。自分にとってのリアリティが、その場所のリアリティと連結するような場所。それは(相互に)補われる、ような甘さじゃなく

「場所」というのは立ち位置のことにすぎないのかもしれないけれど、そう感じる

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そういう場所で、欲望とか脆さとか愚かさといわれるものの、疎外を含んだ(あるいはひずみを抱えた)つながりのなかで、どういうふうにからだが動くのか、ということだ。

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余談だけど、自分は就活とかもそういうとこを組み込みながら「箱」としての会社を選んでる気がする。結局、どの会社、どのサークル、どの組織にいようが、それは「箱」についた名前が重要なのではなく、そこでありうること、ありうるつながり、ありうる疎外、ありうる変質、ありうる体験、そういうことが本質的なのだと思う

2008年5月10日土曜日

就職活動のこと


自分はいま就職活動をしています。
大学に属している期間があと一年弱、というのもその理由だけど、他にも理由があるのです。
いわゆる社会性はない方らしいので、大学院にいくことを勧められることもありましたが、それは最終的には選択肢にでてきませんでした。

就職活動を選んだのは、すごく簡単にいうと「自分の手を汚してみたかった」からです。

生きものが生きていくのには、他の生きものを殺して食うとか、自分の居場所の確保のためになにかを排斥する、ということがあると思う。

例えば何かの研究機関にいって、そこで好奇心や欲望を「システムの庇護」に守られて起動する、というのは、俺にとっては生きものが生きようとすることのなかにどうしようもなく生じる汚さから、衛生的に隔離された場所での行為のように思えるところがあります。

それってずるい、あるいはフラットじゃないと思ったのです。

どこにだって汚さがあるとしても、経済や流通では、ものが生きようとするときの弱さや愚かさから生じる汚さが特にビビッドになるところがあると思う。
そこに手を突っ込まないで、どういう形であれ「安全に隔離された」場所を求めることは、自分が何かを殺したり排斥しながら生きてるということを、なにか理由をつけて隠蔽した場所にいようとする、ようなことだと感じます。

(たぶん)いろんなものは、安全で安心でぬくぬくした場所にいたいです。俺だってそうです。
だけどそういう欲求、あるいは素朴で原初的な欲望から、いろんなひずみがでることってあると思う。
システム的なもの、規範的なものから生じる鬱屈はそういうものだと思います。

例えば「安全でいたい」という欲望から、自分たちの位置を特権化していこうとするようなシステムが作られる。そのなかで否応なく痛みが生じたり、押し潰れるものがある、ということは往々にしてある、と思うのです。

だけど俺が感じるのは、そこで生じる痛みや押し潰れてしまう感情、あるいは欲望と、システムを作ろうとした欲望は、どこかで同じような場所からきたのではないか、ということです。

規範、教条、名前はなんでもいいけど、そういうものは崇められるものとして以前に、不安や怖れのなかから、何かにすがろうとしてでてきたものっていうとこもあるんじゃないかな、と感じる。
不安の風のなかで、かろうじて立ってる建造物みたいなもの。

その建造物を求めざるを得なかったどうしようもなさが、システムも、そのなかでの痛みも生むんじゃないかと感じます。

だから、どういう場所であれ「衛生的に隔離された」場所を求めること(例えば社会的な名目、個人的な名目で理由付けされた奇妙な箱のなか)は、そういうどうしようもなさから目を逸らすこと、あるいはシステムの被害者としてしか自らを語らないことになるのではないか、と思います。

システムや誰かの感情を、全体論的とか「客観的」に語ることが、単に仮想された権力のなかで独り言をいうような真似とは思うけど(そういう意味ではいろんなことはとても語れるようなものではないかもしれないけれど)、でもどこかで、システムが生みだす鬱屈(あるいはシステムを生みだす鬱屈)に、自分も加担しているし、そこから逃げるような真似はそれこそ傲慢さを隠した卑劣さだと思う、というところが俺にはあります。

そういう意味で、もうとっくに自分の手は汚ないものになってるとはいえ、それがはっきりとクリアになる立ち位置にいってみたい、というのがあるのです。個人的な、あるいは社会的な「序列化されたものの庇護」のなかで(あるいはそれを求めて)夢想するのはただの麻痺だと思っている、というか。

この場所や自分の、汚さもどうしようもなさも、あるいは弱さも愚かさも、クリアになるところに行きたい、と俺は思っています。

そういう場所のリアリティみたいなものが、それこそくだらなかったり馬鹿々々しいだけだったり虚無みたいなものでしかないとしても、そこで感じられること、出会うこと、場合によっては終わりようがなくからだや気持ちが動くことから何かをやっていかないと、それこそ最悪以下にどうしようもないんじゃないか、と感じます。

自分の中にもいろんな甘さ(あるいは傲慢さにつながる甘さ)がいっぱいあるとは言え、そういうものはとっとと切り払って、いろんなことがクリアになる場所にいこうと思います。

メモ

自分の寂しさを埋めるために何かを利用するのは間違いだ
(でなければ、本当に好きになれない。そういうことをする自分も)

生きること死ぬことに結果はない、あるいは何かが何かより上なんてない

生きて死ねよ、と思う
あるいは生きて死ねよってことだ