2008年5月10日土曜日

就職活動のこと


自分はいま就職活動をしています。
大学に属している期間があと一年弱、というのもその理由だけど、他にも理由があるのです。
いわゆる社会性はない方らしいので、大学院にいくことを勧められることもありましたが、それは最終的には選択肢にでてきませんでした。

就職活動を選んだのは、すごく簡単にいうと「自分の手を汚してみたかった」からです。

生きものが生きていくのには、他の生きものを殺して食うとか、自分の居場所の確保のためになにかを排斥する、ということがあると思う。

例えば何かの研究機関にいって、そこで好奇心や欲望を「システムの庇護」に守られて起動する、というのは、俺にとっては生きものが生きようとすることのなかにどうしようもなく生じる汚さから、衛生的に隔離された場所での行為のように思えるところがあります。

それってずるい、あるいはフラットじゃないと思ったのです。

どこにだって汚さがあるとしても、経済や流通では、ものが生きようとするときの弱さや愚かさから生じる汚さが特にビビッドになるところがあると思う。
そこに手を突っ込まないで、どういう形であれ「安全に隔離された」場所を求めることは、自分が何かを殺したり排斥しながら生きてるということを、なにか理由をつけて隠蔽した場所にいようとする、ようなことだと感じます。

(たぶん)いろんなものは、安全で安心でぬくぬくした場所にいたいです。俺だってそうです。
だけどそういう欲求、あるいは素朴で原初的な欲望から、いろんなひずみがでることってあると思う。
システム的なもの、規範的なものから生じる鬱屈はそういうものだと思います。

例えば「安全でいたい」という欲望から、自分たちの位置を特権化していこうとするようなシステムが作られる。そのなかで否応なく痛みが生じたり、押し潰れるものがある、ということは往々にしてある、と思うのです。

だけど俺が感じるのは、そこで生じる痛みや押し潰れてしまう感情、あるいは欲望と、システムを作ろうとした欲望は、どこかで同じような場所からきたのではないか、ということです。

規範、教条、名前はなんでもいいけど、そういうものは崇められるものとして以前に、不安や怖れのなかから、何かにすがろうとしてでてきたものっていうとこもあるんじゃないかな、と感じる。
不安の風のなかで、かろうじて立ってる建造物みたいなもの。

その建造物を求めざるを得なかったどうしようもなさが、システムも、そのなかでの痛みも生むんじゃないかと感じます。

だから、どういう場所であれ「衛生的に隔離された」場所を求めること(例えば社会的な名目、個人的な名目で理由付けされた奇妙な箱のなか)は、そういうどうしようもなさから目を逸らすこと、あるいはシステムの被害者としてしか自らを語らないことになるのではないか、と思います。

システムや誰かの感情を、全体論的とか「客観的」に語ることが、単に仮想された権力のなかで独り言をいうような真似とは思うけど(そういう意味ではいろんなことはとても語れるようなものではないかもしれないけれど)、でもどこかで、システムが生みだす鬱屈(あるいはシステムを生みだす鬱屈)に、自分も加担しているし、そこから逃げるような真似はそれこそ傲慢さを隠した卑劣さだと思う、というところが俺にはあります。

そういう意味で、もうとっくに自分の手は汚ないものになってるとはいえ、それがはっきりとクリアになる立ち位置にいってみたい、というのがあるのです。個人的な、あるいは社会的な「序列化されたものの庇護」のなかで(あるいはそれを求めて)夢想するのはただの麻痺だと思っている、というか。

この場所や自分の、汚さもどうしようもなさも、あるいは弱さも愚かさも、クリアになるところに行きたい、と俺は思っています。

そういう場所のリアリティみたいなものが、それこそくだらなかったり馬鹿々々しいだけだったり虚無みたいなものでしかないとしても、そこで感じられること、出会うこと、場合によっては終わりようがなくからだや気持ちが動くことから何かをやっていかないと、それこそ最悪以下にどうしようもないんじゃないか、と感じます。

自分の中にもいろんな甘さ(あるいは傲慢さにつながる甘さ)がいっぱいあるとは言え、そういうものはとっとと切り払って、いろんなことがクリアになる場所にいこうと思います。

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