2008年5月19日月曜日

パイプライン

(なんか全然まとまりのない文になってしまいました、すみませんm(_ _)m)

就職活動をする前から、経済のことはそれなりに気になってました。
単に貨幣がどううごくか、ということでなく、何が流通するのかということ。

「流通」というのは多分一般よりかなり変則的な意味で自分はつかうのだけど、どのように植物がそだち、どのようにコンクリの壁が建ち、自動車が走り、鶏が肉として殺され、虚構がうみだされ、貨幣が流れ、そこでどのような痛みやよろこびやリアリティがあり、疎外とつながりがありうるのか。

いいかえれば、どのような体験、どのようなリアリティ、あるいはアンチ体験やアンチリアリティ(虚無や空虚さ。それとは少し違うけど虚構を生きざるを得ないこと)が流通しているのか(あるいは流通せず、ただ固定的にそこで風化していくのか)、みたいな。

自分ではそういうのが流れる(あるいは流れない、流れられない)経路を「パイプライン」とか呼んだりします。単に物流、あるいは貨幣の経路でなく、ものが生きることのポジティブさもネガティブさも含めて起動する、微細だったり脆かったり暴力的だったりする経路群のこと。

経済が気になってたのは、それが起動する場所にダイレクトにいくこと、そこで手を動かすこと、というのは俺にはそれなりに重要なことのように思えたからです。別に儲けるとか儲けないとかは割とどうでもいいのだけど(食ってはいきたい)。

少し話がそれるけど、「子どものとき」って、何かの体験や経路に対してダイレクトなところがあると思ったりします。だけど俺は、「子どものとき」を称揚するのは好きではないです。

「子どものとき」っていうのは、個人的には「親の経済的な庇護」の元でのありようだと思っているところがあるのです。そこでの「ダイレクトさ」は、ある部分では経済的なものから切り離された地点でのダイレクトさじゃないのか、と思うとこもあるので。

だけどそれはやっぱりダイレクトだし、ある部分ではかえがたいものなんだと感じます(矛盾してるようですが)。そういう意味では、「経済に手を突っ込んだときのダイレクトさ」と比べて(そもそも比べるものではないにしろ)、どっちがよりダイレクトだといえるようなものではないと感じます。

俺が嫌いなのは「親に経済的に庇護されて、自分の好きなことをやってられた『子どものとき』はよかったねえ」という奴です。そんなわけねえだろう、と。

子どもには子どもの暴力も弱さも危うさもあって、そこを生きてるのはそいつにとって「庇護の膜に包まれた安全なゆりかご」なんかじゃなく、(場合によってはその「庇護に包まれた気持ち悪さや暴力性」も含めて)リアルなことなんじゃないかと思う。

ちょっとずれました。話をパイプラインにもどすと、自分は「パイプライン」を、これも変則的な意味でのホメオスタシス(生物学用語)とか恒常系みたいに感じるとこがあります(それだけじゃなく、もっと無機質なとこもあるにしろ)。

ものが、痛みも弱さも奇妙なつながり抱えながら、そこでなんとかカタチを保とうとしたり、崩れてしまったりするなかで、生きようとする欲望からできるもの、みたいな。そういう意味ではとても脆い、あるいは固定的でなく変質や変形を抱えた恒常性、を保とうとする動きや運動みたいなもの。

パイプラインは、そういうものだったり、あるいはそういう欲望が作動する領域からできているように感じたりする。そこにはリアリティだけじゃなく、リアリティの持つ残酷さから目を逸らして虚構を生み出さざるを得ない弱さとかがあったり。

だけど、そういう弱さのなかに耽溺をはじめて、それを隠し続ける記号や道具を自分のまわりに集めるというのは違うと思います。ただの麻痺ではないかと。

個人的には、ということになるかもしれないけど、ものの痛み、弱さや強さ、空虚さ、病とかの、ものの欲望の動きのなかで「自分にとってのリアリティが、ポジティブさもネガティブさも含めて起動する場所」にいたかったりします。

(痛みとか病といっても「(ポジティブさに対立する)ネガティブさの象徴」として特権化されたものじゃなく。もっとどこにでもあるような、ふとした動きにも関係するようなもの)

手触りに不必要な虚構や偽りがない場所というか、「俺はいま、現実と向き合ってこんな感じで生きてるぜ」ってのがすげえ実感できて、その上で自分がなにを望むか知ることができる場所。

あるいはそこで疎外にもつながりにも暴力にも触れ、自分が固定的なものとしてでなく、変質しようとする、あるいは変質してしまうこととか。そういうことって自分には重要なことだったりするのです。

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