2008年5月19日月曜日

熱とつながり

なにかがなにかに触れる、あるいは触れ合いがある、というのは、一面では片方の、あるいは双方の熱や圧力が伝わる、ということと、もう一面ではその熱や圧力が相手を侵犯したり壊してしまいかねない、というとこがあるように思う。

その触れ合いのコンクリフトって、とても避けがたいように自分には感じられたりする。
(ある種の暴力は、そういうとこからきたりするようにも感じる。あるいはどんなコミュニケーションのなかにも疎外や暴力や、その要因が入ってるというか)

みんなが頑張れば世界はよりよくなる、という考えがあるけど、そういうのって、みんながそのコンクリフトを見ないことにするようにしていく、っていうことなら、それはコミュニケーションの否定じゃないのか、と思う。

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そういう意味で「疎外をないことにする箱」を作って、そこに入ろうというのは、(暴力も疎外も含んだ)コミュニケーションを否定した上で、その箱の中で「コミュニケーションしている振り」をすることなだけに感じる。

そしてそこに虚構が絡むと、すごくいろんなものの弱さを掬い取って耽溺させる罠みたいになってくる。だけどそれってありうるつながりや、弱さが弱くて惨めなまま生きられることに対する否定なんじゃないのか。

そこを否定しておいて、耽溺できる場所に連れて行くというのは、結局口を塞いだまま喋っていることにするような真似だと思う。

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