2008年6月30日月曜日

レポート再び

お久しぶりです。すこし前~この頃まで、調子の乱高下とボケにいたkeroです(まだちょっとボケ風味ですが・・・)。
そういう時はあまりここには書かないようにしよう、と思っていたら、ずいぶん日があいてしまいました。

もう一学期も終わり近くになり、レポート書いたりしています。
テスト勉強(←基本的にすごい苦手(涙))も単位が欲しい1科目だけはちゃんとしてます(; ;)

今年は卒論もかくので、なんとなくですが、レポートにもそこでかこうかなと思ってることの断片がでてきたりしてます。今回はそのうちの1個(の下書きというかラフスケッチというか)をあげてみます。言葉遣いとか色々ぐだぐだですが・・。

たぶんだけど、卒論はこういう方面のことが(ことも?)かかれる、かもしれません。いろいろ未定な感じですが、卒論では暴力論をかくのかなあ、と思ってます。

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【レポート】

授業のなかで思ったのは、一般的にエロスとタナトスといわれるものは同じもの、あるいは同じようなものではないかということでした(一般的、といっても、どの程度一般的なのか分からないところもありますが)。

うまくいえませんが、それはどちらも「生を生きることへの欲求」が、関係性のコンフリクトのなかで変性し、異なる発現形になったもののように思います。
(「生を生きることへの欲求」は、すこし言葉を変えれば「遭遇への欲求」「新しさを生きる欲求」といってもいいかもしれません。)

これらはある場合には、エロスが性や自己維持の傾向、タナトスが攻撃や自己破壊の傾向だといわれています。しかしタナトスという概念に対する単純な(そして用語を曲解し過ぎかもしれない)疑問ですが、生き物は「死にたい」のでしょうか。そうではないと感じます。

例えば、ものすごい速度でバイクを走らせるのも、バンジージャンプとかをやってみたりするのも、「死にたい」から「それをする」のではなく、「自分がどこまで見れるのか知りたい」あるいは「自分がどれだけ遠くまでいけるのか知りたい」から、そういった「危険」といわれることをやる部分があるように思われます。

その「どこまで見れるのか」や「どれだけいけるのか」という欲求は、単に好奇心というより、「自分がどれだけ新しい世界を生きられるのか」を試してみたい、言い換えるなら「リアリティを生きることへの欲求」ではないかと感じます。

この「リアリティ」を生きることへの欲求というのが、先に述べた「生」を生きることへの欲求、あるいは、「遭遇すること」への欲求なのではないかな、と思います。ようするに、生き物が望む(ものの1つ)のはリアリティなんじゃないかって話です。

エロスという概念の、性あるいは他者への出会いへの欲求、あるいは、それを実行していくための「自己」の維持、という傾向も、その「リアリティを生きることへの欲求」の派生形みたいに思えるところがあります。

あるいは、「欲求」よりも「リアリティ」こそが生き物の根幹にあり、その条件の結果として生き物には、自らのリアルな領域を起動させながら、世界のリアリティを生きること、を望むというところがあるのかもしれません。半分飛躍と妄想かもしれませんが、その「自己の底部のリアリティ」と「外界のリアリティ」の境目は自/他というものではなく、幾分曖昧にも感じます。

そしてテクストにあった「ヴィーナス」を「開く」というのは、この欲求、あるいはこの欲求の派生形が、組み合わさった一つの形のように思われます(ここでの意味は、ユベルマンが用いたのと変えていますが、しかし同一の文脈上にのせることはできると思います)。

まず「新しいものをみたい」という欲望、そして「自己を維持していたい」という欲望の2つです。そして、それらが今回のテクストにおいての組み合わせとしてでてくるのは、「自分は『安全な』記号的世界にすまって」おいて「対象、あるいは好奇心や性的な対象のことは破壊し、『開く』」というものです。

ここには矛盾があります。そしてその矛盾を隠蔽している工作方法が、「ヴィーナスを開く」というモチーフ(繰り返しますが、ユベルマンが用いた意味とはちょっと違っているかもしれません)を、どこか暗く陰惨で、いくぶん歪んだ美しさのあるものにしているのだと思われます。

そしてここでいう矛盾とは、論理的な矛盾というより、行為における矛盾、あるいは遂行的矛盾のことです。つまり「自分のリアリティ」は、脅かされない安全な場所においておき(エロス的な志向)ながら、他者のリアリティを開いて視る(タナトス的な志向)、という「リアリティに対する態度の矛盾」です。

実際、そこで隠蔽、あるいは安全の確保が行われている以上、行為者のリアリティは、他者のリアリティに開かれているわけではありません。その意味で、行為者は自らのリアリティをも隠蔽しているといえます。そしてその隠蔽につかわれるのは、快楽や美のモチーフだ、というのがぼくの意見です。

自らのリアリティが、自らの行為によって隠蔽されている、ということを隠し続けるために、「天上の美しさ」だのなんだの言って、その「対象が行為者にもたらす快楽」のなかに耽溺し、自らのリアリティから逸脱し続ける、という方法がここでとられている方法なのだと思います。

実際のところ、他者に対して自らのリアリティを曝して向ける、ということは、「安全が確保された方法」ではないと思います。それゆえに、そこに臆病さや固着が入り込めば、それは簡単に保身へと走るでしょう。しかし保身をしておきながら、「リアリティへの欲求」が消えがたい者は、そこで「他者の死」あるいは「魅力的に感じるものの死」へと、逸脱していくのだと思います。そしてここでいう「魅力的」というのは、「自らのリアリティを(安全ななかで)触発し、起動させる対象」という程度の意味です。

しかし、どのような欲望も、リアリティから発し、リアリティへと向く、と仮定できるならば、上記のような方法は、自らの欲望自体にも反する、あるいは自らの欲望も隠蔽している、という意味で、自らに矛盾した閉じた環のなかにいるものと思われます(これは「論理的に閉じた環のなかにいる」というより、快楽と臆病さの惰性によってサーキットを回り続けている、という方が正しいでしょう)。

もちろん外部、あるいは他者に対して「これがリアリティだ」ということはできないと思います。それはどこかで「わからなさ」を含む領域に属することだし、それを「これが~」という形のなかに固定して、それに対して行為を遂行する、というのは、変性する、またどのように変性するかは決定しがたい領域を、「形」のなかに入れている「ことにしている」、という意味で、やはり遂行的な矛盾を抱えることのように思います。

しかし「固定」を持ち込みがたいにしろ、自らのリアリティからその領域のリアリティへ向く行為のなかに、生が含まれていても死が含まれていても、「生」や「死」の記号性に固着せずに、生じたリアリティと外部のリアリティが(記号的調和などとしてではなく、場合によっては夾雑に)混じって変質していく領域を、ちゃんと機動させていくということは、へんにサーキットのなかにいるよりいいんじゃないかな、と思いました。

(蛇足みたいですが、それが機動するなかで、新しさ、あるいは「タナトス」的な意味ではない死が生きられることがあるようにも感じます。)

2008年6月9日月曜日

ストレッチ

ストレッチがわりと好きです。普段はあまりしないけど。筋(すじ)をのばすストレッチとか筋トレより、筋に負担をかけるストレッチの方がいいなと思う。

からだが「楽に」とか「楽しく」動くより、なにか規範があるわけでもない必要さから機動する、という意味でいい感じに動くのが自分には好みみたいなので、そういう風に動くようになるようなストレッチが好きみたいです。

楽しい、とか、好き、っていうのは、簡単に必要さを疎外して逸脱しはじめるから、どうも自分はそっちにはいかない傾向があるみたい。

でも「純化」されたり、mustで求められた必要さよりも、楽しいとか好きとか意味不明とか、いろんなゴタゴタがあるとこで機動する必要さがいいなと思います。ホントに。

そういう必要さから、どうしようもなさやシビアさも、ずっこい装置や罠も込みで、なにかが変質して、新しさがぺろって開いていく感覚は、「俺は○○が好み」っていうのじゃなくほんとに好きです。

ただ、変質や変わることだけじゃなく、固着とかじゃないとこで、何かが穏やかに、あるいは暴力的に、あるいはグダグダにあることも、意義(?)があるのだと感じるけど。

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【追記】

自分は音楽系のサークルでフエを吹いたりしてる(上手くはない)のですが、昨日はそのサークルが参加する学園祭の曲決めでした。
今年は有志というカタチで2つのメンバーででるのですが、ほんとに「こんなことあっていいのかよ」ってくらいいい人たちと組めて、俺はめちゃめちゃうれしいです。
別になにかの区切りが大事とは思わないけど、今年はOB以前としてでられる最後の機会なので、自分のできることいちばん(というと語弊があるけど)やろうと思ってます。
mustっていう意味じゃなくて、そこで起きることが起きるように動けたらいいと思ってます。