2008年7月10日木曜日

洞窟の話

この頃自分のブログをみかえしてみて、「なんだか金太郎飴みたいに同じ話がでてくるなあ」と思ったkeroです。
きっと自分にとってはそこが重要なんでしょう。
たぶん今回も金太郎飴みたいな話です。

洞窟の話ってのは、先日知り合いと話していて、卒論で扱う「暴力」についての話になって、そこであげた比喩みたいなものです。

・・・

仮にイキモノが2体、洞窟に閉じ込められたとする。
2体ともお腹がすく。生きたいし、生き延びて自分の欲求からの体験をしたい。

この場合、どちらかがどちらかを食べなければならない(仮定の話です・・)。
どちらも「生きたい」という同じようなベクトルの欲求を持っているにも関わらず、その同一のベクトルが関係性において葛藤、コンフリクト、矛盾を生む。

これが卒論で扱う「関係性の暴力」になるのかなー、っていう話をしました。

洞窟=関係性は、「2(体)」を生かすことはできない。
たぶん1.7体くらい。っていうのが俺の印象です。

くたばる0.3分はどうなるのか、っていうのが、きっと卒論のメインの話になります。
その0.3分が、まともにくたばる筋道?があるんじゃないか、と俺は思っています。
インチキ(いろんなインチキがあるけどそこは今は省きます)なしで、まともにできんじゃないの?と思ってる。100%とはいわない(「100%」ってインチキくさい)けど、まあ85%くらいはまともに。

そこで何かがちゃんとくたばることのなかに、新しさとか自由とか感情とか、そういういろんなことは集約されてくる気もする。1つには、って話だけど。

でもそれとは別に、洞窟って個体の欲求とは別なんだろうな、とも思います。
個体は、というか自分だったら、自分は生きたいし、相手が生きているのもうれしい。
痛いことや傷つけることなんか嫌いだし、好意をもっていろんなのにちゃんと関わりたいと思う。

だけど生きようとするなかに、これは具体でも比喩でもあるけど「食べる」というようなこと、それによって傷ついたり壊れたりすること、そういうことが含まれるのは、洞窟のハードさやシビアさ(←うまくいえないけど)なんじゃないかな、と思います。

(「食べる」ことをちゃんというと、「同一の方向性をもった2つのベクトルがあるときに、そのうち一方が一方を併呑すること」みたいな感じです。これが遂行されることに対して教条的な「正当性」からの理由付けはできないと思う。)

そしてそのシビアさと、個体の欲求は、そもそも(論理としては)無関係なのに、個体はそこに巻き込まれるんだろうな、とか。

そこらへんをちゃんとやりたいな、と思うのです。
宗教的なものとか、先取りされた話に棚上げしないで、ちゃんとやりたいなー、と。

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ところで再び「きみのブログアカウントは怪しいよ~」という宣告がきました。
ホントに消えてしまうのか・・・、おろおろ;
いちおう(消滅の反省を踏まえて)過去ログとってあるので、ここが消滅したり使えなくなったら引越し先にうつろうと思っています。引越し先はプロフィールのとこにかいてあるです。

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