2008年7月21日月曜日

あたまがいいって

自分でいうとバカみたいだけど、俺はたまに「keroさんあたまいいですね」といわれることがあります。
いう人に悪気はないんだろうけど、本人はそれをいわれるとちょっと凹むのです。
ふざけて自分で「俺あたまいいから~ww」とかいったりすることもあるけど。
でもそれいってるのもあんまりいい気分じゃない。

この頃知り合いで国家試験モドキを受けた奴がいて、そいつが「全体で○○位だった」っていってたんだけど、そういうのをきくと「試験での順位より、受かっていった先でどれだけモノとか人と向き合えるかのが大事じゃないかなあ」と思ったりするのです。

テストでどれだけできたかって、例えば陸上競技でどれだけタイムをだせたか、みたいなとこがあると思う。
いいタイムでれば、それってすごいなあと思うけど、でも仮に好きでもない競技を「自分はできなきゃダメだ」みたいな気持ちでやってたらつらいと思う。

自慢みたいなことする奴って、ホントはそれをやりたくてやってるんじゃなくて、何か「これができなきゃダメだ」みたいな強迫観念とかからやってるから、点数でたときに「自分はこれだけできたんだ。だから強迫観念がつけいる隙は持ってないよ」ってアピールをしている気がする。
他の人に対してではなく、自分の方にやってくる強迫観念に対して。
それってきいてても凹みます。

昔の自分もそういうとこあったんだけどね・・・。
育った家の一部の人が「お前は『優秀』じゃなきゃダメ」みたいな感じで、その期待に応えないとまずいし、それができなかったら自分はすごく何もないんじゃないかな、みたいに思ってたというか。
子どものときだけど。ああでも、そういう傾向はかなり長く続いていたな・・・(受験が終わってしばらくくらいまで)。

なぜかどういうわけか、変な試験では点数とれたのだけど、本人はちっともうれしくなかったのです。
強迫観念を「自分のプライド」だとすり替えていたし、いくら点数っていうモノサシからの評価もらっても、そのプライドからの圧迫があったので、ただイライラしてつらいだけだったというか。

「あたまいい」の発言聞くと凹むのの1つの理由は、その変なプライドモドキからの圧迫を思い出すから。

それともう1つの理由は、「それをいうのって、相手をみてるんじゃなくて、何かのモノサシで測った相手をみてるんじゃないかなー」と思うからです。ようするに「相手じゃなくてモノサシをみてるだけ」というか。

モノサシにも色々あるし、それは(ごく偏った)社会的評価っていうモノサシだけじゃなく、自分の卑屈さとかだったりもすると思う。でもそういうとこから相手みるよりも、そういうのじゃないとこからみたり接した方が好きだなー、と思います。

「モノサシの無い世界」っていう「モノサシ」を持ってくる、っていう意味じゃなく、自分でやってもそっちのがいい。てか最後は表題から全然ズレましたね・・・。

あと自分が思うのは、そういったモノサシが壊れた場所で、あるいは他のなにかとの関わりのなかでの、リアリティ、感情、軟らかさ、まぶしさ、葛藤、虚ろさやわからなさとかから、なにが望まれ、なにが起きるか、ということが大事なんじゃないかな、ってことです。

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