なんだかからだが休み期にはいって、ほわほわぺよぺよしてるkeroです。
休み期なことと、それと自分がいまどんな感じか(暗中)模索してるとこから、
しばらくヘンテコな記事が続くかもしれません。
そんな感じの1つめの記事・・・
+++
以前ある人と話をしたのだけど(具体的に「誰」というより、複数の人にいったことのゴタマゼというか)、つきあう/つきあわない、っていうのは、恋愛感情からいうものではないと思う、自分は。
それは恋愛感情で妄想いっぱいになったとこからではなく、「自分はあなたと一緒にいたい」というところからいうものじゃないかな、というのが自分の気持ち。
まあ俺だって恋愛感情をもつことはあります、経験などから判断しても。
だけどそれは往々にして、自分の弱さやダメさを「補って」くれる記号だと相手をみなしてるとこで一人芝居してるだけな気がする。
そういうのを持つな、という話じゃないです。
それぞれの弱さはある、と思うし、そういう弱さをないことにしなくていいと思う。
そこからくる感情も同様に。
だけど誰かの方を向くときは、その弱さからくるものではないとこから向きたいな、と思います。
「弱さを補ってくれるもの」として相手をみる、というのは、自分が欲しい鏡の投影をしているだけであって、相手をみているのでないと思うから。
なにかにアクセスすること、アクセスしようとすることは暴力的なことだと思う。
1つには、自分の弱さも含めたところからくるものを、言い訳せずにそこに晒すことだから。
それがどう受け取られるかはずっと分からないままだと思う。やってみないと。
やるには覚悟が必要だと思う。それは「これをやる」という決定ではなく、自分の弱さを隠そうという固着を壊して踏みだすようなこと。「決定」ではなく、やわらかい「破棄」みたいなもの。
それは「破棄」という強いことばではなく、ホントは自分のやわらかさから動こうとすることだと思うけど。
なんというか、「強い意志」とかからではなく、自分のやわらかさや、対象に惹かれるところから、暴力の領域に踏みだすようなこと。
でもそうやって行った場所の広さや、鮮やかさや、痛さが、ここの、あるいは他者のリアリティの1つの姿な気もする(でももっといろんなこともある気もする・・)。
+++
俺のいまの一つの課題、てか欲求は、死ぬことです。
だけど独りよがりでつながりを切ったなかで死ぬのではなく、世界とかいろんなものへの憧れとか信じようとしてるとこがあるのと、死ぬこととを両立できないかな、と思っています。
あ、「死ぬ」ってある程度は比喩みたいなものだけど。
生理学的な生命活動の停止、ではない。と思う・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿