社会的、あるいは非社会的な記号であれ、どれほど積み上げても、ある不安に対して安全を保証したり確証したりするものにはならない(これは一般化できないけど、おそらくそうなんじゃないかと思う)。
そういった記号の積み上げは、誰かの不安に対して、その不安をベースとする論理サーキット(*)の条件を満たすことに付き合っているだけであって、その不安に向き合っているわけではない。
過去のようなものを振り返る、ということだけではなく、あのとき俺はどうすればよかったのか、と思います。
(*)造語です。論理の袋小路の一種類。6を左に90°ひっくり返したようなかたちを想像してます。
そこに入ると、固定されたことにされた圧の惰性でくるくる回り続けるもの。出口(6のアタマみたいなとこ)はあっても塞がってたり。解除(破壊)されることも。
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すこし硬直した位置からの推測になるけど、応えることは、ここにいることを選択することだと思う。だけどその選択を選択するのは、「論理サーキットに付き合う」ような真似じゃなく、あいてや贈与に向き合うところ、いいかえればひとりの場所からじゃないか
以前にもかいたけど、季節が動くのを体験するのも、誰かの気持ちに向き合うのも、そういうひとりの場所、あるいは責任転嫁しない場所からだと思うよ、自分は
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【追記】
いろいろですが、ゆっくりと澱みたいな圧を解除しながら、ものを感じられるレベルを落とし込んでいこうと思います・・・
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