2008年9月23日火曜日

追記的雑記(近況報告)

1つ前の記事にもかきましたが、HELLSINGというマンガを知り合いのやつめ鰻氏から借りて読みました。
ハマった、というのと違うけど、よかったです。いろいろ思った。
なかにでてくる、「ありがたいことに私の狂気は君達の神が保障してくれるというわけだ。よろしい、ならば私も問おう。君らの神の正気は、一体どこの誰が保障してくれるのだね?」というセリフがすげー好き。

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近所の床屋に髪を切りにいきました。「寒くなってきたからちっと長めで」といったら、どんぐりボウズにされました。床屋のおばちゃんは温かい人だけど、俺のアタマは寒くなってしまった・・・

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10月の学園祭で長い葦の管を吹くことになりました。下の動画の2分4秒~2分38秒くらいで鳴っている、葦の管を束ねた楽器です。

AWATIÑAS - WARA (Carnavalito)

これがおよそちゃんと鳴りません。動画にでてくる黒髪もふもふの人たちをみて「俺はこんな髪型してる奴より吹けないのか」と思ってちょっとくやしい。しかし彼らはみてておもしろいので(髪型とか)、まあいいかという気分

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上の動画の黒髪もふもふの人たちはAWATIÑASというのですが、彼らがやってるNegra bandidaという曲が、なぜか俺のなかでHELLSINGの曲になり、この頃ずっとブームです。なんだかひたすら聴き続けてます

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学園祭のため昼型生活に切り替えようと思い、昨日は夜の12時過ぎに寝ました。そして目覚ましもかけずに4時に起床!!俺ってばすごいかもー、と思ったりしていろいろ用事をすませ、さすがに眠気もあったのでお昼にちょっとだけ昼寝したら、起きたのが夕方6時前でした。ガッデム(死
なんだかこの頃カラダが休憩モードみたいです。バイオリズム(?)みたいなものの低調のとこ

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ところで今は空が晴れていて星がきれいです。
空気が肌寒くてちょっと澄んでる

2008年9月22日月曜日

狭さについて:進化論?

いまいるとこ(茨城県)にきてからですが、ちょっとだけ生態学や進化論をかじりました。俺の話にはよく「狭さ」という言葉がでてきますが、そんな話です。進化論といわれるものに対する自分の判断というか。

俺は進化論みたいなものを、ある一面から簡略化すると以下のように捉えています。

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1)ある場所に、100人の大人がいる。
2)そのうち50人が死んで、50人が残る。
3)残った50人から、100人の子どもがうまれる。
4)子どもがそだって大人が死んで「1)」へ戻る。

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話を単純化しすぎてるのはわかります(例えば3)では、残ったのがオス25人メス25人で、それぞれカップルを組み、各カップルから2人づつ子どもが生まれる、みたいにしてるし)が、でも複雑な話(形質伝達、組み合わせ、環境圧、変異など)にもつれ込んでも、俺の判断は基本的にこのラインにあります。

そして俺が「狭さ」というのは2)の局面です。100人のうち50人死ぬのは色々あると思います。事故死とか、何かに巻き込まれたとか。しかし、いちばんの原因は「お腹がすいた」からだと思います。100人がみな生きようとして、しかしエサがないから、他のものを「エサ」にして食べた、というのがいちばんの原因だと思います。

だったら豚飼えばいいじゃん、という話はナシで。ここでいう「100人」は、ヒトでなく、そこにいる生きものの総数と捉えたようなものです。100人以外に生きものはいない(微生物くらいはいるかもだけど)。

(ついてにいうと「資源が無限にあればいい」というのも、この話ではたぶんナシです。どれだけ空間が広くとも、それらは勝手に湧いてでるわけではないと思う。勝手に湧いてでるわけではないものを、「これは『○○だから』つかって『いい』んだよ」というのは違うと思っています。)

100人は、あるいは殺された50人はみな、他のやつの「エサ」になるために生まれたのではない(そういえばこの前、知り合いの外国人が話すのを聞いていたら、「クジラは喰われるために生まれたのではないから殺すのはかわいそう、だけど牛豚は食肉のために育ててるんだから食べてもいい」といっていて、「宗教」的だなあと思ったことがあった)。

だけどみな「腹が減る」から、一部が「エサ」になることもある。進化論というのは、ある一面からみればそういうものだと思います。棲み分けとかエコとかいったところで、この関係から逃れることはおそらくできない。その「みな腹が減る」「だから」「一部が殺される」ということを、俺は「狭さ」といいます。そしてこの「狭さ」に関して思うところがいくつかあります。

1つ目。俺は政治思想とかはとくにもってないヒトですが、「共産主義的な主義」はきらいです。たぶん語の一般的意味ではなく。
1つには、誰かが「共ニ産ズル」といいはじめたときに、その「共というカテゴリに入るもの」が生きていくために殺されるものがでてくることを免れないと思うから。それって「共ニ産ジ」ていないだろう、と思うのです。
ある面では、ここは誰もかれも天から食料が降ってくるユートピアではなく、むしろ共食いの地獄に近いと感じます。そのなかで「共」というカテゴリを作り、そこで相互不侵犯を「主義」として約束するなら、「共」のカテゴリに入らない「他」のものを侵犯して「エサ」にする必要がでてくる。
それは「全体に対する『共産』ではなく、結局エゴを満たす仲間内だけの『共産』」じゃねえか、と。このやり方は、結局どこかに「エサにされるもの」を「決めて」そこから奪い続けなければ成立しない、名前と行為が矛盾したやり方だと思います。「暴力的共産主義」なら話はわかるけど(というか、実際とられてる「主義主張」って「暴力的共産主義」が多い気がする)。

2つ目。カマトト(←果てしなく死語;)は無理。カマトトってのは「いい子ぶりっ子(これも死語orz)」ってやつです。どれだけ弱くても、惨めな立場にいても、他のものを喰って生きようとしていることには変わりないと思う。それを「ぼくは弱かったんだから仕方なかったんだよ」というのは言い逃れだと思います。このごろ某所からかりて読んだHELLSINGというマンガに「鉄火をもって闘争を始める者に人間も非人間もあるものか」というセリフがありましたが、「(「狭さ」の逆の状態という意味で)広さ、あるいは腹をみたすこと」の奪いあいに関わるものに、何かを理由にした(弱いから、人間だから、○○だから、喰っていい、あるいは「きれいな場所に守られていていい」みたいな)言い逃れは欺瞞だろうと感じます。
(第一、「なに」に「守ってもらう」と言ってしまえるのか謎です。それは自分の代理人の手を汚させ、自分はきれいなフリをするということのように感じます。「守ってもらっている」じゃなくて「代りに手を汚してもらっている」の間違いじゃね?と)。

3つ目。「『どのようなものが生き残るか』は前もって決定しがたい」。これはここまでの文脈でだすのに無理がある話ですが、とりあえず書いときます(本人もホントははっきり分かっていません)。
次にくるものが喰えるかどうか、というのは謎です。今までのやり方を踏襲して喰えることもあるし、そうでないこともある。「今までのやり方に基づいた物差し」は、次に物をはかるのに役に立つかは分かりません。もし「今までの物差し」で「次のものもはかれる」と無判断に思うのならば、それは次のものを見ずに聞かずに触れずに、「これはこういうものだ」と思い込み、その思い込みのなかに閉じることだと思います。

4つ目。そして、「腹がへる」「腹をみたす」というのは比喩です、「喰う」も。
「腹がへる話」をあるやり方で敷衍すれば(敷衍するには単純化しすぎだけど)、利権の争奪、空間の奪い合い、道を歩いて草を踏みつけること、ものを食べること、誰かの発言をさえぎることetc.に幾分かは関係する話だと思っています(強引なとこもありますが・・・)。政治も経済も、きれいごとではなく、狭さの、あるいは広さの取り合いみたいなとこがあると思う。だからここまで書いてきたのは、実は進化論では全然ない面をもってたりします、たぶん。

5つ目。長い。もう本人も疲れてきました。ここでやめます。
ときに生態系(といわれるもの)は調和的、といわれたりしますが、調和というのは平和とは全然違うものだと思います。それは闘争も簒奪も含み、暴力的で、広く、穏やかさも醜さもあるものだと思います。
俺の個人的好みですが、そういうものを「これ(あるいは次にくるもの)はこういうものだから」という物差しの空虚さにのっかって語るより、自分の足で地面つかんで、起きるものをみたほうがおもしろいと思う。

2008年9月20日土曜日

追記的無題(名前について)

えーと、前の記事に書いた「誰かオレを幸せにしてくれー」についてきかれたので、それについてのことです。
あれは徹夜明けのアタマで壊れてかいたので、実質のことではなく、およそ冗談みたいなものです。

ところで果たして俺は幸せなんでしょうか、よくわかりません。
ただ、その基準ではおそらくものを考えていないです。
そのように感じることもあるし、うれしいことも、苛立つようなことも、傷つくようなこともあるけど、幸せ/幸せじゃない、と考えると、「幸せ」という「きれいなハコ」のなかにいろんなことを閉じ込めてしまうようなので。

印象ですが、ものはみな仮のものだと感じます。もちろん痛みや感覚、いろんな感情はあるし、それが空虚なものだというのではないです。実体的なんだと思う。
そうではなく、例えばAがBにとってAで、BがAにとってBだというのは、仮のことだという話です。
何か絶対的な基準点があり、それに基づく記号系のなかで、AはAであり、BはBであるから、『AがBにとってAで、BがAにとってBだ』というのではないのだと感じます。

雨のなかで見てそう思ったのだけど、例えば傘は、それが壊れるまで傘です。それをさす人にとって、それが壊れるまで「傘」です。「傘」という名前をもち、機能する針金やビニールなどの「部分の寄せ集まり」です。
それは、なにか絶対的な基準点があるから「傘」なのではなく、さす人が「自分が求める機能にとって信頼に足る」ものだからその人にとって「傘」になってるんだと思う。
それは『傘』という「部分の寄せ集まり」に先行する『絶対的概念』があるから「傘」なのではなく、さす人の求めるものに応える限りにおいて「傘」なのだと思います。

だけど傘は壊れることもある。つよい風に吹かれても、車にひき潰されても壊れます。振り回しててもときどき壊れるけど。
「そしたらそれはもう傘じゃないのか?」
これに答えるのは難しいです。というより、それは使用者がその「壊れてしまった部分の寄せ集まり」に対して投影する信頼の程度によって、壊れてしまったものか、「傘」なのか、決まるのだと思います。

そして信頼を投影するには、投影するものにとってある種の意志が問われるのだと思います(強い言葉ですが)。つまり「絶対的な基準点が『ある』わけじゃないし、その点を基準にした完結した記号系が「ある」わけでもない」「しかし、俺はこれを「傘」と呼び、そのように使う/使わせてもらう」みたいな意志が。
(そこで「絶対的な(場合によっては相対的な、でも)基準点」を設置した、「だから」おまえは○○なのだ、というのは実質空っぽなものを先行的にあることにして、空っぽを基準に相手を示す行為だと思う。「基準が空っぽな分」を勝手に相手に押し付けて相手を示すようなインチキ行為。)

「(壊れてしまうかどうかわからない)部分の寄せ集まり」が使用者にとって「傘」であり、AがBにとって「A」であり、BがAにとって「B」である、というのは、「信頼を投影する/投影させてもらう」という意志が問われることだと思います。(意志をもた「ねば」ならない、というどこかに規範系を作ることではなく。正直、弱さも逃げもあるし、それがズサンさを生じさせてしまうとはいえ、それはありなんだと思う。てきとうと言えばてきとうと言うかも。)

実体はあると思う、「部分の寄せ集まり」には。それは痛みを感じ、好意をもたらし、残酷なこともうれしいこともあります、少なくとも俺にとっては。
だけどそれが「名前として」も「実体」であり、出来事はみな「きれいなハコ」のなかで起きている、というのではない、と感じます。
部分の寄せ集まりになにかを読み取り、それを信頼のようなものとして投影し、それを「相手」とする/させてもらう、のは、当人の意志の問題だと思う。それは(こう呼べばこう応えてもらえる、ということが)保証されているわけでも、安全安心なわけでもなく。

幸せかどうか、という基準では、たぶん俺はものを考えません。「自分は(例えば○○がいて)幸せだ」といったとたんに、相手も自分も、意志を欠いた「きれいなハコ」のなかに閉じ込めてしまうようで。(そしてそれは相手を、実質的に貶めてしまうようなものだと思います。そんななかで麻痺した安心に入り、それを侵犯するものは無判断に「汚いもののハコ」に横暴に押し込むつもりは俺にはないです。)

そんなハコのなかで、意志を欠いた「名前」をただただ捲っていることより、俺は、暴力からトンズラせずに、それでも会いたい相手にちゃんと毎回会いにいくことがしたいです。起きることが起きるとこで、気持ちから相手の名前を呼びかけるのならちゃんとしたい。いろいろ変わっていくのかもしれないけど、いまはそう思っています。

2008年9月19日金曜日

中間発表

もう少ししたら卒論の中間発表があるということで、レジュメをかきました。
正直、ぶっ壊れかけで立ち枯れしたアタマでかいたので、いろいろ欠陥ある感じですが、例によって晒してみます。
これを教員に送って、訂正されたものが中間発表の資料になる、つもりです。
卒論は、どこまでいけるかわからないけど、自分が思うことをかいて、いきたいとこまでいけたら、と思っています。

・・・

というかつかれたよー。ばかー、ばかー。誰かオレを幸せにしてくれー


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暴力論


Ⅰ.問題の所在

力と暴力というのは、人間の行う活動において不可避であり、ほぼ根源的な領域における関係や営為といえる。なぜなら、それらの関係、それらの営為は、我々が他者との関係を切り結ぶ際の躓きの石でもあり、また同時に切り結びの際の要石ともなるからである。
他者との関係は、広く捉えれば社会的関係の部分であり、力や暴力がそこに関連する以上、それらを語り、それらを生きるうえで、力や暴力に関する問題は必然的に避けがたいものとなる。
尤も、それらはほぼ根源的だが本質的ではない。より本質的なのは、営為そのものの切り結び、すなわちコミュニケーションの問題である。我々が、他者と関係を切り結んでいこうとする、というその行為こそ我々の活動の本質の一部であり、この論で扱う実質的なテーマである。
そしてそうであるならば、暴力に関する問題は避けて通るべきではない。なぜならば、暴力を経ずに切り結ばれる関係とは「過去にすでに契約された関係」の再確認に過ぎない。他者と「新たに」関係が切り結ばれることが試みられるならば、それは保証を欠いた試みとなる。保証を欠いた試みは、ひとつの問のなかに、あるいはひとつの問へと投げ開かれる。この投げ開きこそ、この論で意味する暴力の1つである。これを欠いた関係、暴力を経ずに切り結ばれる関係は、実際のところ「過去に結ばれた契約の内部」において、すなわち外部への関わりを欠いて行われたものに過ぎない。外部への関わりを欠いているのならば、それは「内部」の無判断な反復である。
もちろん関係は、内部にとどまることもあるし、外部と「新たに」切り結ばれることが試みられることもあるだろう。しかし無判断な内部の反復は、その実外部からの閉鎖である。それはコミュニケーションではなく、むしろそこからの逃避と麻痺である。
この逃避と麻痺を引き起こす暴力がこの論の意味するもう1つの暴力であり、この逃避と麻痺から引き起こされる暴力が、また別の暴力である。
本論はこの3つの暴力の問題を軸として扱い、システム、言語、教育などの、いくつかの抽象的かつ具体的問題を読み込みながら、最終的には力とコミュニケーションとの問われようを扱う。

Ⅱ.方法

文献研究の方法を用いるが、実際の論の展開は社会科学に近似したものを用いる。
すなわち、経験とデータに基づく実証的な方法、いわゆる経験科学の方法論ではなく、仮説的で条件的な推論に基づく論理展開の形式をとる。
これは本論が、経験科学の方法論が立脚する前提の成立条件、言い換えれば前提という「契約」の成立可能性から問うていく、という傾向を持つことによる。(それ自身が問いの対象とするものを、それ自身の基盤にすることは、論理の展開に齟齬を生じさせるものであり、適切ではない。)


(進行状況、参考文献は略)

2008年9月14日日曜日

無題(mixiより転載)

俺はやりたいことがある、最速で、ここを行くこと、ここへ行くこと。先へ行くこと。
俺のやりたいことはなんだ?
俺はここが好きだ、醜さも汚さも含めてだ。
俺はここを行くことが好きだ、新しさも鮮やかさも含めてだ。
死人に邪魔されるのはガマンならない。
世界は力で切り開いていくものだ。
切り開くことは行くことだ。行くことはものを踏みにじることだ。
ここを行くことはここを踏みにじることだ。
俺はここが好きだ、俺はここを行くことが好きだ。

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生態系は自分自身を喰って成長しつづけようとする。
それは自身に隷属して、自身に君臨しようとするものだ。
醜くて汚くて純粋で子どものような衝動の行為だ。
それは鏡ではない。それは鏡を含んでいても、それのつなぎ目をつなげるのは暴力だ。

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技術は飼いならしだ。技術に隷属してなお技術を求めたのは、隷属してでも求める地平があったからだ。遠くにいくこと、ここにいくこと。