いまいるとこ(茨城県)にきてからですが、ちょっとだけ生態学や進化論をかじりました。俺の話にはよく「狭さ」という言葉がでてきますが、そんな話です。進化論といわれるものに対する自分の判断というか。
俺は進化論みたいなものを、ある一面から簡略化すると以下のように捉えています。
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1)ある場所に、100人の大人がいる。
2)そのうち50人が死んで、50人が残る。
3)残った50人から、100人の子どもがうまれる。
4)子どもがそだって大人が死んで「1)」へ戻る。
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話を単純化しすぎてるのはわかります(例えば3)では、残ったのがオス25人メス25人で、それぞれカップルを組み、各カップルから2人づつ子どもが生まれる、みたいにしてるし)が、でも複雑な話(形質伝達、組み合わせ、環境圧、変異など)にもつれ込んでも、俺の判断は基本的にこのラインにあります。
そして俺が「狭さ」というのは2)の局面です。100人のうち50人死ぬのは色々あると思います。事故死とか、何かに巻き込まれたとか。しかし、いちばんの原因は「お腹がすいた」からだと思います。100人がみな生きようとして、しかしエサがないから、他のものを「エサ」にして食べた、というのがいちばんの原因だと思います。
だったら豚飼えばいいじゃん、という話はナシで。ここでいう「100人」は、ヒトでなく、そこにいる生きものの総数と捉えたようなものです。100人以外に生きものはいない(微生物くらいはいるかもだけど)。
(ついてにいうと「資源が無限にあればいい」というのも、この話ではたぶんナシです。どれだけ空間が広くとも、それらは勝手に湧いてでるわけではないと思う。勝手に湧いてでるわけではないものを、「これは『○○だから』つかって『いい』んだよ」というのは違うと思っています。)
100人は、あるいは殺された50人はみな、他のやつの「エサ」になるために生まれたのではない(そういえばこの前、知り合いの外国人が話すのを聞いていたら、「クジラは喰われるために生まれたのではないから殺すのはかわいそう、だけど牛豚は食肉のために育ててるんだから食べてもいい」といっていて、「宗教」的だなあと思ったことがあった)。
だけどみな「腹が減る」から、一部が「エサ」になることもある。進化論というのは、ある一面からみればそういうものだと思います。棲み分けとかエコとかいったところで、この関係から逃れることはおそらくできない。その「みな腹が減る」「だから」「一部が殺される」ということを、俺は「狭さ」といいます。そしてこの「狭さ」に関して思うところがいくつかあります。
1つ目。俺は政治思想とかはとくにもってないヒトですが、「共産主義的な主義」はきらいです。たぶん語の一般的意味ではなく。
1つには、誰かが「共ニ産ズル」といいはじめたときに、その「共というカテゴリに入るもの」が生きていくために殺されるものがでてくることを免れないと思うから。それって「共ニ産ジ」ていないだろう、と思うのです。
ある面では、ここは誰もかれも天から食料が降ってくるユートピアではなく、むしろ共食いの地獄に近いと感じます。そのなかで「共」というカテゴリを作り、そこで相互不侵犯を「主義」として約束するなら、「共」のカテゴリに入らない「他」のものを侵犯して「エサ」にする必要がでてくる。
それは「全体に対する『共産』ではなく、結局エゴを満たす仲間内だけの『共産』」じゃねえか、と。このやり方は、結局どこかに「エサにされるもの」を「決めて」そこから奪い続けなければ成立しない、名前と行為が矛盾したやり方だと思います。「暴力的共産主義」なら話はわかるけど(というか、実際とられてる「主義主張」って「暴力的共産主義」が多い気がする)。
2つ目。カマトト(←果てしなく死語;)は無理。カマトトってのは「いい子ぶりっ子(これも死語orz)」ってやつです。どれだけ弱くても、惨めな立場にいても、他のものを喰って生きようとしていることには変わりないと思う。それを「ぼくは弱かったんだから仕方なかったんだよ」というのは言い逃れだと思います。このごろ某所からかりて読んだHELLSINGというマンガに「鉄火をもって闘争を始める者に人間も非人間もあるものか」というセリフがありましたが、「(「狭さ」の逆の状態という意味で)広さ、あるいは腹をみたすこと」の奪いあいに関わるものに、何かを理由にした(弱いから、人間だから、○○だから、喰っていい、あるいは「きれいな場所に守られていていい」みたいな)言い逃れは欺瞞だろうと感じます。
(第一、「なに」に「守ってもらう」と言ってしまえるのか謎です。それは自分の代理人の手を汚させ、自分はきれいなフリをするということのように感じます。「守ってもらっている」じゃなくて「代りに手を汚してもらっている」の間違いじゃね?と)。
3つ目。「『どのようなものが生き残るか』は前もって決定しがたい」。これはここまでの文脈でだすのに無理がある話ですが、とりあえず書いときます(本人もホントははっきり分かっていません)。
次にくるものが喰えるかどうか、というのは謎です。今までのやり方を踏襲して喰えることもあるし、そうでないこともある。「今までのやり方に基づいた物差し」は、次に物をはかるのに役に立つかは分かりません。もし「今までの物差し」で「次のものもはかれる」と無判断に思うのならば、それは次のものを見ずに聞かずに触れずに、「これはこういうものだ」と思い込み、その思い込みのなかに閉じることだと思います。
4つ目。そして、「腹がへる」「腹をみたす」というのは比喩です、「喰う」も。
「腹がへる話」をあるやり方で敷衍すれば(敷衍するには単純化しすぎだけど)、利権の争奪、空間の奪い合い、道を歩いて草を踏みつけること、ものを食べること、誰かの発言をさえぎることetc.に幾分かは関係する話だと思っています(強引なとこもありますが・・・)。政治も経済も、きれいごとではなく、狭さの、あるいは広さの取り合いみたいなとこがあると思う。だからここまで書いてきたのは、実は進化論では全然ない面をもってたりします、たぶん。
5つ目。長い。もう本人も疲れてきました。ここでやめます。
ときに生態系(といわれるもの)は調和的、といわれたりしますが、調和というのは平和とは全然違うものだと思います。それは闘争も簒奪も含み、暴力的で、広く、穏やかさも醜さもあるものだと思います。
俺の個人的好みですが、そういうものを「これ(あるいは次にくるもの)はこういうものだから」という物差しの空虚さにのっかって語るより、自分の足で地面つかんで、起きるものをみたほうがおもしろいと思う。