もう少ししたら卒論の中間発表があるということで、レジュメをかきました。
正直、ぶっ壊れかけで立ち枯れしたアタマでかいたので、いろいろ欠陥ある感じですが、例によって晒してみます。
これを教員に送って、訂正されたものが中間発表の資料になる、つもりです。
卒論は、どこまでいけるかわからないけど、自分が思うことをかいて、いきたいとこまでいけたら、と思っています。
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というかつかれたよー。ばかー、ばかー。誰かオレを幸せにしてくれー
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暴力論
Ⅰ.問題の所在
力と暴力というのは、人間の行う活動において不可避であり、ほぼ根源的な領域における関係や営為といえる。なぜなら、それらの関係、それらの営為は、我々が他者との関係を切り結ぶ際の躓きの石でもあり、また同時に切り結びの際の要石ともなるからである。
他者との関係は、広く捉えれば社会的関係の部分であり、力や暴力がそこに関連する以上、それらを語り、それらを生きるうえで、力や暴力に関する問題は必然的に避けがたいものとなる。
尤も、それらはほぼ根源的だが本質的ではない。より本質的なのは、営為そのものの切り結び、すなわちコミュニケーションの問題である。我々が、他者と関係を切り結んでいこうとする、というその行為こそ我々の活動の本質の一部であり、この論で扱う実質的なテーマである。
そしてそうであるならば、暴力に関する問題は避けて通るべきではない。なぜならば、暴力を経ずに切り結ばれる関係とは「過去にすでに契約された関係」の再確認に過ぎない。他者と「新たに」関係が切り結ばれることが試みられるならば、それは保証を欠いた試みとなる。保証を欠いた試みは、ひとつの問のなかに、あるいはひとつの問へと投げ開かれる。この投げ開きこそ、この論で意味する暴力の1つである。これを欠いた関係、暴力を経ずに切り結ばれる関係は、実際のところ「過去に結ばれた契約の内部」において、すなわち外部への関わりを欠いて行われたものに過ぎない。外部への関わりを欠いているのならば、それは「内部」の無判断な反復である。
もちろん関係は、内部にとどまることもあるし、外部と「新たに」切り結ばれることが試みられることもあるだろう。しかし無判断な内部の反復は、その実外部からの閉鎖である。それはコミュニケーションではなく、むしろそこからの逃避と麻痺である。
この逃避と麻痺を引き起こす暴力がこの論の意味するもう1つの暴力であり、この逃避と麻痺から引き起こされる暴力が、また別の暴力である。
本論はこの3つの暴力の問題を軸として扱い、システム、言語、教育などの、いくつかの抽象的かつ具体的問題を読み込みながら、最終的には力とコミュニケーションとの問われようを扱う。
Ⅱ.方法
文献研究の方法を用いるが、実際の論の展開は社会科学に近似したものを用いる。
すなわち、経験とデータに基づく実証的な方法、いわゆる経験科学の方法論ではなく、仮説的で条件的な推論に基づく論理展開の形式をとる。
これは本論が、経験科学の方法論が立脚する前提の成立条件、言い換えれば前提という「契約」の成立可能性から問うていく、という傾向を持つことによる。(それ自身が問いの対象とするものを、それ自身の基盤にすることは、論理の展開に齟齬を生じさせるものであり、適切ではない。)
(進行状況、参考文献は略)
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