2008年10月27日月曜日

断片

ボケたアタマで思ったことです。すっごい極端なんだけど、各国の教育って、ようするに軍隊選抜試験だなあと思った。「バッド・カンパニー」の描写をみたからでしょうか。
富国強兵ってまだ続いてんのか。そういう意味では。しかし軍隊そだてて何を得ようっていうんだろう。日々の糧か、それとも謎のなにかか。
国家も政治っていう名前の戦争、っていう名前の商売やってるわけだし、たいへんだ。そしてそういう意味では、優秀な軍人より優秀な商人のが強さを発揮するフェーズはあるのだと思う。
「利権」を「得る」という面で。

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個人といわれるものにおける新しさや体験や欲望を、非-「社会」的、というのはカンタンだと思う。だけどそういう非-「社会」的なものを生みだすレベルの欲望とか体験から、「社会」といわれるものがシステマナイズされる、という面もあると思う。
その意味で、個人といわれるものの体験を、非-「社会」的、といってしまうのは、それが「社会」的なものもつくりだすことがある、という点で、その体験自体への部分的な、あるいは決定的な否定になると思う。
儀式に飲まれるわけでも、非-社会的になるわけでもなくここに立つ、ということは、そういう分かりやすい否定を破棄してこの場所にいることのような感じもする。そういう面だけではないのだろうけど。

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ある面では、個人に求められるのは、なにかの儀式系に拠ってではなく、非システムを含んだシステムのなかで(あるいはシステムを含んだ非システムのなかで)自分の「利権」を「得る」ようなことだと思う。その「利権」はなんでも構わないのだろうけど。そして利権を得ることは侵害する/される、あるいはそういう暴力に関わることだと思う。これをいうには俺には準備が足りなさ過ぎるけど。

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システムがどう動いているのか知りたい。システムへのinとかantiとか、儀式に飲み込まれるとか飲み込まれないとか、新しさとか古さとか、そういうものがないまぜの場所に自分で立ってものを判断するのはおもしろい。ガキっぽいかもしれないけど、でもこれはシビアで酷くておもしろいのだと思う。そういうことをきちんとしたい

儀式とか判断とか

手塚治虫の漫画って、主人公が都合よく不幸になるなあ、と思った。
不幸というか「定常状態から放逐されて、もう定常状態には戻れない状態」みたいな。
なんかの事故でカラダがグチャグチャになって、脳を人工頭脳と入れ替えられて「人間」ではなくなった(かといって「ロボット」でもない)とか。これは火の鳥の話だけど。

手塚治虫にかぎった話じゃなくて「『不幸』な状態」って、「幼児の安心な状態」から放逐されるとか、エデンの園から放逐される、とかいろいろあったりする。でもそれって「不幸」なんだろうか。
「不幸」って、なんらかの状態を「幸せ」と位置づけて、それに劣位のものとして与えられる「名前」な感じがする。

この前知り合いの部屋に妙な宗教のチラシがあって、それによると人類はいまハチャメチャなことしてるから、それに神様が腹立てて世界をメタクソにして、その後人類はよさげな生きものとして生きるようになる、みたいなことがかいてあった(うろおぼえ)。

「昔はよかった(のに、誰かさんが「悪いこと」したから今はこんなにダメになった)」も、「将来もっと幸福な世界がくる(だから今は「不幸」なのだ)」も、同じな気がする。

それは何かを時系列という物語のなかに位置づけて、「過去とよばれるもの」あるいは「未来とよばれるもの」に対して、「このごろ」は劣位である。「だから」その「埋め合わせ」をするのだよ、みたいな論理を相手に強要してくる。別に強要している表現はなくとも、「過去または未来はいいものだ」「このごろはダメである」といってくるのは、暗に埋め合わせを求めているのだと思う(手塚治虫の漫画にはよく「その不幸を埋め合わせてくれる相手や異性」がでてくるけど、それこそ相手を人形扱いだと思う。)。

だけど「なにか理想をつくること、そして現在(といわれるもの)を、その理想とのギャップの埋め合わせにつかわせること」、というのはなんかヘンテコでないか。その「理想状態」というのは、「埋め込まれた/埋め込まれる、物語」じゃないのか、と思わなくもない。詳細は本人も分からないけど。

でもその「埋め込まれる物語」を含んだ儀式体系のなかに、誰かあるいは自分自身を位置づけて、その物語とのギャップを埋めようとし続ける/させ続ける、ということ、またそのギャップが埋まったら「めでたしめでたし」とすることは、いま起きていることに対して適正な判断を奪い、その判断を「物語あるいは儀式」のなかに簒奪させてしまうことな気がする。

二つあるのだと思う。
1)起きることというのは、とてもシビアなことがありうるということ。
2)原初的でやわらかい情動や感情には、そのシビアさがとてもつらいことがありうるということ。

だけど、シビアさとかつらさ=「不幸(という位置づけ)」ではないんじゃないかと思う(てか安易ではないのか)。そういうシビアさとか荒廃性とかを、「不幸」とかテキトーな物語や儀式体系のなかに位置づけるとかより、ここで、あるいはここの荒廃性のなかで、いま起きていることに対して(硬直からとかじゃなく、多分だけど、やわらかさがあるところから)適正なあるいは必要な判断をする/していこうとする、という方が、ずっと重要なことな気がする。

2008年10月26日日曜日

memo

とにかく俺は、自分のなかのエリート意識とか特権性をかたちづくっている、自分のなかの儀式体系、あるいは自分のなかの儀式体系の正統性をぶち壊したいです(そういうエリート意識とかは、つまらない逃避や幻想に感覚を向かわせるだけだ、きっと)。
ぶち壊しにできたら、絶対いまよりものがフラットにみえる気がする。

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ある面では、儀式系にちゃんと関わる、つまり逃避するのでも飲まれるのでもなく、儀式系の場所にいて、そしてここにいて、そして自分の判断をしよう、ということは、起こることのうち「起こることをないことにすること」に、自分も巻き込まれている/巻き込まれている場合がありうる、という状況を分かる必要があるのかなあ、とも思う。わかんないけど。

だけど儀式にinするのも、antiでいるのも同じことだ。また多くの儀式を「利用する」のも、多くの儀式より「さらに大きい儀式」をもってきているだけだ。inでもantiでもなく、儀式群がある場所、というより儀式群が生じた理由がある場所から、儀式群に対して適切な判断をできるようになりたい。

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すこし前に知り合いに「keroさんタフですね」と言われました。どうなんだろう。
でも「タフ」って、すこし硬直してるみたいで好きではないとこもある。あ、中国人はタフだと思うかもー。そして俺は結構弱っちい・・・、にょーん。

雑文8

手塚治虫の「火の鳥」を知り合いの部屋で読みました。それでラカンの話をちょっと思いだして、「手塚治虫ってマザコンだなあ」と思った。

ラカンの話ってのをいい加減にまとめると、ヒトははじめに母子一体の状態があり、そこから「生まれ」て、幼児としてすごし、しばらくしたらいろんな規律が横行する「社会」にでていくよ、そういう過程で色々変わるよ、って話です。すげえいい加減。

手塚治虫がかく男性と女性の出会いは、「社会」から外れた男女が、社会の外部において互いの幼稚で稚拙な情動を受け入れあって結ばれる→だけど結ばれた二人は社会の暴力にひき潰される→でも二人が残したものは生きようとしていく、という感じが多いかなー、と思った。

それって「社会から外れた状態」、つまり幼児と母親や母子一体における結びつきに憧れてて、でも社会の暴力性をないことにはできないから、とりあえずその結びつきは壊れることにして、でもやっぱりそこに執着があるから、その結びつきからでてくるものはまた生きようとする、みたいな感じにしてみたかったのかな、と思いました。ようするに社会の暴力性から逃避したとこの、母親との安心のなかの関係に憧れてたのかな、と。

社会のゴタゴタから目を塞ぎたいだけじゃねえか、アホか、とは思う。でも「安心」に住まいたい、かつ「安心」に他のヒトと住まいたい、というのは感情的には分かります。俺もある意味閉鎖的な場所でそだったので、そこにある「安心」が、麻薬っぽくて強度の高いものだというのは知ってます。ときどき安易にそこに流れたくもなる。

ただラカンの話がホントかどうかはともかく、母子一体のエデンの園みたいな状態とか、幼児のときにかわいがられ(あるいは少なくとも社会に晒されない)で「安心」でいるのって、多少はあるようにも思う。個人的な経験が大きいからなんともいえないけど。

だけど社会といわれるものの暴力性から逃避して、そこに逃げ込むというのはインチキじゃないかと思う(1つには、その暴力には自分も加担しているんじゃないかと感じるから)。それと、ラカンの話(いい加減にしか分かってないけど)によると、ヒトは「社会」にでるときに「社会の掟」や「法」に遭遇し、そこで赤ちゃんなり幼児のときの一種の全能感や全能性を失い、失うことで逆に積極的に「(社会における)自己」を確立する、というのがあったけど、それもどうかなー、と思う。

エデン幻想みたいのもってるヒトにとっては、ここは楽園の跡地というか、廃墟みたいな場所だと思う。そして法とか掟とかいうのは、その廃墟のなかで機能している儀式だと思う。その廃墟の荒廃性や暴力性から逃げるのでもなく、儀式に飲み込まれるのでもなく、単に内的世界を実現するとかでもなく、「ここ」でなにかできる(*:「できる」というと変だけど・・)んじゃないか、少なくともやろうとすることはできるんじゃないか、と俺は思ったりします。

・・・

少し話はズレるけど、幼児がいろいろ思うときって、言葉を覚えたときのほかに、食事をはじめたときのような気がする。ホントかウソかは分からないけど。

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(*)
フツーの(?)言葉でいうと、システムとか儀式からトンズラするのでも、飲み込まれるのでもなく、自分の足でここに踏みとどまって、自分のやわらかいとこを含めたとこから、システムとか相手に可能性にチャレンジ、みたいな。なんの可能性か、といわれてもよくわかんないけど。あ、あと「チャレンジ」とかってスポ根みたいでアレですが;

雑文7


この場所ではいろんなことが起きます。わけわかりません。でもすごくたのしいです。いろんな儀式、いろんな暴力、いろんなやり取りがある。起きることが起きるのは、すごくたのしい。そして起きる起きることのなかには、起きることを起こさないようにしようとする部分があったりするのだと思う。それはものを複雑にし、不毛にし、くだらなくします。だけどそれも起きることのなかのことなんだと思う。
1つには、いろんなことを理解できるようになりたい。自分じゃないことのこと、他者、ひどいシビアさや暴力、いろんな感情や情動。儀式にどう関わるか、あるいはまた別の暴力を取るかの判断をしていくか。

2008年10月25日土曜日

雑文6

前の記事にいまは不安定とかきましたが、その状態で記事をかいてます。いいことなのかわからないけど、いまはそこにある自分の焦りとか醜さも含めてかいてみようと思います。

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俺はときどき(よく?)変なヒトですねとか、いつも変わったこと考えてるとか言われます。自分では「そうかなー?」という感じなんだけど。でもまあ、自分みたいなヒトが多数派なわけではないことも(経験的に)知ってるので、「変なヒト」と言われるのもいちおうわかる。

こういう(いつも考えたり思ったりしてるような)ことを考えるのは、(いろんな言い方ができて、そのなかの1つの言い方なんだろうけど)たぶん「他のヒトが考えたことのなかで一生終わるのはつまんない」と思ってるかららしいです。裏をかえすと「自分自身で世界を体験してみたい」と思ってるからというか。

何か嫌なことから身を守るために、適当な装置をつくって、その装置を稼動させ続ける儀式をやってそれでお終いとかは、つまんない感じがします。てかあんまりだ。

嫌なことがあってもシビアなことがあっても、逃避から半分あるいは全部閉じたハコのなかに入るより、自分で世界を体験するほうが絶対おもしろいと思ってる。

他にも欲求や欲望(?)みたいなのはあるけれど、1つにはそういうことで動いているようです。単純バカか。いや、ホントは単なる単純バカではなく、単純バカで甘ったれで弱虫でお調子者でエゴイストでアホという体たらくなのですが・・・。

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(前の記事とかにかいたような)学祭でやりたかったことというのは、俺の言葉になってしまいますが、以下のことです。

①自分の単純で原初的で素朴なとこから音をだすこと
②新しさへ踏みだすこと
③自分がいる場所でできることをすること

そして思ったのは、特に①のこと。単純で原初的で素朴、というのは、言い換えれば「子ども」というところがあると思います。年齢が幼いとかそういうことではなく「ある原初的な情動群」みたいな。
俺は自分のそういうところから音をだそうと思っていました。だけどそれを「(自分の)子どもみたいなとこ」を「確保」した上でやろうとしていた、と思ったのです。

「確保された/されうる、子ども(みたいなとこ)」というのは、つまり何らかの(社会)システム系を想定して、そのなかで固定的な場所を与えられた子どもらしさだと思います。それは言い換えれば、子どもらしさを「庇護」するシステムを想定して、そのなかに閉じこもったものでもあったし、また別の言い方をすれば「固定性」を保とうとした分だけ、それを侵害するものをシャットアウトしていた、あるいはそれを侵害するものを侵害していた、ようなものだと思ったのです。

それは言い換えれば、その「想定していたシステム系」を、自分が(ある意味では本来的に)確保できるものだとし、それを確保するための行為をどこかでしていた、ということだと思います。
何かに「本来性」の名を付し、それを保つために行為をする、というのは、その「本来性」として想定された一種の「ご本尊」を維持し続ける儀式だと思います。

だけど、それが儀式ならば、すべての儀式がそうであるように、それは社会的歴史的構造的な産物です。飛躍はあるけどそうだと思う。それがどれだけ個人的なもの(あるいは儀式)であれ。

それを自分にとって「本来的」だとすることは、自分の足場をそこにゆだねていることだし、自分にとって起こす以上の侵害を引き起こしていることだと思ったのです。それはよくない、と。

いまスタンスが不安定なので、ある程度の妥当性を感じていえるわけではないけれど、社会的歴史的構造的な産物というのは、あるいは儀式というのは、それによって自分のなにかを「確保」していいもの、するものではなく、それがどういったものか判断し、それとジタバタしながら、そこで自分のやり方を展開していくものだと思います。「展開」っていうのはどうかとも思うけど。

子どもらしさを「やわらかさ」とかいうなら、俺は自分のやわらかさを、儀式によってではなくジタバタするなかで維持できる程度に維持しながら、あるいは生じる程度に生じていくなかで、いろいろやりたいと思っています。その「維持できる(あるいは生じる)程度」は、とても0に近いかもしれないし、ほとんど0なのかもしれないけど。

やわらかさを失って不毛とか不感症になるのは嫌だし、そうなるべきじゃないと思っているけれど、つまらない儀式を使って維持したやわらかさから動くことは(強い言葉だけど)ゴミだと思ったのです。

そんなこんなで、いまはスタンスが不安定だけど、いろいろ試行錯誤しながらやってみたいと思っています。ここまでの文からだと脈絡なさすぎるけど、例えばなぜ社会システムとか経済システムが動き始めたのか、そしてとりあえず現在こう動いている/動こうとしているのか、とかを知ってみたいと思っています。1つには。そしてはっきりいろんなことを体験してみたいです。

ああ、もう(雑文5:mixiより転載)

どうして俺はこんなにバカなのだ。己のアタマの悪さにもっとバカになりそうだ。ちょっとかしこい幼稚園児でもしってることがわからん。つまり

①どのようなものも、あるいは相当程度のものは社会的歴史的構造的産物であり
②俺はアホ丸出しでそこに立ってる、あるいは立とうとしたがってる

ということがわかってねえ。俺がアホなのはそうだから②はおいといて、①がわかってねえ、わかってなかった。一体何歳なのだ、まったく

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【追記】

学祭がおわってから、どうやら不安定なようです。

学祭で、それまでやろうと思ってたことをやって、なんだか少しできた感じがしたこと。それと、それまでやろうと思ってたことに、スタンスとしてすごく甘さがあったなと思ったこと。

この2つを自分で感じたことで、自分のスタンスみたいなのを壊したり組みなおしたりで、今ゴタゴタしてる最中です。学祭後に体調くずしたのもあったけど、それはそんなに大きいことじゃなく、上の2つのが自分のなかでは大きい感じ。
いまは足場があんまり無くて、感覚のなかで試行錯誤してる感じです。足場が無いぶん不安定というか。こういう、不安定さのなかでの試行錯誤はきらいじゃないのだけど。

不安定なときは焦りがちですが、焦って動くとやっぱりいろんなことがズサンになってしまいがちです。いままでの経験から判断しても。
だから、自分のなかにいろいろやってみたいことはあるけど、できるだけ焦りからやらないようにしようと思います。

しばらくのあいだヘンテコな姿をみせるかもしれませんが、(何をというわけではないけれど)ヨロシクオネガイシマス・・・。

2008年10月22日水曜日

雑文4

このごろ思ったけど、論理的=整合的、ではない。
俺は整合的なのは好きだけど、論理的かどうかはどうでもいいと感じることが多いようです。

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むしろ「論理」を基盤付けるために、ある類の整合性を失ったり、非整合性に譲ったりすることの方に違和感を持つ。ある類の、というのは、自分にとってごく素朴で単純な感じ方(における整合性)、みたいなの。

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この「雑文」シリーズは、学祭の準備をしてるあいだにすこし形になったりならなかったりしたことを、思いだすでもなくなんとなく書いているものです。文体にすこしリアリティが低いのはそのせいです、1つには。
未定ですが、10月のあいだはこのシリーズで書いてるかもしれません。

2008年10月21日火曜日

雑文3

この頃「貨幣」とか「商品」という言葉を(勝手に)つかったりします。
100円玉とかだけじゃなく、言葉もある面では貨幣だと思ったり。

100円玉は、100円玉が意味のないとこだと、ただのぴかぴかした金属片だと思う。ジュース買えない(; ;)、ジュースは120円だけどww

なんだろう、自分が「貨幣」っていったりするのは、「ある価値体系のなかで意味があるとされる断片」みたいな感じです。そして、貨幣に価値があるのは、支払いの対価が得られる限りにおいてだと思う。

たとえば外国で100円いれても自販機からジュースでてこないし、レート交換がなければ100円はてんで価値がないす。「ぴかぴかした金属片」を自分がどう思うか程度の価値しかないというか。

そして、ある種の言葉、ある種の枠組みというのは、そういうものだと思う。
たとえば「人間」という「概念(?)」が得られる「価値」というのは、それがある体系内で価値付けされている程度の価値でしかない。そういう意味で、「人間」というものは「貨幣」だと思います。

外国で100円が意味が無いのと同様に、たぶん「人間」という言葉も、それが異質な他者には意味が無い、と俺は思います。そしてそういう(←特定の価値体系における「貨幣」が、その体系にとって「異質なもの」には意味をなさない)ところで、「人間」という言葉とか、別のいろいろな言葉があって、100円玉があって、お金の体系があって、経済が動いているのだと思います。

なんだろ、ある面では100円玉には金属片の価値しかない場所で、それでも100円玉に100円の価値が与えられ、ゴタゴタ機能している、というか。
そういう場所の異質さとか、暴力的な「貨幣」の流通性とか、逃避とか、成り立っている構造とか、欲望とか、コンフリクトとかを、もっとよくわかるようになりたいです。

あと、言葉をかけるときに、相手が「特定の価値体系の内部にいるもの」だと規定して言葉をかけるのは、相手の異質さにすごく向き合ってないことだと思う。

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ところで「宇宙論」ってなんだか胡散臭いです。
「あるかないか謎だけど、とりあえず名前をつけて」みた、「宇宙」という名前の「貨幣」を、その貨幣が成立する価値体系の内部の言語で語ろうとしている感じがして。なんか論理が循環している気がする(*)。無限の鏡みてるみたいな雰囲気です。

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(*)
1つの言い方をすると、宇宙論とかのやり方は、「宇宙」という「自分(あるいは話者)」を含む「安定的な」地図やモデルを措定して、その「モデル上」で「これこれこうだから」「実際もこうなんじゃないか」というものな気がします(この言い方もモデル的だけど)。

俺が疑問に思うのは、その地図またはモデルの「安定性」についてです。やっぱりモデル的なことをいうと、仮に言語が貨幣的であり、貨幣とは異質さを含んだ、異質なものたちの通貨だとするなら、その価値あるいは安定性は流動的なものになると感じる。

その流動性を見失って、「この言語は○○によって定義されるからOK」という態度を取り、その言語が示すモデルのうちに住まおう、あるいは何かを「説明」しようとすることは、異質さを巻き込みながら貨幣が生成とか流動していく暴力に向き合うことから、決定的に逃避している感じがします。

その逃避を隠して、話者を含むモデルのうちにモデルを説明しよう、というライン取りを「(あやしい)論理の循環」と感じるのだけど。話者自体がそのモデルのなかにどっかで取り込まれてるみたいだし。

2008年10月20日月曜日

雑文2

言語には、条件を審査してくるタイプの言語があると思う。「この言語を使うには、あなたは自分が○○の世界に住まうものである、ということにしなければならない。ところであなたはこの言語を使いますか?」みたいな奴。ある前提とか世界観にのらなければ、その言語を使えないようになっている言語。

例えば裁判所の弁論だと法(の世界観)とか、数学だと排中律と無矛盾律とか、科学論文だと実証性(反証可能性)とか。

こういうのって、一面ではなんだか会員制の公園みたいで変だなあと思う。公園の会員にならないと、その公園が使えないの。

遊ぶのがなんでもかんでも自由だ、とはいわないけど、会員権を得てその公園で遊ぶようになるのは、なんだか自分の足で公園に立つのではなく、その制度を成り立たせている権能に服従して「遊ばせてもらってる」感じもします。その公園で遊ぶのがどんだけたのしくても、会員権をもらって「システムの庇護」のなかで遊ぶ時点で、それはどこかで嘘の遊びじゃないかと思う。

ときどきどっかにある「こどもの国」みたいな名前のついた公園にも、似たような薄ら寒さを覚えます。「それ『自称大人』がつけた『こどもっていうもの』の『国っていう名前の囲い』でしょ」みたいな(*)。

ただ法や学問とかは、一種の論証技術だし、その論証の強度をもって遊びとか何かとかを確保する、という方法があるのは分かります。そこらへんがどうなってるのかなー、とは思う。
そういう意味では、論証的言語(言語の論証性?)がもつ、闘争性とか、(その勝ち負けの結果の)序列性も気になります。あ、ちなみに闘争や序列がよくないとか思ってるわけではない・・。必要なこともあると思う。

それと、論証性のあれこれは(自分がわかってないので・・)さておき、論証の持つ「誰かに対しての論証」という面を欠いた「条件のいる言語」は、どこにもいけないと思う。ただ自分自身を成立させる恣意的な条件(←正しさみたいなの)のうちで自足するだけで。

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(*)
そういう意味では、法とかも「『自分たち』のために『自分たち』でつくった『自分たちの囲い』でしょ」と思う。だけど「囲い」がなくては、暴力に晒されることになる、だから「囲い」をつくる、という感情もわかるし、単純に否定するつもりはないです。
だけど「囲い」を持ちださざるを得なかった弱さや暴力を否定して、囲いの正当性を言いだすのは、囲い自身を成立させたときの原初的な感情や感覚を失って、囲いの正当性のなかに鈍磨と一緒に自足することにも感じます。

序列(@熱)


たとえば教育とか農業って「計画的に」行われる。基本的にそうだと思う。そこでは計画により適切、より従っている方が「序列的によい」とされることが多いと思う。いっぱいとれる作物や家畜、いい業績や成績をあげる人物、とか。

だけど「計画」が選ばれるのは、1つには生存における弱さからだと思う。豚が「生産的に」殺されるのも、子どもが「教育」されるのも、ある面ではその弱さのゆえかもと思う。

そしてその弱さのまえにあるのは、「計画と序列」だけでなく、この場所の暴力性(荒廃性?)だと思う。荒れ地とか。荒れ地はすきです。

2008年10月19日日曜日

雑文@熱

学祭から体調を崩して、いまも熱がでてます。喘息でてるしorz
なんか浮かされてるかも。雑文です。

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学祭でフエを吹いた。そうじゃないこともしたけど。
いろいろあるけど、その時自分にとってフツウなことができた感じがした。
自分の弱いとこから、この場所に立って、何ができるか、ということ。

なにか「特別なこと」がある/あった、からじゃなく、よかった。

一緒にでてくれた人、きいてくれた人、ありがとうです。

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この場所が、天からパンの降ってくる場所、生きようとするもの(のポジティブさ)がそのまま生かされる場所だったら、言葉とかいろんなものは生じてない、と思った。
ここが天からパンの降ってこない場所で、生きようとするものが引き起こすネガティブさがあって、それでもそのネガティブさをこえて通過したいものがあるから、言葉とか構造とか、いろんなものがあるんじゃないかと思った。

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ところでこの頃昼間生活(わりと)になりました。
だいたいいつも試行錯誤してるけど、昼間生活になってからまたしてます。
いろんなことが起き過ぎて、自分の理解がおっつかないけどたのしいです。

2008年10月14日火曜日

事務(?)連絡

きのうケータイを落として壊れた(; ;)ので、keroにはしばらく電話とメールは通じないす。カナシス
某サークルには(なるたけ)現れるので、なんかあったらそっちでどうぞです

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【追記】
あ、「サークルでは遅いのだよ」とかのがあれば、プロフィール欄にのってるパソコンアドレスまでドウゾ・・。

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【再追記】
代用機をゲットしましたー。これで連絡はつくです、きらーん☆。しかし代用器のアドレス帳は現在白紙・・・;。あと関係ないけど原付パンクしました。修復不能なのでタイヤ交換ですと。カナシス(; ;)

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【再々追記】
どうやらなおった模様です。近日中にもらってきまーす☆