2008年10月21日火曜日

雑文3

この頃「貨幣」とか「商品」という言葉を(勝手に)つかったりします。
100円玉とかだけじゃなく、言葉もある面では貨幣だと思ったり。

100円玉は、100円玉が意味のないとこだと、ただのぴかぴかした金属片だと思う。ジュース買えない(; ;)、ジュースは120円だけどww

なんだろう、自分が「貨幣」っていったりするのは、「ある価値体系のなかで意味があるとされる断片」みたいな感じです。そして、貨幣に価値があるのは、支払いの対価が得られる限りにおいてだと思う。

たとえば外国で100円いれても自販機からジュースでてこないし、レート交換がなければ100円はてんで価値がないす。「ぴかぴかした金属片」を自分がどう思うか程度の価値しかないというか。

そして、ある種の言葉、ある種の枠組みというのは、そういうものだと思う。
たとえば「人間」という「概念(?)」が得られる「価値」というのは、それがある体系内で価値付けされている程度の価値でしかない。そういう意味で、「人間」というものは「貨幣」だと思います。

外国で100円が意味が無いのと同様に、たぶん「人間」という言葉も、それが異質な他者には意味が無い、と俺は思います。そしてそういう(←特定の価値体系における「貨幣」が、その体系にとって「異質なもの」には意味をなさない)ところで、「人間」という言葉とか、別のいろいろな言葉があって、100円玉があって、お金の体系があって、経済が動いているのだと思います。

なんだろ、ある面では100円玉には金属片の価値しかない場所で、それでも100円玉に100円の価値が与えられ、ゴタゴタ機能している、というか。
そういう場所の異質さとか、暴力的な「貨幣」の流通性とか、逃避とか、成り立っている構造とか、欲望とか、コンフリクトとかを、もっとよくわかるようになりたいです。

あと、言葉をかけるときに、相手が「特定の価値体系の内部にいるもの」だと規定して言葉をかけるのは、相手の異質さにすごく向き合ってないことだと思う。

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ところで「宇宙論」ってなんだか胡散臭いです。
「あるかないか謎だけど、とりあえず名前をつけて」みた、「宇宙」という名前の「貨幣」を、その貨幣が成立する価値体系の内部の言語で語ろうとしている感じがして。なんか論理が循環している気がする(*)。無限の鏡みてるみたいな雰囲気です。

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(*)
1つの言い方をすると、宇宙論とかのやり方は、「宇宙」という「自分(あるいは話者)」を含む「安定的な」地図やモデルを措定して、その「モデル上」で「これこれこうだから」「実際もこうなんじゃないか」というものな気がします(この言い方もモデル的だけど)。

俺が疑問に思うのは、その地図またはモデルの「安定性」についてです。やっぱりモデル的なことをいうと、仮に言語が貨幣的であり、貨幣とは異質さを含んだ、異質なものたちの通貨だとするなら、その価値あるいは安定性は流動的なものになると感じる。

その流動性を見失って、「この言語は○○によって定義されるからOK」という態度を取り、その言語が示すモデルのうちに住まおう、あるいは何かを「説明」しようとすることは、異質さを巻き込みながら貨幣が生成とか流動していく暴力に向き合うことから、決定的に逃避している感じがします。

その逃避を隠して、話者を含むモデルのうちにモデルを説明しよう、というライン取りを「(あやしい)論理の循環」と感じるのだけど。話者自体がそのモデルのなかにどっかで取り込まれてるみたいだし。

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