2008年10月27日月曜日

儀式とか判断とか

手塚治虫の漫画って、主人公が都合よく不幸になるなあ、と思った。
不幸というか「定常状態から放逐されて、もう定常状態には戻れない状態」みたいな。
なんかの事故でカラダがグチャグチャになって、脳を人工頭脳と入れ替えられて「人間」ではなくなった(かといって「ロボット」でもない)とか。これは火の鳥の話だけど。

手塚治虫にかぎった話じゃなくて「『不幸』な状態」って、「幼児の安心な状態」から放逐されるとか、エデンの園から放逐される、とかいろいろあったりする。でもそれって「不幸」なんだろうか。
「不幸」って、なんらかの状態を「幸せ」と位置づけて、それに劣位のものとして与えられる「名前」な感じがする。

この前知り合いの部屋に妙な宗教のチラシがあって、それによると人類はいまハチャメチャなことしてるから、それに神様が腹立てて世界をメタクソにして、その後人類はよさげな生きものとして生きるようになる、みたいなことがかいてあった(うろおぼえ)。

「昔はよかった(のに、誰かさんが「悪いこと」したから今はこんなにダメになった)」も、「将来もっと幸福な世界がくる(だから今は「不幸」なのだ)」も、同じな気がする。

それは何かを時系列という物語のなかに位置づけて、「過去とよばれるもの」あるいは「未来とよばれるもの」に対して、「このごろ」は劣位である。「だから」その「埋め合わせ」をするのだよ、みたいな論理を相手に強要してくる。別に強要している表現はなくとも、「過去または未来はいいものだ」「このごろはダメである」といってくるのは、暗に埋め合わせを求めているのだと思う(手塚治虫の漫画にはよく「その不幸を埋め合わせてくれる相手や異性」がでてくるけど、それこそ相手を人形扱いだと思う。)。

だけど「なにか理想をつくること、そして現在(といわれるもの)を、その理想とのギャップの埋め合わせにつかわせること」、というのはなんかヘンテコでないか。その「理想状態」というのは、「埋め込まれた/埋め込まれる、物語」じゃないのか、と思わなくもない。詳細は本人も分からないけど。

でもその「埋め込まれる物語」を含んだ儀式体系のなかに、誰かあるいは自分自身を位置づけて、その物語とのギャップを埋めようとし続ける/させ続ける、ということ、またそのギャップが埋まったら「めでたしめでたし」とすることは、いま起きていることに対して適正な判断を奪い、その判断を「物語あるいは儀式」のなかに簒奪させてしまうことな気がする。

二つあるのだと思う。
1)起きることというのは、とてもシビアなことがありうるということ。
2)原初的でやわらかい情動や感情には、そのシビアさがとてもつらいことがありうるということ。

だけど、シビアさとかつらさ=「不幸(という位置づけ)」ではないんじゃないかと思う(てか安易ではないのか)。そういうシビアさとか荒廃性とかを、「不幸」とかテキトーな物語や儀式体系のなかに位置づけるとかより、ここで、あるいはここの荒廃性のなかで、いま起きていることに対して(硬直からとかじゃなく、多分だけど、やわらかさがあるところから)適正なあるいは必要な判断をする/していこうとする、という方が、ずっと重要なことな気がする。

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