言語には、条件を審査してくるタイプの言語があると思う。「この言語を使うには、あなたは自分が○○の世界に住まうものである、ということにしなければならない。ところであなたはこの言語を使いますか?」みたいな奴。ある前提とか世界観にのらなければ、その言語を使えないようになっている言語。
例えば裁判所の弁論だと法(の世界観)とか、数学だと排中律と無矛盾律とか、科学論文だと実証性(反証可能性)とか。
こういうのって、一面ではなんだか会員制の公園みたいで変だなあと思う。公園の会員にならないと、その公園が使えないの。
遊ぶのがなんでもかんでも自由だ、とはいわないけど、会員権を得てその公園で遊ぶようになるのは、なんだか自分の足で公園に立つのではなく、その制度を成り立たせている権能に服従して「遊ばせてもらってる」感じもします。その公園で遊ぶのがどんだけたのしくても、会員権をもらって「システムの庇護」のなかで遊ぶ時点で、それはどこかで嘘の遊びじゃないかと思う。
ときどきどっかにある「こどもの国」みたいな名前のついた公園にも、似たような薄ら寒さを覚えます。「それ『自称大人』がつけた『こどもっていうもの』の『国っていう名前の囲い』でしょ」みたいな(*)。
ただ法や学問とかは、一種の論証技術だし、その論証の強度をもって遊びとか何かとかを確保する、という方法があるのは分かります。そこらへんがどうなってるのかなー、とは思う。
そういう意味では、論証的言語(言語の論証性?)がもつ、闘争性とか、(その勝ち負けの結果の)序列性も気になります。あ、ちなみに闘争や序列がよくないとか思ってるわけではない・・。必要なこともあると思う。
それと、論証性のあれこれは(自分がわかってないので・・)さておき、論証の持つ「誰かに対しての論証」という面を欠いた「条件のいる言語」は、どこにもいけないと思う。ただ自分自身を成立させる恣意的な条件(←正しさみたいなの)のうちで自足するだけで。
+++
(*)
そういう意味では、法とかも「『自分たち』のために『自分たち』でつくった『自分たちの囲い』でしょ」と思う。だけど「囲い」がなくては、暴力に晒されることになる、だから「囲い」をつくる、という感情もわかるし、単純に否定するつもりはないです。
だけど「囲い」を持ちださざるを得なかった弱さや暴力を否定して、囲いの正当性を言いだすのは、囲い自身を成立させたときの原初的な感情や感覚を失って、囲いの正当性のなかに鈍磨と一緒に自足することにも感じます。
0 件のコメント:
コメントを投稿