手塚治虫の「火の鳥」を知り合いの部屋で読みました。それでラカンの話をちょっと思いだして、「手塚治虫ってマザコンだなあ」と思った。
ラカンの話ってのをいい加減にまとめると、ヒトははじめに母子一体の状態があり、そこから「生まれ」て、幼児としてすごし、しばらくしたらいろんな規律が横行する「社会」にでていくよ、そういう過程で色々変わるよ、って話です。すげえいい加減。
手塚治虫がかく男性と女性の出会いは、「社会」から外れた男女が、社会の外部において互いの幼稚で稚拙な情動を受け入れあって結ばれる→だけど結ばれた二人は社会の暴力にひき潰される→でも二人が残したものは生きようとしていく、という感じが多いかなー、と思った。
それって「社会から外れた状態」、つまり幼児と母親や母子一体における結びつきに憧れてて、でも社会の暴力性をないことにはできないから、とりあえずその結びつきは壊れることにして、でもやっぱりそこに執着があるから、その結びつきからでてくるものはまた生きようとする、みたいな感じにしてみたかったのかな、と思いました。ようするに社会の暴力性から逃避したとこの、母親との安心のなかの関係に憧れてたのかな、と。
社会のゴタゴタから目を塞ぎたいだけじゃねえか、アホか、とは思う。でも「安心」に住まいたい、かつ「安心」に他のヒトと住まいたい、というのは感情的には分かります。俺もある意味閉鎖的な場所でそだったので、そこにある「安心」が、麻薬っぽくて強度の高いものだというのは知ってます。ときどき安易にそこに流れたくもなる。
ただラカンの話がホントかどうかはともかく、母子一体のエデンの園みたいな状態とか、幼児のときにかわいがられ(あるいは少なくとも社会に晒されない)で「安心」でいるのって、多少はあるようにも思う。個人的な経験が大きいからなんともいえないけど。
だけど社会といわれるものの暴力性から逃避して、そこに逃げ込むというのはインチキじゃないかと思う(1つには、その暴力には自分も加担しているんじゃないかと感じるから)。それと、ラカンの話(いい加減にしか分かってないけど)によると、ヒトは「社会」にでるときに「社会の掟」や「法」に遭遇し、そこで赤ちゃんなり幼児のときの一種の全能感や全能性を失い、失うことで逆に積極的に「(社会における)自己」を確立する、というのがあったけど、それもどうかなー、と思う。
エデン幻想みたいのもってるヒトにとっては、ここは楽園の跡地というか、廃墟みたいな場所だと思う。そして法とか掟とかいうのは、その廃墟のなかで機能している儀式だと思う。その廃墟の荒廃性や暴力性から逃げるのでもなく、儀式に飲み込まれるのでもなく、単に内的世界を実現するとかでもなく、「ここ」でなにかできる(*:「できる」というと変だけど・・)んじゃないか、少なくともやろうとすることはできるんじゃないか、と俺は思ったりします。
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少し話はズレるけど、幼児がいろいろ思うときって、言葉を覚えたときのほかに、食事をはじめたときのような気がする。ホントかウソかは分からないけど。
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(*)
フツーの(?)言葉でいうと、システムとか儀式からトンズラするのでも、飲み込まれるのでもなく、自分の足でここに踏みとどまって、自分のやわらかいとこを含めたとこから、システムとか相手に可能性にチャレンジ、みたいな。なんの可能性か、といわれてもよくわかんないけど。あ、あと「チャレンジ」とかってスポ根みたいでアレですが;
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