2008年11月30日日曜日

homeについて


卒論をかいていて、自分がきらっていたのはhomeあるいはhome的な意識だと思った。定住性のうちに、ものが生きていることを隷属させ隠蔽すること。日本的な言葉でいえば「イエ」による生の排除だと思う。

例えば学歴や量的貨幣の蓄積みたいなのも、「国家や市場経済というイエ」の内部で、その「イエが認定する価値」を、量的にどれだけ高くしたか、ということだと思う。あるいは「論理的に考える」ということも、「論理」という定住的機構が認定し許容する限りでの「ものの感じ方」を「考える」といっているのだと思う。

そこではhomeが認定するものの考え方を取れば安全/安心で、定住性の外部にいるのは危険で忌むことだという意識が働いている。だけど「home」を基準にして考えるなら、そこには「homeを基準にした生」しかない。どれだけ技能や技術があっても、それが「homeで役に立つ」からというのなら、それは技能や技術を認定するhome内部に隷属した「成果」をあげるものに過ぎない。それならそこにhomeに依らない(*)自分の感覚はない。

home-lessはさみしい。経験的にはあまりの何も無さに意識が吹っ飛びそうになるくらいさみしい。だけどhomeから出るのが怖いことを他の何かのせいにして、いつまでもhomeへしがみ付いてる気持ち悪さは無い。結局homeにしがみ付いてhomeに「正しさ」の幻想をもって、幻想を「理由」にこじつけて自分の感覚よりも定住性を優先しているのは、他ならない自分なのだと思う。

だけどそうしたところで「何も」起きない。リアルも暴力も何も無い。homeの幻想を介した「他者」など、さみしさから逃避した自分の幻想の影に過ぎない。それは自分の生も死も、それこそ一人ぼっちの幻想のなかで行うということだ。それはhome-lessがさみしいことよりもっとどうしようもないんじゃないのか。

暴力の場所でなにができるか分からなくても、遊びも感覚も痛みもリアルさもそこにある(と思っている)。それを自分で隠し続けて、定住性のうちにとどまったり、他の奴をそこに引き込んで自分の相手をさせる人形にするなんてどこにも行き場がないと感じる。

homeのなかの価値よりも、俺はいろいろコミのたのしいことが好きだ。それが正しいか/正しくないかはどうだっていい。そしてたのしいことはhomeや誰かに決めてもらうんじゃなくて、ここで自分で感じてくことだと思う。

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話はとぶけど、この頃「自分がきらいなのは誰かに甘えることじゃなくて、『誰かと自分を含んだ幻想』を通してみた『誰か』に甘えること」だと思った。知り合いと話していて思ったこと。その意味で、「誰かと自分を含んだ幻想」じゃなく誰かに甘える/甘えられることの感じは、いろいろあるけど感じいいの多い。

*:乱暴な分け方だけど、考慮するのと基準にするのって違うと思う。関係性ってやわらかいから「考慮」っていうと固い距離がありすぎるとも思うけど

2008年11月27日木曜日

ou-topos

というそうです。ユートピアのことを原語では。
ou(ない)topos(場所)という意味らしい。

ou-toposは無い、ということ。ここがユートピアのない荒れ地だということ。あるいは非ユートピアであり暴力の場所だということ。そしてそこに何かユートピア的なものをつくる場合、結局それはその幻想への隷属と、幻想に抵触するもの(それが自分自身の気持ちを含めたものであれ)の排除と隠蔽に他ならないということ。その幻想に隷属するかしないかは、自分で決めていいということ。ここは荒れ地で暴力的だけど、いつでも開かれているということ。自分がおそらく何もしらないのだということ。そういうことをきちんと分かっていたい。

「ここ」に立つこと。それはつながりを切るとか、つながりのなかでどうしようもなくでてくる規範のようなものを無効にすることじゃなく。そのコンフリクトも、自分が暴力的なものだということも、リアリティに直面したときの何もできなさも逃れがたいけど。それが何も無くても、そこから逃げても何も無いよりもっと何も無い。

近況報告(?)

Tool - Third Eye Revisited

この頃またTOOLのブームがきたkeroです。メイナードさん(Vo)かっこいい☆、弦と打楽器もすきだー。

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あ、あとこんなものを見つけました。なんだnothingってww。詳細はこんなんらしいです↓。(http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20061113_flying_spaghetti_monster/)
ちょっと買ってみたい気もする・・・。

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学祭で公式フエはおしまいかしら、と思っていたら、合コン(合同コンサート。合同コンパではない・・)にでることになりました。ルンバのリズムの曲吹くんだって。ルンバは初めて。
なのでちょこちょこルンバの曲きいたりしてます。うにゃうにゃきいててリズムの感じが分かるといいなー、みたいな。またいろいろ試してみたいww。今回もいいメンバーと一緒にでれて俺はうれしいのです、わー(゜∀゜*)


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SoTuRoNなるものをかきはじめました。はたしてどこまでマトモな、あるいは言葉にできないアレなできになるのでしょうか。現在、第二章に入ったとこ。そしてナイスな文献が手元にないすorz。なにをいっとるんだ自分;
今日は文献さがしに図書館いってきまーす。外は寒くて白灰色の曇りです。

2008年11月22日土曜日

ゲーム追記:利権

例えばなんらかの教-育システムというのは、ヒトが生まれて生物学的に生長し、死ぬことを前提として成立していることがある。そこでの報酬は、学校での評価という形をとるかもしれないし、企業での評価という形をとるかもしれない。

だけど、ヒトが生まれて死ぬことを「仮定」して前提にしたシステムに入り、そこでの評価を自身の評価とすることは、そのシステムを形成した政治に属すことを意味する。その属し方は様々だと思うけど、その政治への属し方が「その政治から外れるのが怖いから」というのは、結局その政治に、あるいは誰かに与えられた統治に隷属してると思う。

その場合、そのシステムの内部で得られる評価は、その政治に隷属したものとしての評価だ。そして恐怖から自分の判断基準をゆだねて、政治に隷属するというのは、そこに自分のリアルさを隷属させることだと思う。そしてリアルさを隷属させて、あるいはリアルさの隷属と引き換えに得られる評価(例えば「生まれて死ぬもの」として仮定や定義された枠組みのなかで、自分の死を含んだ生を抹消して得た「評価」)は俺にとってはリアルさのないものだ。

どの「政治」を選択するかというのは、自分の判断だと思う。その判断は政治力学的に行われる。そこでその判断をなんらかのシステムに隷属させることは、自身の政治のリアリティあるいは自主性を廃棄することだと思う。自身の政治の自主性を廃棄して得られる利権は、隷属者としての利権だけだと思う。

個人的には、システムは飲み込まれるものでも、無いことにするものでもないと思う。システムの政治性に対しては、自身の政治性から渡り合うものだと思うし、そこでいかに隷属者としてでなく、自分にとっての利権を得る/得ようとするか、ということが重要なんだと思う(*)。そしてその「利権」は、個々によってなんであれ構わないのだと思う。それが自分でものを考えるということだし、自分でなにかをしようとすることだと思う。そしてそれはとても暴力的(≠乱暴)なことだ。だけどその暴力にアクセスしないと何もはじまらない

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*:話が複雑になるから避けたけど、隷属者-支配者の変換のゴタゴタのなかで、ものが動くことはある、と思う。それをないことにするわけじゃなく。

ゲーム

あるシステムというのは、そこにいるみんながみんなを奴隷にしてる、という面があると思う。そこでは「全体」が仮定され、その「仮定された全体の福利」のために、その構成者が行動する、というパターンを取る。

例えば、「あなた/わたしは『国民』なんだから、『国家』に関わる『みんな』が幸せになるように行為しなさい/する」みたいなの(*)。ここでは「国家」が仮定された全体だし、国民は「仮定されたその構成者」になる。そして国民でないものは、救済(=「国民」化)されたり、排除されたり、隠蔽されたりする。

そして個人的には、「国民でないもの」、あるいは排除されてるのというのは、特定の誰かでなく「仮定からあぶれた領域」だと思う。その仮定を成立させる/させ続けるために、仮定を侵害する領域を救済・排除・隠蔽する、ということ(**)。

だけどちっと待ってくれよ、と思う。「仮定」または「仮定にのる」というのは、つまり一つの「ゲーム」にのる、ということだ。ゲームのなかで「いいこと」をやったら経験値とゴールドでも入るのかもしれない、次のイベントにいけるのかもしれない。だけどそこに「入って」しまうのって、自分の生活を「ゲーム」にしてしまうこと、ゲームに自分のリアルさを隷属させることだと思う。

ゲームキャラにはゲームキャラの権利があるんだろう。奴隷には奴隷のたのしみがあるんだろう。それは否定しない(非-暴力的に否定できる立場にいるわけでもない)。だけど奴隷になるかならないかは自分で判断することだと思う。「仮定された全体」が国家でも市場経済でも情報ネットワークでもなんでも、それが固定的でも流動的でも、仮定に過ぎない。その「仮定された全体の構成者」もゲームに過ぎない。そこに「自分の判断の場/自分のリアルさ」をのせたらマズイと思う(***)。

だけど思うのは、俺が他のなにかに関わってゴタゴタしている、という限り、俺はいつも「ゲーム」と「リアリティ」のコンフリクトの領域で判断を迫られている、ということだ。そこでは「ゲームに過ぎない」という「ゲーム」は、ゴタゴタに食い込んで、相当程度に圧倒的な存在感をもつ。そこではゲームのルールは強く、リアリティのがよっぽどちっぽけだ。

だけどリアリティにいないでどこにいんの?とは思う。そういう場所で花も咲くしヒトも死ぬ。それを失くしたらおよそなんにも残らない(たぶん残るのは、リアリティを失った隷属者としての消滅だけだ)。
国家も戸籍も名前も、水道代も電気代もDNAも給料も、貨幣も言語も血縁も、ゲームあるいはヴァーチャルだということ。そしてヴァーチャルが消滅したあとの世界は茫漠としてて広くて虚無的でまぶしいこと。そういうことを俺は自分でわかっていたい。そして、そこでのいろんな無力さとか怠惰さとか逃避願望とか欲望とかから、たぶん「ゲーム」はでてきたのだと思う。

そういう意味では、ヴァーチャル/システム/ゲームに隷属する弱さを含めて、ここの、あるいは自分のリアリティなんだと思う。だからゲームは安易に否定したり無いことにしたりするものじゃないと思う。だけどゲームの「外部」はおそらくいつでもひらかれている(****)。

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*:そこでの報酬は、奴隷/ゲームキャラ/隷属者の報酬あるいは「利権」だと思う。それがいいか悪いかは別として。だけど俺が求める利権はそれではない

**:ある場合には、その全体性に反対する立場は「なぜあなたはあなたも含めた『全体の福利』を侵すのですか」といわれるのだと思う。反対者が反対するのが、「仮定された全体性」つまりリアルさを奪う「ゲーム」のゲーム性に対してであって個々の福利性でないにしても、その意見は「全体性への敵意=福利性への敵意」と混同されうる。

***:「仮定された全体」がある、ということは、仮定者のスタンスがある、ということだ。しかし「仮定された全体」のなかに「自分の判断の場=仮定者のスタンス」を飲み込ませる、ということは、どこにも判断するものがいなくなる。あとはシステム化した惰性の行動と、システムから外れることの恐怖の感情と、判断を失ったシステムが残るだけにならないか?と思う。この言い方は極端だけど。

****:そういう「ゲーム」とリアルさの入り混じったとこで、自分のリアルさを基調にどうするか、どう判断するかってのが俺には重要みたいです

2008年11月19日水曜日

ももんじゃ

ほんにゃらぷー

ほんにゃらぷー

ほんにゃらぷっぷー、ほんにゃらぷー

(ももんじゃのうた)

・・

・・・

すいません。なんとなくかいてみたかっただけです(゜∀゜;)


ちなみに上の画像は、俺がある知り合いに「ももんじゃ(さん)」と呼ばれている原因となった当のももんじゃです。とさかが生えてるから似てるんだって。
ももんじゃー☆

2008年11月15日土曜日

ぽんぽこぽーん(ジュラ紀の残骸)

みかえしたらひどかったのでかきなおします
失敗したら消滅または元のがもどるでしょうorz
近頃フエふいてないからか、しゃきっとしてないですね・・
フエふくといろんなことがわかります。
しゃきっとしてなくてすみません。歯ごたえのないコーンか

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ものを食べるのは(生理的選択を行っているという意味で)差別的だということ、自分に差別的なとこがあることと、自分に差別的なとこがあるからそれを形式化していい、というのは違うと思う。それは形式の安定性に依存した差別であって、もとのナマの差別とはカタチが違っている。

ナマのことを通過せずにものが動いたり変わったり開いたりするなんて間抜けな話だ。そしてナマのことにはさみしいことも悲しいこともあったりする。それはフツウだし、その意味でマイナスでもプラスでもない。それはいうならポジティブだと思う。

さみしいことを排斥して至れるのは、閉じたハコのなかだけだ。そしてそこでは、他のいろんなことも排斥されている。それがネガティブということなんだと思う。そしてその排斥はフツウに起きるし、「その」フツウに起きることが、他のフツウに起きることを失わせるというのはあることだと思う。

ネガティブでいるのはある意味では安寧だ。それでもポジティブでいることに価値はある(と思う)。それはシビアで酷くてやわらかくてまぶしくて開いてる。それはとてもフツウなことが起きてるのだと思う。

あと、この頃フヌケていたと思いました。いろいろあるけど、学祭が終わって「断片」までかいて、それまで気を張ってたのが崩れてクッタリしていました。カラダが「もうダメぽ」といっておられるので、ダメじゃなくなるまで休んだら、またゴタゴタがあるとこに行きたいです。フツウのことがいっぱい起きるとこに行きたい。
それは新しさもやわらかさもネガティブさも暴力もシステムも含んだ遊びの場を行くこと/変わることだといってもいいと思う、思った

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あ、かきなおしたけどいちばん上の文はけさないどきます。後でみたらなんかおもしろかったww

2008年11月14日金曜日

雑記ぱらぱら(mixiより転載ほか)

この頃mixiでかいた雑記の群れとかです。しばらくしたらこの記事は消すかもですが、近況報告がてら・・・。(殴り書きみたいなのが多いのはmixiがメモのゴミ箱と化しているからでござる;)

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見た。体験は白くて光ってて軽くて暴力的だった。物理的な痛みのない原爆のようだった。摩滅して消し飛んだ。俺はこれを行くのか

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連続とは、断絶の連続のことだ。それはアナログ/デジタル、といってデジタルと対立しながらデジタルに依存して、依存ゆえに囲い込まれるアナログではない。連続は断絶の領域にあるし、それは断絶の連続だ。

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殺すことは言語を絶つことだ。そしてそれは可能なことだ。殺人は可能だしそういう場所にいる。殺人は言語で語れない

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ある固定性をとれば、何もおきなければ論理どおりに(場合によっては「論理」どおりに)進むのだろう。だけどここは論理が折れる場所だ。あるいはその固定性が折れる場所だ。ここの建材は折れた論理と変わることだ、と感じる


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この頃(すごく久しぶりに)マンガをいくつか買いました(゜∀゜)。
読書しないどころかマンガも読まない(他のひとの部屋か立ち読み程度・・・)の自分にはめずらしい感じ。

傭兵ピエール(佐藤賢一、野口賢)
近所のブックオフでみつけて。以前雑誌で第一話だけ読んで、なんとなく覚えていました。

銃夢(木城ゆきと)
これもブックオフで。LAST ORDERという続編もちょっとかった。あ、画像はLAST ORDERの方です。

童夢(大友克洋)
数年前に知り合いから見せてもらったのを、ふいっと思い出して。

とかです。これ以外にもいくつか。前から断片的にもっていたのもあるけど、押入れの奥底に消えてしまったのでまとめてかってしまった・・・。そしてチョコを買ったら俺の財布には100円くらいのこりました。のーん;