
卒論をかいていて、自分がきらっていたのはhomeあるいはhome的な意識だと思った。定住性のうちに、ものが生きていることを隷属させ隠蔽すること。日本的な言葉でいえば「イエ」による生の排除だと思う。
例えば学歴や量的貨幣の蓄積みたいなのも、「国家や市場経済というイエ」の内部で、その「イエが認定する価値」を、量的にどれだけ高くしたか、ということだと思う。あるいは「論理的に考える」ということも、「論理」という定住的機構が認定し許容する限りでの「ものの感じ方」を「考える」といっているのだと思う。
そこではhomeが認定するものの考え方を取れば安全/安心で、定住性の外部にいるのは危険で忌むことだという意識が働いている。だけど「home」を基準にして考えるなら、そこには「homeを基準にした生」しかない。どれだけ技能や技術があっても、それが「homeで役に立つ」からというのなら、それは技能や技術を認定するhome内部に隷属した「成果」をあげるものに過ぎない。それならそこにhomeに依らない(*)自分の感覚はない。
home-lessはさみしい。経験的にはあまりの何も無さに意識が吹っ飛びそうになるくらいさみしい。だけどhomeから出るのが怖いことを他の何かのせいにして、いつまでもhomeへしがみ付いてる気持ち悪さは無い。結局homeにしがみ付いてhomeに「正しさ」の幻想をもって、幻想を「理由」にこじつけて自分の感覚よりも定住性を優先しているのは、他ならない自分なのだと思う。
だけどそうしたところで「何も」起きない。リアルも暴力も何も無い。homeの幻想を介した「他者」など、さみしさから逃避した自分の幻想の影に過ぎない。それは自分の生も死も、それこそ一人ぼっちの幻想のなかで行うということだ。それはhome-lessがさみしいことよりもっとどうしようもないんじゃないのか。
暴力の場所でなにができるか分からなくても、遊びも感覚も痛みもリアルさもそこにある(と思っている)。それを自分で隠し続けて、定住性のうちにとどまったり、他の奴をそこに引き込んで自分の相手をさせる人形にするなんてどこにも行き場がないと感じる。
homeのなかの価値よりも、俺はいろいろコミのたのしいことが好きだ。それが正しいか/正しくないかはどうだっていい。そしてたのしいことはhomeや誰かに決めてもらうんじゃなくて、ここで自分で感じてくことだと思う。
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話はとぶけど、この頃「自分がきらいなのは誰かに甘えることじゃなくて、『誰かと自分を含んだ幻想』を通してみた『誰か』に甘えること」だと思った。知り合いと話していて思ったこと。その意味で、「誰かと自分を含んだ幻想」じゃなく誰かに甘える/甘えられることの感じは、いろいろあるけど感じいいの多い。
*:乱暴な分け方だけど、考慮するのと基準にするのって違うと思う。関係性ってやわらかいから「考慮」っていうと固い距離がありすぎるとも思うけど





