2008年11月22日土曜日

ゲーム

あるシステムというのは、そこにいるみんながみんなを奴隷にしてる、という面があると思う。そこでは「全体」が仮定され、その「仮定された全体の福利」のために、その構成者が行動する、というパターンを取る。

例えば、「あなた/わたしは『国民』なんだから、『国家』に関わる『みんな』が幸せになるように行為しなさい/する」みたいなの(*)。ここでは「国家」が仮定された全体だし、国民は「仮定されたその構成者」になる。そして国民でないものは、救済(=「国民」化)されたり、排除されたり、隠蔽されたりする。

そして個人的には、「国民でないもの」、あるいは排除されてるのというのは、特定の誰かでなく「仮定からあぶれた領域」だと思う。その仮定を成立させる/させ続けるために、仮定を侵害する領域を救済・排除・隠蔽する、ということ(**)。

だけどちっと待ってくれよ、と思う。「仮定」または「仮定にのる」というのは、つまり一つの「ゲーム」にのる、ということだ。ゲームのなかで「いいこと」をやったら経験値とゴールドでも入るのかもしれない、次のイベントにいけるのかもしれない。だけどそこに「入って」しまうのって、自分の生活を「ゲーム」にしてしまうこと、ゲームに自分のリアルさを隷属させることだと思う。

ゲームキャラにはゲームキャラの権利があるんだろう。奴隷には奴隷のたのしみがあるんだろう。それは否定しない(非-暴力的に否定できる立場にいるわけでもない)。だけど奴隷になるかならないかは自分で判断することだと思う。「仮定された全体」が国家でも市場経済でも情報ネットワークでもなんでも、それが固定的でも流動的でも、仮定に過ぎない。その「仮定された全体の構成者」もゲームに過ぎない。そこに「自分の判断の場/自分のリアルさ」をのせたらマズイと思う(***)。

だけど思うのは、俺が他のなにかに関わってゴタゴタしている、という限り、俺はいつも「ゲーム」と「リアリティ」のコンフリクトの領域で判断を迫られている、ということだ。そこでは「ゲームに過ぎない」という「ゲーム」は、ゴタゴタに食い込んで、相当程度に圧倒的な存在感をもつ。そこではゲームのルールは強く、リアリティのがよっぽどちっぽけだ。

だけどリアリティにいないでどこにいんの?とは思う。そういう場所で花も咲くしヒトも死ぬ。それを失くしたらおよそなんにも残らない(たぶん残るのは、リアリティを失った隷属者としての消滅だけだ)。
国家も戸籍も名前も、水道代も電気代もDNAも給料も、貨幣も言語も血縁も、ゲームあるいはヴァーチャルだということ。そしてヴァーチャルが消滅したあとの世界は茫漠としてて広くて虚無的でまぶしいこと。そういうことを俺は自分でわかっていたい。そして、そこでのいろんな無力さとか怠惰さとか逃避願望とか欲望とかから、たぶん「ゲーム」はでてきたのだと思う。

そういう意味では、ヴァーチャル/システム/ゲームに隷属する弱さを含めて、ここの、あるいは自分のリアリティなんだと思う。だからゲームは安易に否定したり無いことにしたりするものじゃないと思う。だけどゲームの「外部」はおそらくいつでもひらかれている(****)。

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*:そこでの報酬は、奴隷/ゲームキャラ/隷属者の報酬あるいは「利権」だと思う。それがいいか悪いかは別として。だけど俺が求める利権はそれではない

**:ある場合には、その全体性に反対する立場は「なぜあなたはあなたも含めた『全体の福利』を侵すのですか」といわれるのだと思う。反対者が反対するのが、「仮定された全体性」つまりリアルさを奪う「ゲーム」のゲーム性に対してであって個々の福利性でないにしても、その意見は「全体性への敵意=福利性への敵意」と混同されうる。

***:「仮定された全体」がある、ということは、仮定者のスタンスがある、ということだ。しかし「仮定された全体」のなかに「自分の判断の場=仮定者のスタンス」を飲み込ませる、ということは、どこにも判断するものがいなくなる。あとはシステム化した惰性の行動と、システムから外れることの恐怖の感情と、判断を失ったシステムが残るだけにならないか?と思う。この言い方は極端だけど。

****:そういう「ゲーム」とリアルさの入り混じったとこで、自分のリアルさを基調にどうするか、どう判断するかってのが俺には重要みたいです

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