パソコンと魚とか豚とか羊が俺のなかで結びつきません。これはダメだと思う。パソコンで扱っているのは、例えば管理業者なら羊の頭数だから、それは羊ではない。羊の影みたいなもんです。
羊のことを分かっていて、羊の影をどうこうしてるのなら、それはとりあえず羊のことを分かってるって感じがするけど、羊のことが分かってないのに、羊の影をどうこうしてるっていうのはなんだかオカシイ。
なぜ俺は、こうして羊のことも分からずにパソコンのキーボードをたたいているだけなのに、マーケットに行くとマトンが買えるのだ???
羊の影しか扱ってない/扱えてないのに、マーケットに行くとマトンが買えるってことは、俺が自分にとって理解できないシステムの部分になってるからだと思う。羊の影とか、羊の影の影とか、数字とかを操る係。
それってつまり、俺が自分にとって理解できないシステムのなかにしかいられないということだし、その意味でそのシステムに隷属してるということだし、体験を横取りされてるということだと思う。
システムのなかにいないと自分の餌が取れない。だから「職を探す」とかいうのじゃないか。だけどホントに探すのは餌でないの?と思う。そして餌を探すということは、餌を獲れるフェーズを探すということだと思う。
弓を引き絞って矢を放つフェーズを自分自身で探し当てること。言い換えれば暴力のフェーズを自分自身で探し当てること。あるいはそこで暴力に遭遇すること。それはシステムの中で「職」探しするよりよっぽど重要ではないかと思う。
システムのなかでどれだけ「いい職」についても、それって結局はシステムによって、自分自身の暴力のフェーズをスポイルされてんでないか、と思うのです。大事なのは、自分の手で弓を引き絞って矢を放つ瞬間を、自分自身で探し当てられることだと思う。
2008年12月31日水曜日
収奪と利益(分業⑥)


金を稼げるようになりたい、または金を動かせるようになりたいと思う。
だけど金には中味のある金と空っぽの金がある。
魚を獲る人がいるとする。てかいるわけだ。(なぜかカジキマグロがアタマのなかにでてくる。)
魚を獲る人がいて、市場に運ぶ人がいて、捌く人がいて、卸す人がいて、売る人がいて、それを食う人がいる。
俺が思うのは、そのとき発生する利益、または金銭というのは、魚を獲った以上のものではない、ということです。
魚を獲った分だけの金が中味のある金だし、それ以上の金は中味のない金だ。
そしてその金の価値は、ある意味ではいくらでも上がる。
なぜなら魚を獲るということは、収奪であり暴力であり、体験のビビッドさだからだ。
その体験のビビッドさが鮮やかである程度に、そこでの金は価値を上げる。
俺が動かしたいのはそういう金だし、俺が稼ぎたいのはそういう金です。
銛と弓と矢が欲しい。自分にとっての銛と弓と矢のようなものが。それは貰うものでも買うものでもなく、獲得するものであったり創造するものだったりするのだと思う。そういうフェーズを含んだ行為はすごく好きだ。
2008年12月28日日曜日
SoTuRoNⅢ④
今さらですが、卒論の「おわりに」以降をのせることにしました。
なのでSoTuRoNⅢ③のおわりにあった引用・参考文献一覧は、こっちにのせています。
後ろについてる謝辞は、提出稿にはないものなので、ここにあるのは私家版みたいな感じです。
+++
Ⅵ.おわりに
本稿では「はじめに」で述べた,「システムの肯定性と惰性化」の問題を,ホームレスとその排除の構造の分析によって掘りさげ,システムに関わる主体性の位置,あるいはありようを分析し,「実践主体/主体性の位置」をあらわしてきた.
またその過程で,簡単にではあるが,普遍主義への批判を行い「制度の拘束性」が,システムの肯定性からどのように構成されるかを分析してきた.
本論の主張は2つある.第一に「期待」と「確証」とは違うものであるということ.そしてわたしたちの主体性とは,どのようなコード的確証,あるいは確証的コードによる保障も無効となる空間での,わたしたち自身の体験において生きられるもののありようである,ということである.
ここから述べられることはいくつかある.まず,どのようなコード,どのようなシステムでも,主体性の位置を「確証的」に設定し,そのコード/システムの内部で作動させるようなものがあれば,そこにはおそらく期待と確証との混同から起きる,主体性の隠蔽,あるいは主体性を隠蔽している「ということの隠蔽」が起きている可能性が高い,ということだ.
仮にそのようにして,判断基準がコード/システムの側にあるとするのならば,そこに残存するのは,生きる場や,あるいはそこでの体験を失った「かつて生きていた主体」と,形骸化し教条化した,あるいは硬直したコード/システムだけになってしまうといえる.
そしてこのようなことは,コード/システムが,どれほど肯定的であれ,利益的であってもおきうることである.それは場面が福祉であるにせよ,教育や経済であるにせよ,あるいは個人におけるレベルにせよおきうることだといえる.
もちろん,普遍主義や,他の福祉的,あるいは利益的な方法が,わたしたちが生きているある種の複雑さのなかで,有効であり,場合によっては有益であることに異論はないが,そこに「期待と確証の取り違え」が起き,そして惰性化するならば,そこには隠蔽によって窒息した主体の主体性と,硬直して死んだシステムだけが残ることとなる.それは取り違えを含むため,少なくとも論理として誤りであるし,おそらく主体にかかわる方法論としても誤ったものといい得るだろう.
このことは,福祉実践の場全体にいえることであるし,広くは法,経済,教育にも,さらに広く取れば,論理や科学や理性に対する確証的な信仰や態度に対してもいえることである.
そしてまた,言語や貨幣といった「有用」ともいわれる「コード」の扱いというのが,なんらかの隠蔽を含むものだとしても,その隠蔽とコードとの関係を,生きたものとして触れるのも,硬直し死んだものとしてしまうのも,わたしたち自身のありようであるといえる.
そしておそらく,そこでの「適切な」判断というのは,けしてコードによって支持されるものでなく,わたしたち自身の生きた経済性によって判断/体験されていくものだといえる.言い換えれば,重要なのはその生きた体験のありようにおいて何事かが行われる/成されるということなのだ.
ここに関わる問題のなかで,本稿では触れられなかったこともいくつかある.特に,先にあげたような「言語」や「貨幣」といったコードの問題,また生きられる場での他者とのつながりや暴力や変容の問題,わたしたちの生における死や遊びの問題などは,今後の課題だと考える.
引用・参考文献一覧
大藪寿一(1973)「都市の解体地域」大橋薫・大藪寿一編『都市病理学』有斐閣双書.
後藤新治(2001)「ユートピアの図像学」井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』九州大学出版会.
作場知生(1988)『天国への自動階段』新樹社.
西澤晃彦(2005a)「排除による貧困」岩田正美・西澤晃彦編『貧困と社会的排除』ミネルヴァ書房,46-47.
西澤晃彦(2005b)「檻のない牢獄」岩田正美・西澤晃彦編『貧困と社会的排除』ミネルヴァ書房,263-277.
濱野一郎・遠藤興一編(1998)『社会福祉の原理と思想』岩崎学術出版社,ⅰ-ⅱ.
福田孝雄他(2006)『社会保障とその周辺』中央法規出版,3.
原昌平(2004)「市民意識とマスコミ」日本住宅会議編『ホームレスと住まいの権利』,248-250.
森泰男(2001)「エウトピアからユートピアへ」井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』九州大学出版会.
謝辞
本稿は,ぼく一人の力ではなく,周囲の方々に支えていただいてはじめてできたものです.特に,A・Dさん,O・Yさん,S・Aさん,N・Mさん,また同じ研究室の方々とY先生,A先生,そしてぼくの家族には,多くを支えていただきました.ここに謝意を表します.
kero
なのでSoTuRoNⅢ③のおわりにあった引用・参考文献一覧は、こっちにのせています。
後ろについてる謝辞は、提出稿にはないものなので、ここにあるのは私家版みたいな感じです。
+++
Ⅵ.おわりに
本稿では「はじめに」で述べた,「システムの肯定性と惰性化」の問題を,ホームレスとその排除の構造の分析によって掘りさげ,システムに関わる主体性の位置,あるいはありようを分析し,「実践主体/主体性の位置」をあらわしてきた.
またその過程で,簡単にではあるが,普遍主義への批判を行い「制度の拘束性」が,システムの肯定性からどのように構成されるかを分析してきた.
本論の主張は2つある.第一に「期待」と「確証」とは違うものであるということ.そしてわたしたちの主体性とは,どのようなコード的確証,あるいは確証的コードによる保障も無効となる空間での,わたしたち自身の体験において生きられるもののありようである,ということである.
ここから述べられることはいくつかある.まず,どのようなコード,どのようなシステムでも,主体性の位置を「確証的」に設定し,そのコード/システムの内部で作動させるようなものがあれば,そこにはおそらく期待と確証との混同から起きる,主体性の隠蔽,あるいは主体性を隠蔽している「ということの隠蔽」が起きている可能性が高い,ということだ.
仮にそのようにして,判断基準がコード/システムの側にあるとするのならば,そこに残存するのは,生きる場や,あるいはそこでの体験を失った「かつて生きていた主体」と,形骸化し教条化した,あるいは硬直したコード/システムだけになってしまうといえる.
そしてこのようなことは,コード/システムが,どれほど肯定的であれ,利益的であってもおきうることである.それは場面が福祉であるにせよ,教育や経済であるにせよ,あるいは個人におけるレベルにせよおきうることだといえる.
もちろん,普遍主義や,他の福祉的,あるいは利益的な方法が,わたしたちが生きているある種の複雑さのなかで,有効であり,場合によっては有益であることに異論はないが,そこに「期待と確証の取り違え」が起き,そして惰性化するならば,そこには隠蔽によって窒息した主体の主体性と,硬直して死んだシステムだけが残ることとなる.それは取り違えを含むため,少なくとも論理として誤りであるし,おそらく主体にかかわる方法論としても誤ったものといい得るだろう.
このことは,福祉実践の場全体にいえることであるし,広くは法,経済,教育にも,さらに広く取れば,論理や科学や理性に対する確証的な信仰や態度に対してもいえることである.
そしてまた,言語や貨幣といった「有用」ともいわれる「コード」の扱いというのが,なんらかの隠蔽を含むものだとしても,その隠蔽とコードとの関係を,生きたものとして触れるのも,硬直し死んだものとしてしまうのも,わたしたち自身のありようであるといえる.
そしておそらく,そこでの「適切な」判断というのは,けしてコードによって支持されるものでなく,わたしたち自身の生きた経済性によって判断/体験されていくものだといえる.言い換えれば,重要なのはその生きた体験のありようにおいて何事かが行われる/成されるということなのだ.
ここに関わる問題のなかで,本稿では触れられなかったこともいくつかある.特に,先にあげたような「言語」や「貨幣」といったコードの問題,また生きられる場での他者とのつながりや暴力や変容の問題,わたしたちの生における死や遊びの問題などは,今後の課題だと考える.
引用・参考文献一覧
大藪寿一(1973)「都市の解体地域」大橋薫・大藪寿一編『都市病理学』有斐閣双書.
後藤新治(2001)「ユートピアの図像学」井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』九州大学出版会.
作場知生(1988)『天国への自動階段』新樹社.
西澤晃彦(2005a)「排除による貧困」岩田正美・西澤晃彦編『貧困と社会的排除』ミネルヴァ書房,46-47.
西澤晃彦(2005b)「檻のない牢獄」岩田正美・西澤晃彦編『貧困と社会的排除』ミネルヴァ書房,263-277.
濱野一郎・遠藤興一編(1998)『社会福祉の原理と思想』岩崎学術出版社,ⅰ-ⅱ.
福田孝雄他(2006)『社会保障とその周辺』中央法規出版,3.
原昌平(2004)「市民意識とマスコミ」日本住宅会議編『ホームレスと住まいの権利』,248-250.
森泰男(2001)「エウトピアからユートピアへ」井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』九州大学出版会.
謝辞
本稿は,ぼく一人の力ではなく,周囲の方々に支えていただいてはじめてできたものです.特に,A・Dさん,O・Yさん,S・Aさん,N・Mさん,また同じ研究室の方々とY先生,A先生,そしてぼくの家族には,多くを支えていただきました.ここに謝意を表します.
kero
2008年12月25日木曜日
分業④(段ボールベッド。その2)
梱包シートが届きました。42mあるんだって。ながーい(゜д゜;)
で、これはさっきの段ボールをまとめてテープでとめたもの。これをさらにまとめると・・・
こんなのができました。補強に上に段ボールをしいて、麻紐でぐっとしばってあります。
これを並べておいて・・・
うえに段ボールの板をしくとこうなったよ☆
で、これが梱包シートをきったものです。グシャグシャである。
これを段ボールベッドのうえにしいてみた。おお、なんだかベッドみたいじゃないかww
そしてフトンをしいてみた!すでに乱れているのは試しに寝てみたからです。寝てみると・・・かなり寝心地いいかもー☆★☆高さはあるけど怖くなく、下は程よくやわらかく、カラダが沈みこむけど沈みすぎないで温かく受け止められる感じ。
これなら今年の冬はこせそうです。うれしい(゜∀゜+)
しばらくカスタマイズしながら運用してみようと思っています。
自作のいいとこの一つは、やっぱり好きにカスタマイズできるとこだよねー。ベッドみたいに大きいものでも、パーツは小さいので、横に広げてセミダブルとかダブルもつくれます。ダブルとかにしたら部屋がうまるけどw
あとベッドマットを梱包シートでつくったので、厚さも好きにかえられる!寝心地も自由自在です。軽量だから移動もカンタンだし☆
自分でいうとアホみたいだがこれはすげー。全部分かってるので、壊れても不満があってもすぐカスタマイズできてしまう。
しばらくしたら、二号機もつくるつもりですw
分業③(段ボールベッド。その1)
俺の部屋はとっても寒くて、今の寝具と暖房具ではとてもマトモに眠れる状況ではないので、ベッドを自作することにしました。段ボールベッドです☆
まずこんな段ボール(左)を大量に購入。それをテープで止めて、右のハコ型にします。左の段ボールの上にのってるのは、大きさ比較のための箸。
これを組み合わせて、セルがいっぱいあってあったかいベッドを作ろうというハラですww
これが作業中の部屋。完全に段ボールに埋められています。
段ボールの山にアイルランド土産の十字架を置いてみました。なんだか廃墟のような雰囲気に・・・。
予定としては、
[ ふとん ]
[梱包シート(プチプチシート)]
[ 段ボールの板 ]
[ 段ボールのハコ ]
みたいな基本構造にしようと思っています。あとはいちばん下に角材を組んだものを入れたり、梱包シートまでの部分をいい雰囲気の布で覆ったりできたらいいなー、と。
自分でものを作るのはおもしろいです。素材から買ってきてるから、素材の感じも構造も自分で分かってるので、すごく実感があります。ちなみに同居人と一緒に作っています。たのしい工作の時間であるよ☆
まずこんな段ボール(左)を大量に購入。それをテープで止めて、右のハコ型にします。左の段ボールの上にのってるのは、大きさ比較のための箸。これを組み合わせて、セルがいっぱいあってあったかいベッドを作ろうというハラですww
これが作業中の部屋。完全に段ボールに埋められています。
段ボールの山にアイルランド土産の十字架を置いてみました。なんだか廃墟のような雰囲気に・・・。予定としては、
[ ふとん ]
[梱包シート(プチプチシート)]
[ 段ボールの板 ]
[ 段ボールのハコ ]
みたいな基本構造にしようと思っています。あとはいちばん下に角材を組んだものを入れたり、梱包シートまでの部分をいい雰囲気の布で覆ったりできたらいいなー、と。
自分でものを作るのはおもしろいです。素材から買ってきてるから、素材の感じも構造も自分で分かってるので、すごく実感があります。ちなみに同居人と一緒に作っています。たのしい工作の時間であるよ☆
分業①(「内陸」の経済)

先日、集中授業でスロバキアのことをきいてきた。
スロバキアは中欧の国で、国土は日本の8分の1くらいの、山がちの内陸国家。チェコスロバキアから分離独立して、いまの国家形態になったらしい。
航空写真なんかだと、目立つのは国営工場と、平野と、街と古城だった。街は石造りで、中欧とか東欧っぽいちょっとかわいらしくて陰鬱な感じ。
授業はとちゅうで抜けだしたけど、思ったとこがある話では、教育産業の給料は平均より低くて、金融仲介業の給料は平均より高い、というのがあった。あと政府は人口がふえたらうれしいな的なことを考えているとか。
スロバキアのことはそこまで詳しくないので、こっからはだいぶ推測が入るけど、金融業が有利だっていうのはなんだか中欧のイメージとしてある気がする。古い質屋や人形屋みたいなのが街なかにある印象。
で、もし仮に「金融業>農業とか牧畜」という風になるなら、それは食料とか(いわゆる)資源を、外国に頼っていることになる。それ自体はどうでもいいんだけど、ここで「貨幣」と「食料」が等価値になる、と思うようになるなら、それってフシギな気がする。
「貨幣」は、どれだけ情報化が進んだところで、「食料」とか「生活必需品」の流通形態においての、一時的な価値しかもたない。それは取引における認証札であって、取引から離れたらただの金属片や紙片だ。
だから本質的に価値があるのは、食料や生活必需品であって、貨幣ではない。そして食料や生活必需品の「製造」には、おおむね収奪の暴力がかかわっている。そして貨幣が機能するのは、その収奪-製造が「流通ライン」にのり始めたときだとするなら、貨幣の価値は暴力に基づけられている。いってみりゃ貨幣そのものに価値はまるっきりない。
で、収奪の暴力が「自分の手で」できなくなったらダメじゃん、と思ったのです。いくら貨幣をもっていても、自分で収奪できないんだったら、その貨幣の価値は外部で「収奪を行えるもの」によって決定されることになる。それっていいなりだってことだ。
で、いいなりになる、ってことは「外部が規範になってる」ってことだし、外部のお伺いをたてないと動けないってなることだ。それはつまり、生活が「貨幣」に隷属したから起きることだと思う。生活が貨幣に隷属し、貨幣が外部の収奪によって価値づけられる=外部が規範になってる=外部に隷属してるなら、生活が外部に隷属してることになる。それってすごくアホらしい。
金融業がどれだけ発達しても構わないんだろうけど、その裏でどういう風にすれば自分が餌とれるか分かってないなら、それは金融への隷属だし外部への隷属になる。でも外部って、隷属の対象じゃなく倫理の対象でないのか、と俺は思います。そして倫理的関係ってのは力関係だし、そこに話をもってきたいのなら、自分で収奪できる方法なりネットワークなり分かってないとな、と思ったりしました。
2008年12月20日土曜日
無題(SoTuRoNⅤ)
ここは不況や倫理では動いてないし、どっちかいうと暴力と腕前でうごいてる。ラディカルなだけなのはつまらないけど、そういうとこで遊べるようになろうと思う。
俺の身体は倫理(*)に我慢して、ずいぶん乾いてしまったけど、パシッと遊べれば水気をもつと思う。はじめは下手でいいし、横暴でもいい。ちょっとずつやってく。ポコアポコってやつですw
*:結局、絵本的世界観のすべてが間違っていたのだと思う。自分本位さを廃棄して捧げる「全体性」は絵空事でしかないし、コード幻想みたいなものだ。それはスポイルだと思う
俺の身体は倫理(*)に我慢して、ずいぶん乾いてしまったけど、パシッと遊べれば水気をもつと思う。はじめは下手でいいし、横暴でもいい。ちょっとずつやってく。ポコアポコってやつですw
*:結局、絵本的世界観のすべてが間違っていたのだと思う。自分本位さを廃棄して捧げる「全体性」は絵空事でしかないし、コード幻想みたいなものだ。それはスポイルだと思う
2008年12月19日金曜日
SoTuRoNⅣ
かきおわって、変わったスタンスっていうのは、たぶんもう庇護がある場所からでた、ということだと思う。
だから餌は自分でとらなきゃいけない。餌をとることは収穫や収奪や簒奪だし、それは経済のベースにあることだ。どれだけ分業化や大量生産化がすすんでも、これは同じなんだろうと思う。
そして収穫や収奪や簒奪が暴力的でも、暴力的=残酷じゃない。残酷なのは、ただ失わせるだけのスポイルだ。暴力的なことを怖れていたら何もできない。それはとても当然で普通のことだから。餌とれるようになろうっと。庇護なしで、いろいろ渡り合える方法をストックしないと。
+++
そして「システム内部」での「新しさ」ってのは、システムの庇護がなくなった場面に着いたときの感触だと思う。そこでものは支えがなくても変わるように変るし、変わることを支える庇護は消滅している。
だから庇護がない場所は、ホントにそこにいるならずっと新しさを含んでいる。そこでなにができるか。
たぶん騙まし討ちとか休眠とか罠とかポジティブさとか接続とかは、そういうレベルではじめて機能する。
社会的な方法も、礼儀や儀式ではなく、そういうとこで生き延びる技術だ。
だから俺は敬語も覚えるし、関与の仕方みたいなのもよくしたいし、交渉で収奪できるようになります☆
そして重要なのは、資産を蓄えることに隷属することじゃない(それは生きた場所を「死んだ貨幣」に隷属させることだ)。ピンポイントで重要なのはその場所でどんな感覚が生じ、どんな感覚が通るか、ということだと思う。ピンポイントだけになるのは馬鹿げてるけれど。
具体的になにをしたいのかは分からないし、それは必要ないことだ。そしてどういうことをしたいのかは感覚で分かってる。とりあえず犬とか豚とバトルして収奪できるようになりたいです。餌getしてくぜ☆
だから餌は自分でとらなきゃいけない。餌をとることは収穫や収奪や簒奪だし、それは経済のベースにあることだ。どれだけ分業化や大量生産化がすすんでも、これは同じなんだろうと思う。
そして収穫や収奪や簒奪が暴力的でも、暴力的=残酷じゃない。残酷なのは、ただ失わせるだけのスポイルだ。暴力的なことを怖れていたら何もできない。それはとても当然で普通のことだから。餌とれるようになろうっと。庇護なしで、いろいろ渡り合える方法をストックしないと。
+++
そして「システム内部」での「新しさ」ってのは、システムの庇護がなくなった場面に着いたときの感触だと思う。そこでものは支えがなくても変わるように変るし、変わることを支える庇護は消滅している。
だから庇護がない場所は、ホントにそこにいるならずっと新しさを含んでいる。そこでなにができるか。
たぶん騙まし討ちとか休眠とか罠とかポジティブさとか接続とかは、そういうレベルではじめて機能する。
社会的な方法も、礼儀や儀式ではなく、そういうとこで生き延びる技術だ。
だから俺は敬語も覚えるし、関与の仕方みたいなのもよくしたいし、交渉で収奪できるようになります☆
そして重要なのは、資産を蓄えることに隷属することじゃない(それは生きた場所を「死んだ貨幣」に隷属させることだ)。ピンポイントで重要なのはその場所でどんな感覚が生じ、どんな感覚が通るか、ということだと思う。ピンポイントだけになるのは馬鹿げてるけれど。
具体的になにをしたいのかは分からないし、それは必要ないことだ。そしてどういうことをしたいのかは感覚で分かってる。とりあえず犬とか豚とバトルして収奪できるようになりたいです。餌getしてくぜ☆
SoTuRoNⅢ③
Ⅴ.空間と主体性
1.「取引」の空間-1
前章では「彼らは彼らの『コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる」と述べた.しかし隠蔽は,一種の減少や撤退に似ることから,それがデメリットあるいはネガティブなものとして捉えられてもおかしくはない.
そして,ここで生じていることは,「コードによって存立される主体性」と(隠蔽される)主体性という「属性」の「交換/取引」といえる.そしてそれが取引である以上,「コードによって存立される主体性」の方に,属性を幾分か変換することに,取引の際に隠蔽される主体性にい続けることよりもメリットがなければ,その「取引/属性変換」はまず成立しない.
また,「取引」ならば「取引相手」がどこかにいる,ということとなる.ならば,ここで行われて「取引」とは,「取引相手」とのメリット/デメリットとの「商談」的なものであるといえる.その「取引相手」とは,homeにおいては「コード群」であるし,福祉においては大枠で捉えた「国家」だともいえるだろう.以下では,上記の視点から,コードと主体性の取引の構造を分析する.
2.「取引」の空間-2
ここまで追ってきたことから「取引」における「メリット/デメリット」を捉えれば,コードによって存立される主体性の「メリット」とは,「コードによって構築される場での保護/存立」だといえる.それは野宿者の生が,「強烈な自己否定の感情が伴われがちである」(西澤 2005b:264)といわれることの反転像,すなわち「存立された『市民/国民』」としての「メリット」ともいえる.
そしてその「メリット/保護/存立」は,檻のない牢獄の条件を反転させた(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と重なり合う.そして(隠蔽される)主体性にとどまり続けることのデメリットがあるとすれば,それは一つには,その「メリット」が得られない,あるいは得られる見込みが低い,ということだといえる.
しかし疑問がある.上で(C)生を待つ空間,と述べたが,これは「死を待つ空間」の目的語を単純に反転しただけのものであり,対偶などをとったものではない.別の面から「死を待つ空間」という条件をひっくり返したのならば「死を待つ空間」は「死を待つだけではない空間」となる.
そして「生を待つ空間」と「死を待つだけではない空間」とでは,印象や状況が全く異なるといえる.また(1)排除の空間(2)自己否定の空間を,同様の面からひっくり返せば,それぞれ「排除だけではない空間」「自己否定だけではない空間」となる.
これらを並べてみれば,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間,となる.
そしてコードによって存立された主体性がある空間が,前者となるのと後者となるのとでは,決定的に異なるものがある.それは先に述べた「取引」におけるメリット/デメリットの判断や,「取引」の確実性である.そして「取引」の確実性に違いがあるいうことは「取引相手」の確実性にも違いがある可能性がある.以下では,「取引」や「取引相手」の確実性を確認しながら,その違いをみていく.
3.期待と確証-1
ここで,前者の「(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間」をカテゴリA,後者の「(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間」をカテゴリBとして考察する.
カテゴリAでは(3)生を待つ空間,というのが最もその特徴を表しているといえる.そして「生を待つ」を,「生が与えられるのを待つ」と言い換えることが可能ならば,そこには属性変換と引き換えに,「生」を与える取引相手がいることとなる.
ならばカテゴリAの空間では,そこで,その取引相手が「生」を与える程度に、その取引は成立する,ということとなる.例えばこれをhomeに重ねれば,そこではコードによって「市民/国民」として存立させられることが,「取引」の成立だといえる.
一方,カテゴリBでは「与えられる」ような傾向が希薄である.(3)死を待つだけではない空間,というならば,それは自身の行為や選択肢や,その結果があるだけで,これといった贈与があるとは言いづらい.そこは「生」が与えられるかどうか分からない,という意味で「生が与えられる,とはいいづらい」空間だといえる.
ならば,カテゴリAとBにおいて,メリット/デメリットの判断は変化しうるといえる.また,それをうける取引の内容もまた変わってくるといえる.
主体は,カテゴリAにおいては,主体性を隠蔽し,コード内部に「入り」さえすれば「生」は与えられる.これはメリットあるいは肯定性といえる.しかしカテゴリBではこれといった贈与の保障はない.ゆえに,そこで「コードに入る」ことにおけるメリットあるいは肯定性は,明確には存在しない,あるいはコードの側からは保障されていない.
言い換えれば,カテゴリBでは何らかのメリットを保障する「判断基準」はコードの側には存在せず,コードに入ることのメリット/デメリットを判断するのは,コードの確証ではなく,主体の経済性においてとなる.
これをすこし詳しく述べれば,カテゴリBでは保証が曖昧であるか欠落している,つまり保障や肯定性やメリットを確証的に語れない空間では,メリットを基盤にした「妥当性」は生じづらいか,または生じるとはいえない.
ならば,カテゴリBでは,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだ.
ならばメリット/デメリットの妥当性は,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,ということだといえる.それはhomeにおいては「コード」の基準ではなく,また福祉においては「国家」の基準ではなく,主体の経済性において判断しなくてはならなくなる,ということだ.
では次に,「取引相手」に関することを考察する.カテゴリAにおいては「取引相手」は,コードに入りさえすれば,「生」を与えるものとされている.言い換えれば,ここでは属性変換という「コードへの身売り」あるいは「自身の商品化」ということに対して,コードの側から対価が適切に払われるということにされている,といえる.
そして,「されている」ということを言い換えれば,想定/構想されている,といえる.つまり「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想している側がいる,ということだ.
そして想定されるのが「取引」の「相手」であるならば,「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想しているのは,「取引相手」が「取引」をする相手,すなわち主体の側だといえる.
ここで疑問がある.カテゴリAの場合,「コード内部に入れば『生』が確証的に得られる」となっているわけだが,その「『生』が確証的に得られる」ことの確証というのは,どこにある/基盤付けられているのだろうか.
第一に,それは「取引相手」によってではない.「取引相手」が述べるのは「コード内部に入れば『生』が確証的に与えられる」ということだけであって,「取引相手」のメッセージを確証付けるものはそこには特にない.
だとすると,そのメッセージを確証付けるものがあるとすれば,それは主体の側の行為である,ということとなる.では「メッセージを確証付ける行為」を確証付けるものや行為は主体のうちにあるのだろうか.そうではないといえる.
そこでは主体が想定/構想した「取引相手」のメッセージを,自己の経済性のうちで確証付けようとしている行為だけがあって,その「メッセージを確証付け様としている行為」を確証付けるものは特に他のどこにもない.
仮に,「取引相手」がとても堅牢に感じられる「だから」主体にとって「取引相手のメッセージ」は「確証がある」とするならば,それは論理的に誤りである.それはいわば「期待」であって「確証」ではないし,両者の混同は誤りである.ならば,カテゴリAでもカテゴリBと同様に,保障は曖昧であるか欠落しているといえる.
ならば,カテゴリAでも,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだといえる.
ならばカテゴリAでもカテゴリBと同様に,メリット/デメリットの妥当性は,「コードや『国家』」の側からではなく,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,といえる.
4.期待と確証-2
「期待と確証-1」で述べたことは重要だと思えるので,カテゴリAに関することを,すこし別の言い方で述べてみる.
先にカテゴリAに関して,「カテゴリAでは『生』を与える何ものかが構想/想定されているといえる」,また「カテゴリAの空間では,そこで,その何ものかの構想/想定が,実現しうる限りにおいて『生』が与えられる,ということとなる」,と述べた.
では,その構想/想定は,主体と無関係に行われているのだろうか.それは考えづらい.なぜならその構想/想定を「最終的に」受諾するのは主体の側といえるからだ.
言い換えれば,その構想/想定の受諾には,主体または主体の判断が関わっている.ならば,その構想/想定を「引き受ける側」として、それを受諾する主体のありようはある,といえる.
そして,その構想/想定が「引き受けられる」ものならば,そこには引き渡す側(=取引相手/コード/「国家」)が想定されうるといえる.そしてその想定は,確証性の問題に関係する.つまり,その想定されている「引き渡す側」による「引渡し」が行われるかどうかは,確証をとれることではない.
仮にそれの確証を,主体の側から基盤付けるとしたら,それはつまるところ「引き渡し」を行う側への信頼によって基盤付けられるものである.つまり主体がその確証性に関わるときに,なんらかの基盤付けがあるとしたら,そこには主体による構想/想定されたものへの「信頼の投影」があるといえる.
ならば主体は,自身の信頼を投影するというその行為のなかにおいて,「引き渡す側を『想定』するもの」になっているといえる.それはいわば期待の構造である.そして「期待」は「確証」ではない.そこに淡い確証のようなものが生じるとしたら,「投影された信頼が投げ返される」程度ではないだろうか.そして,その淡さを明確にし,保障し,基盤付けるものは,取り立ててあげられない.
例えば「自分が信頼を投影しているのだから,それは投げ返されるだろう」というものがあったとしても,それは自身の信頼への期待である.それは「期待」であり「確証」ではない.それゆえに「確証を基盤としたなんらかの保障」はその空間では,(「期待」と「確証」が異なる程度に)成立しない/しえない/していない.
ならば,カテゴリAは,なにかのコードを確証にしたり,なにかの確証をコードにしたりすることは無効な空間であるといえる.ならばそこでは,メリット/デメリットを判断する「領域」は,コードなどではなく,主体,あるいは主体の側の経済性に回ってこざるを得ない.これはカテゴリBと同一の構造あるいは条件である.
5.空間と主体性
ここまでのことから展開できることがある.それは,カテゴリの構成条件にどのようなものがあるとしても、おそらくこの期待と確証との構造は変形しない,ということだ.そこで判断を迫られるのは,主体,あるいは主体の領域の経済性であり,他のなにかではない.
そして繰り返すことになるが,その空間では,なんらかの「なにかのコードによる確証=コード的保障」や「なにかの確証によるコード=保障的コード」,つまり「なんらかの確証を基盤としたなんらかの保障」は,おそらく成立しない/しえない/していないし,そこで判断をなすのは主体の領域の経済性である.
ならば,主体あるいはわたしたちが生きているのはそのような空間だといえる.それは,確証や保障がおそらく成立しない/しえない/していない,という意味で,わたしたちの経済性に対し,拓かれ/開かれた空間,あるいはそれをひらいたままにするのもコードによって閉ざすのも,主体の経済領域において判断される空間だといえる.
そしてここまでの論から,2つの方法あるいは場が残されているのがわかる.1つめは,期待と確証の中間領域において,隠蔽と,隠蔽と引き換えとの「コードを含んだ存立」的行為のなかで試行錯誤をすることであり,その試行錯誤のなかで確証を欠きながらも,「システム」に対して「主体性」を立ち上げよう,というものである.そして2つめは,1つめのさらに基底領域,つまりその「試行錯誤」を立ち上げるレベルに位置する体験を生きることであり,試行錯誤のなかでの「欠けた確証」も欠いたかかわりの領域を生きることだといえる.
そしてここから展開できる「実践主体/主体性の位置」とは,なんらかのコードによって確証,保障,存立,支持/指示を受けることの撤廃された,上記の空間への,あるいは空間をなす諸々のものやことへの,わたしたち自身のありようであると捉えられる.それは,わたしたちの体験において生きられるものであって,なんらかのコードのたてた基準をベースに「知る/知られる」ものではないといえる.
1.「取引」の空間-1
前章では「彼らは彼らの『コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる」と述べた.しかし隠蔽は,一種の減少や撤退に似ることから,それがデメリットあるいはネガティブなものとして捉えられてもおかしくはない.
そして,ここで生じていることは,「コードによって存立される主体性」と(隠蔽される)主体性という「属性」の「交換/取引」といえる.そしてそれが取引である以上,「コードによって存立される主体性」の方に,属性を幾分か変換することに,取引の際に隠蔽される主体性にい続けることよりもメリットがなければ,その「取引/属性変換」はまず成立しない.
また,「取引」ならば「取引相手」がどこかにいる,ということとなる.ならば,ここで行われて「取引」とは,「取引相手」とのメリット/デメリットとの「商談」的なものであるといえる.その「取引相手」とは,homeにおいては「コード群」であるし,福祉においては大枠で捉えた「国家」だともいえるだろう.以下では,上記の視点から,コードと主体性の取引の構造を分析する.
2.「取引」の空間-2
ここまで追ってきたことから「取引」における「メリット/デメリット」を捉えれば,コードによって存立される主体性の「メリット」とは,「コードによって構築される場での保護/存立」だといえる.それは野宿者の生が,「強烈な自己否定の感情が伴われがちである」(西澤 2005b:264)といわれることの反転像,すなわち「存立された『市民/国民』」としての「メリット」ともいえる.
そしてその「メリット/保護/存立」は,檻のない牢獄の条件を反転させた(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と重なり合う.そして(隠蔽される)主体性にとどまり続けることのデメリットがあるとすれば,それは一つには,その「メリット」が得られない,あるいは得られる見込みが低い,ということだといえる.
しかし疑問がある.上で(C)生を待つ空間,と述べたが,これは「死を待つ空間」の目的語を単純に反転しただけのものであり,対偶などをとったものではない.別の面から「死を待つ空間」という条件をひっくり返したのならば「死を待つ空間」は「死を待つだけではない空間」となる.
そして「生を待つ空間」と「死を待つだけではない空間」とでは,印象や状況が全く異なるといえる.また(1)排除の空間(2)自己否定の空間を,同様の面からひっくり返せば,それぞれ「排除だけではない空間」「自己否定だけではない空間」となる.
これらを並べてみれば,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間,となる.
そしてコードによって存立された主体性がある空間が,前者となるのと後者となるのとでは,決定的に異なるものがある.それは先に述べた「取引」におけるメリット/デメリットの判断や,「取引」の確実性である.そして「取引」の確実性に違いがあるいうことは「取引相手」の確実性にも違いがある可能性がある.以下では,「取引」や「取引相手」の確実性を確認しながら,その違いをみていく.
3.期待と確証-1
ここで,前者の「(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間」をカテゴリA,後者の「(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間」をカテゴリBとして考察する.
カテゴリAでは(3)生を待つ空間,というのが最もその特徴を表しているといえる.そして「生を待つ」を,「生が与えられるのを待つ」と言い換えることが可能ならば,そこには属性変換と引き換えに,「生」を与える取引相手がいることとなる.
ならばカテゴリAの空間では,そこで,その取引相手が「生」を与える程度に、その取引は成立する,ということとなる.例えばこれをhomeに重ねれば,そこではコードによって「市民/国民」として存立させられることが,「取引」の成立だといえる.
一方,カテゴリBでは「与えられる」ような傾向が希薄である.(3)死を待つだけではない空間,というならば,それは自身の行為や選択肢や,その結果があるだけで,これといった贈与があるとは言いづらい.そこは「生」が与えられるかどうか分からない,という意味で「生が与えられる,とはいいづらい」空間だといえる.
ならば,カテゴリAとBにおいて,メリット/デメリットの判断は変化しうるといえる.また,それをうける取引の内容もまた変わってくるといえる.
主体は,カテゴリAにおいては,主体性を隠蔽し,コード内部に「入り」さえすれば「生」は与えられる.これはメリットあるいは肯定性といえる.しかしカテゴリBではこれといった贈与の保障はない.ゆえに,そこで「コードに入る」ことにおけるメリットあるいは肯定性は,明確には存在しない,あるいはコードの側からは保障されていない.
言い換えれば,カテゴリBでは何らかのメリットを保障する「判断基準」はコードの側には存在せず,コードに入ることのメリット/デメリットを判断するのは,コードの確証ではなく,主体の経済性においてとなる.
これをすこし詳しく述べれば,カテゴリBでは保証が曖昧であるか欠落している,つまり保障や肯定性やメリットを確証的に語れない空間では,メリットを基盤にした「妥当性」は生じづらいか,または生じるとはいえない.
ならば,カテゴリBでは,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだ.
ならばメリット/デメリットの妥当性は,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,ということだといえる.それはhomeにおいては「コード」の基準ではなく,また福祉においては「国家」の基準ではなく,主体の経済性において判断しなくてはならなくなる,ということだ.
では次に,「取引相手」に関することを考察する.カテゴリAにおいては「取引相手」は,コードに入りさえすれば,「生」を与えるものとされている.言い換えれば,ここでは属性変換という「コードへの身売り」あるいは「自身の商品化」ということに対して,コードの側から対価が適切に払われるということにされている,といえる.
そして,「されている」ということを言い換えれば,想定/構想されている,といえる.つまり「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想している側がいる,ということだ.
そして想定されるのが「取引」の「相手」であるならば,「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想しているのは,「取引相手」が「取引」をする相手,すなわち主体の側だといえる.
ここで疑問がある.カテゴリAの場合,「コード内部に入れば『生』が確証的に得られる」となっているわけだが,その「『生』が確証的に得られる」ことの確証というのは,どこにある/基盤付けられているのだろうか.
第一に,それは「取引相手」によってではない.「取引相手」が述べるのは「コード内部に入れば『生』が確証的に与えられる」ということだけであって,「取引相手」のメッセージを確証付けるものはそこには特にない.
だとすると,そのメッセージを確証付けるものがあるとすれば,それは主体の側の行為である,ということとなる.では「メッセージを確証付ける行為」を確証付けるものや行為は主体のうちにあるのだろうか.そうではないといえる.
そこでは主体が想定/構想した「取引相手」のメッセージを,自己の経済性のうちで確証付けようとしている行為だけがあって,その「メッセージを確証付け様としている行為」を確証付けるものは特に他のどこにもない.
仮に,「取引相手」がとても堅牢に感じられる「だから」主体にとって「取引相手のメッセージ」は「確証がある」とするならば,それは論理的に誤りである.それはいわば「期待」であって「確証」ではないし,両者の混同は誤りである.ならば,カテゴリAでもカテゴリBと同様に,保障は曖昧であるか欠落しているといえる.
ならば,カテゴリAでも,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだといえる.
ならばカテゴリAでもカテゴリBと同様に,メリット/デメリットの妥当性は,「コードや『国家』」の側からではなく,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,といえる.
4.期待と確証-2
「期待と確証-1」で述べたことは重要だと思えるので,カテゴリAに関することを,すこし別の言い方で述べてみる.
先にカテゴリAに関して,「カテゴリAでは『生』を与える何ものかが構想/想定されているといえる」,また「カテゴリAの空間では,そこで,その何ものかの構想/想定が,実現しうる限りにおいて『生』が与えられる,ということとなる」,と述べた.
では,その構想/想定は,主体と無関係に行われているのだろうか.それは考えづらい.なぜならその構想/想定を「最終的に」受諾するのは主体の側といえるからだ.
言い換えれば,その構想/想定の受諾には,主体または主体の判断が関わっている.ならば,その構想/想定を「引き受ける側」として、それを受諾する主体のありようはある,といえる.
そして,その構想/想定が「引き受けられる」ものならば,そこには引き渡す側(=取引相手/コード/「国家」)が想定されうるといえる.そしてその想定は,確証性の問題に関係する.つまり,その想定されている「引き渡す側」による「引渡し」が行われるかどうかは,確証をとれることではない.
仮にそれの確証を,主体の側から基盤付けるとしたら,それはつまるところ「引き渡し」を行う側への信頼によって基盤付けられるものである.つまり主体がその確証性に関わるときに,なんらかの基盤付けがあるとしたら,そこには主体による構想/想定されたものへの「信頼の投影」があるといえる.
ならば主体は,自身の信頼を投影するというその行為のなかにおいて,「引き渡す側を『想定』するもの」になっているといえる.それはいわば期待の構造である.そして「期待」は「確証」ではない.そこに淡い確証のようなものが生じるとしたら,「投影された信頼が投げ返される」程度ではないだろうか.そして,その淡さを明確にし,保障し,基盤付けるものは,取り立ててあげられない.
例えば「自分が信頼を投影しているのだから,それは投げ返されるだろう」というものがあったとしても,それは自身の信頼への期待である.それは「期待」であり「確証」ではない.それゆえに「確証を基盤としたなんらかの保障」はその空間では,(「期待」と「確証」が異なる程度に)成立しない/しえない/していない.
ならば,カテゴリAは,なにかのコードを確証にしたり,なにかの確証をコードにしたりすることは無効な空間であるといえる.ならばそこでは,メリット/デメリットを判断する「領域」は,コードなどではなく,主体,あるいは主体の側の経済性に回ってこざるを得ない.これはカテゴリBと同一の構造あるいは条件である.
5.空間と主体性
ここまでのことから展開できることがある.それは,カテゴリの構成条件にどのようなものがあるとしても、おそらくこの期待と確証との構造は変形しない,ということだ.そこで判断を迫られるのは,主体,あるいは主体の領域の経済性であり,他のなにかではない.
そして繰り返すことになるが,その空間では,なんらかの「なにかのコードによる確証=コード的保障」や「なにかの確証によるコード=保障的コード」,つまり「なんらかの確証を基盤としたなんらかの保障」は,おそらく成立しない/しえない/していないし,そこで判断をなすのは主体の領域の経済性である.
ならば,主体あるいはわたしたちが生きているのはそのような空間だといえる.それは,確証や保障がおそらく成立しない/しえない/していない,という意味で,わたしたちの経済性に対し,拓かれ/開かれた空間,あるいはそれをひらいたままにするのもコードによって閉ざすのも,主体の経済領域において判断される空間だといえる.
そしてここまでの論から,2つの方法あるいは場が残されているのがわかる.1つめは,期待と確証の中間領域において,隠蔽と,隠蔽と引き換えとの「コードを含んだ存立」的行為のなかで試行錯誤をすることであり,その試行錯誤のなかで確証を欠きながらも,「システム」に対して「主体性」を立ち上げよう,というものである.そして2つめは,1つめのさらに基底領域,つまりその「試行錯誤」を立ち上げるレベルに位置する体験を生きることであり,試行錯誤のなかでの「欠けた確証」も欠いたかかわりの領域を生きることだといえる.
そしてここから展開できる「実践主体/主体性の位置」とは,なんらかのコードによって確証,保障,存立,支持/指示を受けることの撤廃された,上記の空間への,あるいは空間をなす諸々のものやことへの,わたしたち自身のありようであると捉えられる.それは,わたしたちの体験において生きられるものであって,なんらかのコードのたてた基準をベースに「知る/知られる」ものではないといえる.
SoTuRoNⅢ②
Ⅲ.homeとコード
福田・佐藤は『社会保障とその周辺』で「社会制度審議会は,1995年の『社会保障体制の再構築に関する勧告』において,『社会保障の新しい理念とは,広く国民に健やかで安心できる生活を保障するものである』と述べ」(福田・佐藤 2006:3)た,と述べている.
その解説として,彼らは「ここで述べられていることは,社会保障とは,貧困層など、限られた一部の人だけを対象とするのではなく、社会を構成するすべての人をその対象ととらえていかなければならない[……]こうした考えは『普遍性』または『普遍主義』と呼ばれています」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.
彼らはまた普遍主義と並んで重要な理念に「権利性」をあげ(福田・佐藤 2006:3),その解説として「憲法25条は,国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有していると規定しています。[……]また,社会保障は,給付を通じて国民が国に心理的に依存するようなものであってはならず,権利としての給付を受けることを通じて,国民が自立心・自尊心を保持できるような制度であることが大切です」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.
すなわちここでは,普く行き渡る権利に基づき「国民」という主体は存立され,その自立心・自尊心は,権利をとおして保持される,ということが述べられている.こうした考えは肯定的/善意的に感じられるが,しかし疑問も残る.
ここで述べられていることを単純化すると「国民(という主体)←権利←憲法」と表せる.ここでは矢印の右側にくるものが、左側にくるものを支持/保持していることとなっている.この図に限っていえば,そこには憲法がもっとも基盤的なものとしてあり,主体を支えている.言い換えれば主体に憲法は先行し,先行した憲法でもって存立したものが「国民という主体」として認識される,ということとなる.
それならば,そこにはある主体性は憲法の主体性であり,「主体」といわれるものの主体性ではないと考えられる.ここでは「国民」なるものは「憲法」なるものに識別されたものとして,識別された限りでの主体性あるいは自主性を得る,という構図になっている.
そしてここでの「憲法」を,homeによる保障を識別/決定する,福祉における他の基準群と合わせて解釈するならば,先に述べたhomeの特徴,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,も幾分かは導きうる.
それはなんらかの基盤に基づく空間である,という意味で支持され保護された空間であり,支持された者としての自己を肯定できる空間であり,支持された者としての生を待つ空間といえる,ということだ.
そしてhome-lessが,その基盤による支持を失ったものと捉えられるのならば,西澤が述べた「檻のない牢獄は、自己否定の空間である。彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは,再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということも理解できる.その否定性とは,基盤の識別域からあぶれ,支持という肯定性を失ったがゆえの否定性といえる.
そして西澤が述べた「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47),「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(西澤 2005a:47),「治療が,国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(西澤 2005a:47)ということからいえば,この肯定性/否定性を識別する基盤とは,「『よき』国民」を識別するコード群である,ということとなる。そしてそこからあぶれることが否定的であるのは,あぶれたものは「よき国民」の反転としての「非国民」「治療に値しないもの」となる,という判断からだといえる.
そこではhome内部のものは識別枠からあぶれないよう「器用」に「勤勉」に行為し,そして「野宿者」はその識別枠からあぶれた「弱者」である自己を否定的に捉える.彼らにとっては参照枠としてのコードが,自己の肯定/否定の位置を決定するものとなっている.
言い換えれば彼らは,コードを「自己に先行し決定権のあるもの」と捉えているといえる.これは先にあげた「国民(という主体)←権利←憲法」の構図と重なり合う.そこではコードの基底的な部分に位置するものが,それが許容する限りでの「主体」を存立させ,支持/保持するものとなっている.
しかしこれは奇妙に思える.home内部のものもそうでないものも,「コードを『自己に先行し決定権のあるもの』と捉えている」のならば,そこにはどちらにも「コードを自己に先行する」という判断がある.その判断は主体的なものだと捉えうる,とはいえないのだろうか.
だが構図では「国民(という主体)←権利←憲法」となっていた.権利や憲法を「コード」とするなら,これは「主体←コード」と書き換えられる.「コードを自己に先行する」という判断があるならば,これは「主体←コード←コードの受諾という判断」となると考えられる.にも拘らず,homeの識別枠は「主体←コード」という形式で働いているようにみえる.次章では,排除と隠蔽というものを切り口に,そこにどういった機構/意識が働いているかの検討を行う.
Ⅳ.homeと隠蔽
1.共同体意識
西澤は,「G.アガンベンによれば,強制収容所の本質は殺戮にあるのではない.強制収容所は,『法が全面的に宙吊りに』なった,『例外状態が規範そのものとなる』空間である.そこは,法的秩序の外に置かれているが単に外部なのではなく,『自らの排除そのものを通じて包含されている』場所である.そうした例外空間に捕らわれた人々は,生殺与奪の権利を握られたまま主体性―個が想定し得る可能性・潜勢力としての生―を剥奪され,感情や尊厳を喪失した『剥き出しの生』へと還元されていく」(西澤 2005b:264-265)と述べている.
しかし,強制収容所の内部のものが「自らの排除そのものを通じて包含され」また「生殺与奪の権利を握られたまま主体性を剥奪され」ているのならば,それは広義の意味でのhome内部のものと重なり合う.すなわち,「home内部のもの」も「野宿者」も,「どちらにも『コードを自己に先行するものとする』という判断がある」のならば,それは共に,homeの参照枠を基準にし,自らを内部/外部のものとしている.
彼らは自らの判断に先行し,homeの参照枠を基準に自らのポジションを読み取っている,という意味で「自らの排除を通じて包含」されており,またhomeの参照枠を権利の前提とすることで「生殺与奪の権利を握られ」主体性を譲渡して/剥奪されているといえる.homeと強制収容所とがその内部のものに与えるものは異なるし,その違いは決定的な違いなのだとしても,その2つの構造は上記の点では同一であると捉えられる.
西澤は野宿者を形容して「野宿者も,非人間として放置された例外者である」と述べている(西澤 2005b:265)が,強制収容所内部のものも,広義の意味でのhome内部のものも,自らのポジションを決定する基準を,先行的に機能するhomeの識別域に剥奪されているという意味で,共に「基準から放置された例外者」である,といえる.言い換えれば,そこではhomeの識別域のみが「規範」として機能しており,そして規範が実体あるいは主体に先行している.
また西澤はT.シブタニの定義を引用し「社会的世界とは,行為の準拠枠になるものの見方を共有することによって結果として成立した人びとのまとまりのことを指す.そのまとまりにおける相互作用を通じて,人びとは共通のものの見方と行為のふさわしさを確認していく」(西澤 2005b:277)と述べている.
この文章をすこし組み替えれば,「共通のもののみかた」や「行為のふさわしさ」は,「行為の準拠枠になるもののの見方の共有」によってある程度規定される,ということであり,またその共有によって生じたまとまりが,社会的世界である,ということとなる.そして社会的世界が,ものの見方のある程度の共有によって成立している以上,それはそのものの見方を準拠枠にした準共同体的集団なのだといえる.
そしてここまで追ってきたように,その準拠枠は,home的な共同体においては「規範」として機能しており,それは実体あるいは主体に先行している.ならば、homeにおいて実体あるいは主体に先行しているのは,共同体意識である,と考えられる.
2.主体の選択
そういった「共同体を前提にする」ことよって成立しているのが,homeにおける主体の存立/保護だといえる.またそれを行為として反転させれば,システムによる「共同体を基盤としない主体」の否定/排斥/隠蔽や,「救済」措置によってそれらを共同体内部の「主体」への書き換ることだいえる.
しかし,そこで共同体意識が先行している,あるいは「共同体が前提にされる」ということは,そこに共同体意識を自身に先行/優先することを選択しているものがいるということだ.ならば「共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽」という操作を行っているのは,共同体意識を自身に先行/優先させているものの判断である,と考えられる.
そして広義のhomeの内部のもの,すなわち「市民」も「野宿者」も自ら,彼らを存立させるためになんらかの識別域を,自己の判断に先行/優先し,自己を存立させるための準拠枠としているのならば,共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽を行っているのは,当の彼ら自身の行為/営為であるといえる.
いわば,彼らは彼らの「コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる.この隠蔽と先行の問題を,次章ではメリット/デメリットと,「取引」という視点から分析していく.
福田・佐藤は『社会保障とその周辺』で「社会制度審議会は,1995年の『社会保障体制の再構築に関する勧告』において,『社会保障の新しい理念とは,広く国民に健やかで安心できる生活を保障するものである』と述べ」(福田・佐藤 2006:3)た,と述べている.
その解説として,彼らは「ここで述べられていることは,社会保障とは,貧困層など、限られた一部の人だけを対象とするのではなく、社会を構成するすべての人をその対象ととらえていかなければならない[……]こうした考えは『普遍性』または『普遍主義』と呼ばれています」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.
彼らはまた普遍主義と並んで重要な理念に「権利性」をあげ(福田・佐藤 2006:3),その解説として「憲法25条は,国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有していると規定しています。[……]また,社会保障は,給付を通じて国民が国に心理的に依存するようなものであってはならず,権利としての給付を受けることを通じて,国民が自立心・自尊心を保持できるような制度であることが大切です」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.
すなわちここでは,普く行き渡る権利に基づき「国民」という主体は存立され,その自立心・自尊心は,権利をとおして保持される,ということが述べられている.こうした考えは肯定的/善意的に感じられるが,しかし疑問も残る.
ここで述べられていることを単純化すると「国民(という主体)←権利←憲法」と表せる.ここでは矢印の右側にくるものが、左側にくるものを支持/保持していることとなっている.この図に限っていえば,そこには憲法がもっとも基盤的なものとしてあり,主体を支えている.言い換えれば主体に憲法は先行し,先行した憲法でもって存立したものが「国民という主体」として認識される,ということとなる.
それならば,そこにはある主体性は憲法の主体性であり,「主体」といわれるものの主体性ではないと考えられる.ここでは「国民」なるものは「憲法」なるものに識別されたものとして,識別された限りでの主体性あるいは自主性を得る,という構図になっている.
そしてここでの「憲法」を,homeによる保障を識別/決定する,福祉における他の基準群と合わせて解釈するならば,先に述べたhomeの特徴,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,も幾分かは導きうる.
それはなんらかの基盤に基づく空間である,という意味で支持され保護された空間であり,支持された者としての自己を肯定できる空間であり,支持された者としての生を待つ空間といえる,ということだ.
そしてhome-lessが,その基盤による支持を失ったものと捉えられるのならば,西澤が述べた「檻のない牢獄は、自己否定の空間である。彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは,再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということも理解できる.その否定性とは,基盤の識別域からあぶれ,支持という肯定性を失ったがゆえの否定性といえる.
そして西澤が述べた「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47),「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(西澤 2005a:47),「治療が,国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(西澤 2005a:47)ということからいえば,この肯定性/否定性を識別する基盤とは,「『よき』国民」を識別するコード群である,ということとなる。そしてそこからあぶれることが否定的であるのは,あぶれたものは「よき国民」の反転としての「非国民」「治療に値しないもの」となる,という判断からだといえる.
そこではhome内部のものは識別枠からあぶれないよう「器用」に「勤勉」に行為し,そして「野宿者」はその識別枠からあぶれた「弱者」である自己を否定的に捉える.彼らにとっては参照枠としてのコードが,自己の肯定/否定の位置を決定するものとなっている.
言い換えれば彼らは,コードを「自己に先行し決定権のあるもの」と捉えているといえる.これは先にあげた「国民(という主体)←権利←憲法」の構図と重なり合う.そこではコードの基底的な部分に位置するものが,それが許容する限りでの「主体」を存立させ,支持/保持するものとなっている.
しかしこれは奇妙に思える.home内部のものもそうでないものも,「コードを『自己に先行し決定権のあるもの』と捉えている」のならば,そこにはどちらにも「コードを自己に先行する」という判断がある.その判断は主体的なものだと捉えうる,とはいえないのだろうか.
だが構図では「国民(という主体)←権利←憲法」となっていた.権利や憲法を「コード」とするなら,これは「主体←コード」と書き換えられる.「コードを自己に先行する」という判断があるならば,これは「主体←コード←コードの受諾という判断」となると考えられる.にも拘らず,homeの識別枠は「主体←コード」という形式で働いているようにみえる.次章では,排除と隠蔽というものを切り口に,そこにどういった機構/意識が働いているかの検討を行う.
Ⅳ.homeと隠蔽
1.共同体意識
西澤は,「G.アガンベンによれば,強制収容所の本質は殺戮にあるのではない.強制収容所は,『法が全面的に宙吊りに』なった,『例外状態が規範そのものとなる』空間である.そこは,法的秩序の外に置かれているが単に外部なのではなく,『自らの排除そのものを通じて包含されている』場所である.そうした例外空間に捕らわれた人々は,生殺与奪の権利を握られたまま主体性―個が想定し得る可能性・潜勢力としての生―を剥奪され,感情や尊厳を喪失した『剥き出しの生』へと還元されていく」(西澤 2005b:264-265)と述べている.
しかし,強制収容所の内部のものが「自らの排除そのものを通じて包含され」また「生殺与奪の権利を握られたまま主体性を剥奪され」ているのならば,それは広義の意味でのhome内部のものと重なり合う.すなわち,「home内部のもの」も「野宿者」も,「どちらにも『コードを自己に先行するものとする』という判断がある」のならば,それは共に,homeの参照枠を基準にし,自らを内部/外部のものとしている.
彼らは自らの判断に先行し,homeの参照枠を基準に自らのポジションを読み取っている,という意味で「自らの排除を通じて包含」されており,またhomeの参照枠を権利の前提とすることで「生殺与奪の権利を握られ」主体性を譲渡して/剥奪されているといえる.homeと強制収容所とがその内部のものに与えるものは異なるし,その違いは決定的な違いなのだとしても,その2つの構造は上記の点では同一であると捉えられる.
西澤は野宿者を形容して「野宿者も,非人間として放置された例外者である」と述べている(西澤 2005b:265)が,強制収容所内部のものも,広義の意味でのhome内部のものも,自らのポジションを決定する基準を,先行的に機能するhomeの識別域に剥奪されているという意味で,共に「基準から放置された例外者」である,といえる.言い換えれば,そこではhomeの識別域のみが「規範」として機能しており,そして規範が実体あるいは主体に先行している.
また西澤はT.シブタニの定義を引用し「社会的世界とは,行為の準拠枠になるものの見方を共有することによって結果として成立した人びとのまとまりのことを指す.そのまとまりにおける相互作用を通じて,人びとは共通のものの見方と行為のふさわしさを確認していく」(西澤 2005b:277)と述べている.
この文章をすこし組み替えれば,「共通のもののみかた」や「行為のふさわしさ」は,「行為の準拠枠になるもののの見方の共有」によってある程度規定される,ということであり,またその共有によって生じたまとまりが,社会的世界である,ということとなる.そして社会的世界が,ものの見方のある程度の共有によって成立している以上,それはそのものの見方を準拠枠にした準共同体的集団なのだといえる.
そしてここまで追ってきたように,その準拠枠は,home的な共同体においては「規範」として機能しており,それは実体あるいは主体に先行している.ならば、homeにおいて実体あるいは主体に先行しているのは,共同体意識である,と考えられる.
2.主体の選択
そういった「共同体を前提にする」ことよって成立しているのが,homeにおける主体の存立/保護だといえる.またそれを行為として反転させれば,システムによる「共同体を基盤としない主体」の否定/排斥/隠蔽や,「救済」措置によってそれらを共同体内部の「主体」への書き換ることだいえる.
しかし,そこで共同体意識が先行している,あるいは「共同体が前提にされる」ということは,そこに共同体意識を自身に先行/優先することを選択しているものがいるということだ.ならば「共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽」という操作を行っているのは,共同体意識を自身に先行/優先させているものの判断である,と考えられる.
そして広義のhomeの内部のもの,すなわち「市民」も「野宿者」も自ら,彼らを存立させるためになんらかの識別域を,自己の判断に先行/優先し,自己を存立させるための準拠枠としているのならば,共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽を行っているのは,当の彼ら自身の行為/営為であるといえる.
いわば,彼らは彼らの「コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる.この隠蔽と先行の問題を,次章ではメリット/デメリットと,「取引」という視点から分析していく.
SoTuRoNⅢ①
ここにのっけるのが卒論本文です。書き終わったの自分で見返してみて、内部での討論まで手が回らなかったのがアレだったり、もっとパシッとさせたかったな、ってのはありましたが、その時やることはやったと感じます。長いので、三部構成でのっけます。
+++
「福祉実践における“home/home-less”に関する主体性の位置の考察」
Ⅰ.はじめに
1.背景-1(世界と人間像について)
わたしたちがいるこの世界には,いくつかの,あるいは無数の人間像がある.それは社会的人間であったり,経済的人間であったり,理性的人間であったりする.そしてこれらは単独であるわけではなく,多くはそれをとりまく場において生じてきている.
つまりそれは,場とわたしたちの関係性のなかで,社会や経済や理性などと設定されたものを機能させようと作成されてきた,という側面をもつ.
古いものではギリシャの民主制(いくぶん限られた地域だが)を成立させていくなかでの「ギリシャ的人間」や,あるいは伝統的宗教の世界像を成り立たせるための「宗教的世界に位置づけられる人間」や,近代における工業や国家観の展開のなかでの人間像や,また現在の社会情勢のなかでの人間像も,そういった側面をもつと考えられる.
しかし疑問がある.そういった「なんらかの人間像」に見合うものが人間だとするのならば,それに見合わないものはそうではないのだろうか.仮にそうだとすると,そういった世界には「人間の像」があるだけで,実際に様々なかかわりを生き,その像に見合ったことも外れたこともするわたしたちは,とても虚ろにしかいないのではないだろうか.
例えば科学的言説,宗教的言説,経済的言説,教育や福祉のなかでの言説などにおける「人間像」に当て嵌まらないからといって,それが「人間でない」というならば,わたしたちのありようは言説の内部にしかないこととなる.
このようなことは奇妙だといっていい.そしてそのようになるならば,一体どこで,わたしたちを欠いた「人間の像」ができたのかということ,そして虚ろになってしまった部分はどうなっているのか/どうなってしまったのか,ということが,ここで問題とするものである.本稿は,その「人間像の設定」のなかで虚ろになってしまうものと,その周辺の構造を,国家と福祉をテーマに,主体と主体性,そして隠蔽と排除の視点から扱うものである.
2.背景-2(場面と方法)
西澤は『貧困と社会的排除』のなかで,「国民化に伴う排除とそれによる貧困は,歴史的な出来事ではなく,今日的な権力現象の系譜の中に位置づけうるものである.その後、国民国家は,経済的な条件を得て福祉国家化し,『福祉国家の危機』はいわれるものの今日に至っている.」(西澤 2005a:46)と述べている.
西澤はまた,国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化している(西澤 2005a:47).それから福祉を捉えれば,福祉が国民国家,すなわち「国民」をその構成員として成立する「国家」の機能の一部として行われる限りにおいて,それはそのシステムにおけるまた治療,隠蔽,抹殺の問題と,それへの対応やかかわりを総称した問題群の一部だといえる.しかしそれは単なる排除的な機構として働くものではなく,憲法第25条の「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などのように,肯定的な側面を持っている.
しかし,濱野らが「制度は一面では,意識的,あるいは無意識的な人間同士の約束事から成り立っていて,秩序化の働きをもつ有用なものであるが,他面でそれは,惰性化することによって人間を拘束するというパラドックスを含んでいる」(濱野 1998:ⅱ)と述べるように,惰性化したシステムは,それが肯定的な側面をもっていたとしても「拘束」につながる傾向があり得る.それは一面では,西澤が述べた,治療,隠蔽,抹殺の問題群と重なり合う.
このシステムの肯定性と惰性化にかかわるもののありようを,濱野らは「『保護』と『飼い殺し』の差異は,単に処遇上の問題ではなく,実践主体の態度,さらには心の在り様に関わってくる問題だということがわかる。」(濱野 1998:ⅰ)と述べている.
本稿は,ここでいう「実践主体」を,仮に「『システムの惰性化』によって『拘束』されるもの」と定義し,その主体性が,どのような領域において成立する/しうるのだろうか,ということを分析していくものである.そのために,システムの肯定性と惰性化の問題や,システムにかかわる排除や隠蔽の問題を,システムによる排除の対象としてみられうる,現代のホームレスと,それへの視線に対する分析を切り口にして追っていく.
Ⅱ.ホームレス(home-less)とhome
1.ホームレスへの意識
西澤(2005b:263)は,野宿者によって生きられる空間の特質を,「檻のない牢獄」という言葉で言い表している.彼によればその牢獄は(1)排除の空間,(2)自己否定の空間,(3)死を待つ空間の3つの特徴をもつとされている(西澤 2005b:263).
西澤はここでの(2)に関して「檻のない牢獄は、自己否定の空間である.彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは、再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)と述べている.これを反転すれば,ここには「組織社会・定住社会」の空間内にいる自己が肯定できる/あるべき姿として描かれているのが分かる.
また原(2004:248)は『ホームレスと住まいの権利』で,野宿者のイメージに対して市民に調査をかけている.そこでの結果は以下のようなものである.
①弱者=不健康、孤独、みじめ、かわいそう、しんどそう
②怠け者=怠け者、無気力、自業自得
③邪魔者=うっとうしい、じゃま(+汚い?)
④恐怖=こわい、酔っ払い
⑤気楽=気楽、自由
⑥不器用=偏屈、不器用
これらは調査への回答を多い順に並べまとめたものとなっている.原はこのイメージ形成のおもな要因を「会話など直接の接触体験ではなく、野宿者の見た目の印象と、自分なりの推測が中心だと考えられる。マスコミをはじめ、さまざまな媒体を通じた情報の影響もあるだろう。」(原 2004:248)と述べている.
原はまた,「生活の実情や個人史の取材は足さえ運べばそう難しくない」(原 2004:250)と述べている.しかし,野宿者に対して一般の市民が積極的に「足を運んで」「直接の接触体験」を望むか,ということには疑問が残る.
西澤が「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47)と述べ,さらに「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(2005a:47),「治療が、国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(2005a:47)と述べているように,一般の市民にとって野宿者は「治療に値」せず「非国民的な存在」として識別されたものとなる.
そしてこれを反転させれば,一般の市民は自らを「治療に値」した「国民的」あるいは「非-非国民的」なもの,として捉えていることとなる.これは西澤が述べた「野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということ,またそこから読み取れる「組織社会・定住社会の空間内にいる自己が肯定・あるべき姿として描かれる」こととも重なる.
ならば「国民的あるいは非-非国民的」と自らを識別した「市民」が,「治療に値」せず「非国民として識別される」ような空間のものに対して積極的に関わるとは考えづらい.原の研究が,その識別-排除の機構に対して働きかけるものとして作成され「『足さえ運べば』そう難しくない」という表現がそこからくるものだとしても,問題は「(接触以前に)足を運ぶことの難しさ」にあるといえる.
2.識別枠について
識別の枠の内部が「肯定された」ものであり,外部が「否定的な」ものであるならば、肯定的な部分にとどまろうとするのは,論理的あるいは経済的な判断である.これを覆す要因が他にない限り,枠の内部にいるものが枠をこえ「否定的な」ものとの接触をするのは避けよう,と考えるのは妥当であるといえる.
ここでは野宿者とは文字通り「home-less」,つまり識別された枠の内部から見捨てられ,枠という「home」を失ったものとして認識されている.
ここで西澤がだした「檻のない牢獄」の特徴(1)排除の空間,(2)自己否定の空間,(3)死を待つ空間,を反転させれば,homeの特徴は(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,といえる.そしてhome-lessとは,この特徴が失われた状態だと考えうる.
そしてここから,原の調査結果による「市民」からの野宿者へのイメージで,弱者,怠け者,恐怖,気楽,不器用などがあがってくるのも幾分かは導きうる.枠の外部にいるものはhomeから排除されたものであり,その排除の識別域にひっかかるのは上記の条件のうち一つまたは複数を満たしているから,ということである.
そして条件を単純に反転させるならば,枠の内部の「市民」のイメージは,強者,勤勉,安心,切迫,器用である,ということとなる.そして「市民」すなわち「homeの内部にいるもの」がそうであるなら,home-lessへの意識は,勤勉で器用でないために,安心の「外部」に放逐された弱者,ということとなる.
しかしここには,もう一つ読み取らなければいけないことがある.外部者の気楽,あるいはその反転としての内部者の切迫,というのはどこから生じているかということだ.それには「home」というのがどのようなものかの分析が必要となる.
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「福祉実践における“home/home-less”に関する主体性の位置の考察」
Ⅰ.はじめに
1.背景-1(世界と人間像について)
わたしたちがいるこの世界には,いくつかの,あるいは無数の人間像がある.それは社会的人間であったり,経済的人間であったり,理性的人間であったりする.そしてこれらは単独であるわけではなく,多くはそれをとりまく場において生じてきている.
つまりそれは,場とわたしたちの関係性のなかで,社会や経済や理性などと設定されたものを機能させようと作成されてきた,という側面をもつ.
古いものではギリシャの民主制(いくぶん限られた地域だが)を成立させていくなかでの「ギリシャ的人間」や,あるいは伝統的宗教の世界像を成り立たせるための「宗教的世界に位置づけられる人間」や,近代における工業や国家観の展開のなかでの人間像や,また現在の社会情勢のなかでの人間像も,そういった側面をもつと考えられる.
しかし疑問がある.そういった「なんらかの人間像」に見合うものが人間だとするのならば,それに見合わないものはそうではないのだろうか.仮にそうだとすると,そういった世界には「人間の像」があるだけで,実際に様々なかかわりを生き,その像に見合ったことも外れたこともするわたしたちは,とても虚ろにしかいないのではないだろうか.
例えば科学的言説,宗教的言説,経済的言説,教育や福祉のなかでの言説などにおける「人間像」に当て嵌まらないからといって,それが「人間でない」というならば,わたしたちのありようは言説の内部にしかないこととなる.
このようなことは奇妙だといっていい.そしてそのようになるならば,一体どこで,わたしたちを欠いた「人間の像」ができたのかということ,そして虚ろになってしまった部分はどうなっているのか/どうなってしまったのか,ということが,ここで問題とするものである.本稿は,その「人間像の設定」のなかで虚ろになってしまうものと,その周辺の構造を,国家と福祉をテーマに,主体と主体性,そして隠蔽と排除の視点から扱うものである.
2.背景-2(場面と方法)
西澤は『貧困と社会的排除』のなかで,「国民化に伴う排除とそれによる貧困は,歴史的な出来事ではなく,今日的な権力現象の系譜の中に位置づけうるものである.その後、国民国家は,経済的な条件を得て福祉国家化し,『福祉国家の危機』はいわれるものの今日に至っている.」(西澤 2005a:46)と述べている.
西澤はまた,国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化している(西澤 2005a:47).それから福祉を捉えれば,福祉が国民国家,すなわち「国民」をその構成員として成立する「国家」の機能の一部として行われる限りにおいて,それはそのシステムにおけるまた治療,隠蔽,抹殺の問題と,それへの対応やかかわりを総称した問題群の一部だといえる.しかしそれは単なる排除的な機構として働くものではなく,憲法第25条の「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」などのように,肯定的な側面を持っている.
しかし,濱野らが「制度は一面では,意識的,あるいは無意識的な人間同士の約束事から成り立っていて,秩序化の働きをもつ有用なものであるが,他面でそれは,惰性化することによって人間を拘束するというパラドックスを含んでいる」(濱野 1998:ⅱ)と述べるように,惰性化したシステムは,それが肯定的な側面をもっていたとしても「拘束」につながる傾向があり得る.それは一面では,西澤が述べた,治療,隠蔽,抹殺の問題群と重なり合う.
このシステムの肯定性と惰性化にかかわるもののありようを,濱野らは「『保護』と『飼い殺し』の差異は,単に処遇上の問題ではなく,実践主体の態度,さらには心の在り様に関わってくる問題だということがわかる。」(濱野 1998:ⅰ)と述べている.
本稿は,ここでいう「実践主体」を,仮に「『システムの惰性化』によって『拘束』されるもの」と定義し,その主体性が,どのような領域において成立する/しうるのだろうか,ということを分析していくものである.そのために,システムの肯定性と惰性化の問題や,システムにかかわる排除や隠蔽の問題を,システムによる排除の対象としてみられうる,現代のホームレスと,それへの視線に対する分析を切り口にして追っていく.
Ⅱ.ホームレス(home-less)とhome
1.ホームレスへの意識
西澤(2005b:263)は,野宿者によって生きられる空間の特質を,「檻のない牢獄」という言葉で言い表している.彼によればその牢獄は(1)排除の空間,(2)自己否定の空間,(3)死を待つ空間の3つの特徴をもつとされている(西澤 2005b:263).
西澤はここでの(2)に関して「檻のない牢獄は、自己否定の空間である.彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは、再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)と述べている.これを反転すれば,ここには「組織社会・定住社会」の空間内にいる自己が肯定できる/あるべき姿として描かれているのが分かる.
また原(2004:248)は『ホームレスと住まいの権利』で,野宿者のイメージに対して市民に調査をかけている.そこでの結果は以下のようなものである.
①弱者=不健康、孤独、みじめ、かわいそう、しんどそう
②怠け者=怠け者、無気力、自業自得
③邪魔者=うっとうしい、じゃま(+汚い?)
④恐怖=こわい、酔っ払い
⑤気楽=気楽、自由
⑥不器用=偏屈、不器用
これらは調査への回答を多い順に並べまとめたものとなっている.原はこのイメージ形成のおもな要因を「会話など直接の接触体験ではなく、野宿者の見た目の印象と、自分なりの推測が中心だと考えられる。マスコミをはじめ、さまざまな媒体を通じた情報の影響もあるだろう。」(原 2004:248)と述べている.
原はまた,「生活の実情や個人史の取材は足さえ運べばそう難しくない」(原 2004:250)と述べている.しかし,野宿者に対して一般の市民が積極的に「足を運んで」「直接の接触体験」を望むか,ということには疑問が残る.
西澤が「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47)と述べ,さらに「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(2005a:47),「治療が、国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(2005a:47)と述べているように,一般の市民にとって野宿者は「治療に値」せず「非国民的な存在」として識別されたものとなる.
そしてこれを反転させれば,一般の市民は自らを「治療に値」した「国民的」あるいは「非-非国民的」なもの,として捉えていることとなる.これは西澤が述べた「野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということ,またそこから読み取れる「組織社会・定住社会の空間内にいる自己が肯定・あるべき姿として描かれる」こととも重なる.
ならば「国民的あるいは非-非国民的」と自らを識別した「市民」が,「治療に値」せず「非国民として識別される」ような空間のものに対して積極的に関わるとは考えづらい.原の研究が,その識別-排除の機構に対して働きかけるものとして作成され「『足さえ運べば』そう難しくない」という表現がそこからくるものだとしても,問題は「(接触以前に)足を運ぶことの難しさ」にあるといえる.
2.識別枠について
識別の枠の内部が「肯定された」ものであり,外部が「否定的な」ものであるならば、肯定的な部分にとどまろうとするのは,論理的あるいは経済的な判断である.これを覆す要因が他にない限り,枠の内部にいるものが枠をこえ「否定的な」ものとの接触をするのは避けよう,と考えるのは妥当であるといえる.
ここでは野宿者とは文字通り「home-less」,つまり識別された枠の内部から見捨てられ,枠という「home」を失ったものとして認識されている.
ここで西澤がだした「檻のない牢獄」の特徴(1)排除の空間,(2)自己否定の空間,(3)死を待つ空間,を反転させれば,homeの特徴は(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,といえる.そしてhome-lessとは,この特徴が失われた状態だと考えうる.
そしてここから,原の調査結果による「市民」からの野宿者へのイメージで,弱者,怠け者,恐怖,気楽,不器用などがあがってくるのも幾分かは導きうる.枠の外部にいるものはhomeから排除されたものであり,その排除の識別域にひっかかるのは上記の条件のうち一つまたは複数を満たしているから,ということである.
そして条件を単純に反転させるならば,枠の内部の「市民」のイメージは,強者,勤勉,安心,切迫,器用である,ということとなる.そして「市民」すなわち「homeの内部にいるもの」がそうであるなら,home-lessへの意識は,勤勉で器用でないために,安心の「外部」に放逐された弱者,ということとなる.
しかしここには,もう一つ読み取らなければいけないことがある.外部者の気楽,あるいはその反転としての内部者の切迫,というのはどこから生じているかということだ.それには「home」というのがどのようなものかの分析が必要となる.
2008年12月18日木曜日
SoTuRoNⅡ
かき終って、俺のスタンスは変わりました。
何か発見があったから、とかじゃなく、かき終ったことで、それまでのスタンスから抜けたのだと思う。
卒論でかいたのは、かなり簡単なことです。
「ほら吹き男爵の冒険」という本をむかし読んで、そのなかにあった話で「ほら吹き男爵が馬に乗って沼地に差し掛かると、どんどん沈んでいきました。そこで彼は、自分で自分の髪をつかんで持ち上げ、馬ごと沼地から脱出しました。」というのがありました。
これはパッと見で変な話。彼は沼地にいるから、沼地を足場にしないと何かを持ち上げることはできない。なのに何も足場にしないで、てか自分を足場にして自分を持ち上げた、っていってるから。
俺が卒論でかいたのは、自分を足場に自分を持ち上げることとか無理じゃん、だから沼地でも荒れ地でも狩場でもいいけど、自分がいるとこからはじめないと自分どころか何も持ち上げられないぜ、って話です。それだけw
で、俺はそれをかいて、自分のなかでの「自分の髪をつかんでる手」を、きれいサッパリ廃棄処分しました。それがスタンスが変わったってことです。
いろいろしながら「自分の髪をつかんでる手」を廃棄処分したとこで、やってけるように動いてくと思います。もとがヘタレなんで、オタオタしてるけどw
そこらへんの話はまた今度
何か発見があったから、とかじゃなく、かき終ったことで、それまでのスタンスから抜けたのだと思う。
卒論でかいたのは、かなり簡単なことです。
「ほら吹き男爵の冒険」という本をむかし読んで、そのなかにあった話で「ほら吹き男爵が馬に乗って沼地に差し掛かると、どんどん沈んでいきました。そこで彼は、自分で自分の髪をつかんで持ち上げ、馬ごと沼地から脱出しました。」というのがありました。
これはパッと見で変な話。彼は沼地にいるから、沼地を足場にしないと何かを持ち上げることはできない。なのに何も足場にしないで、てか自分を足場にして自分を持ち上げた、っていってるから。
俺が卒論でかいたのは、自分を足場に自分を持ち上げることとか無理じゃん、だから沼地でも荒れ地でも狩場でもいいけど、自分がいるとこからはじめないと自分どころか何も持ち上げられないぜ、って話です。それだけw
で、俺はそれをかいて、自分のなかでの「自分の髪をつかんでる手」を、きれいサッパリ廃棄処分しました。それがスタンスが変わったってことです。
いろいろしながら「自分の髪をつかんでる手」を廃棄処分したとこで、やってけるように動いてくと思います。もとがヘタレなんで、オタオタしてるけどw
そこらへんの話はまた今度
2008年12月4日木曜日
経済と効率

リンクにある:----r-u----:のサクバさんが紹介していたのだけど、ドームハウスというのを売っているジャパンドームハウス(http://www.dome-house.jp/index2.html)というのがあった。
こういうのってすごくおもしろい。40㎡ちょいのイエ(?)が、400万以下で売ってる。耐震性や耐風性にもすぐれてるし、断熱性もあって地球にやさしいとかナントカ。
個人的には地球にやさしいのなんかどうでもいいのだけど、低コストでそれだけのことが実現できるというのはすごいおもしろいと思う。
低コストってのはいいことだ。例えば年収が高いのって、市場経済のなかでの貨幣価値を基準にした量的尺度でしかない。だけど年収が高くて市場経済的にリッチな家に住んでるのより、低コストで高効率なイエに住んでる方が俺はいいと思う。
ここでいう「効率」ってのは、経済効率のことだ。それは市場経済の量的尺度でなく、自分にとっての生活を成す複合的な経済性における効率のことだ。複合的な経済性っていっても別にむずかしい話じゃなく、自分の手で自分が生きるだけのものを得られるとか、空が青くてきれいだとか、部屋にかえってきたときに温かいココアがうまいとか、コケてケガしたら痛いとか、外に原付で走りにいくのがたのしいとか、仲のいい友達がいるとかそういうこと。
そういう自分にとってのリアリティや自分にとっての利権を得ることを、自分のリアリティに無関係な経済尺度にスポイルされずに、ちゃんと試みようとする/試みられる(try-ableみたいな)こと(の効率?性)が無ければ、どんな「収入」や「評価」を得たところでおもしろくない。
そのabilityの地盤は、どっかに用意された話ではなく自分にとってリアルな感触や感覚だと思う。そういう意味では、市場経済のなかの駒としてどれだけ優秀かよりも、自分の地面から市場経済も含めた諸々の経済性にどれだけ働きかけて、そしてここで何ができるか試みることは全然おもしろいと思う。そういうことをやりたい/やろうと思ってる。
具体的なスキルとかはまだ無いけど、どっかのヘンテコ零細企業にいって、個人として自分がどれだけできるか試しながら、スキルもコネクションもつくってく、つもり。興味ない、自分にとってリアリティのない経済性に飲み込まれるつもりは無いです(゜ー゜☆)
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