2008年12月19日金曜日

SoTuRoNⅢ③

Ⅴ.空間と主体性

1.「取引」の空間-1
 前章では「彼らは彼らの『コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる」と述べた.しかし隠蔽は,一種の減少や撤退に似ることから,それがデメリットあるいはネガティブなものとして捉えられてもおかしくはない.

 そして,ここで生じていることは,「コードによって存立される主体性」と(隠蔽される)主体性という「属性」の「交換/取引」といえる.そしてそれが取引である以上,「コードによって存立される主体性」の方に,属性を幾分か変換することに,取引の際に隠蔽される主体性にい続けることよりもメリットがなければ,その「取引/属性変換」はまず成立しない.

 また,「取引」ならば「取引相手」がどこかにいる,ということとなる.ならば,ここで行われて「取引」とは,「取引相手」とのメリット/デメリットとの「商談」的なものであるといえる.その「取引相手」とは,homeにおいては「コード群」であるし,福祉においては大枠で捉えた「国家」だともいえるだろう.以下では,上記の視点から,コードと主体性の取引の構造を分析する.


2.「取引」の空間-2
 ここまで追ってきたことから「取引」における「メリット/デメリット」を捉えれば,コードによって存立される主体性の「メリット」とは,「コードによって構築される場での保護/存立」だといえる.それは野宿者の生が,「強烈な自己否定の感情が伴われがちである」(西澤 2005b:264)といわれることの反転像,すなわち「存立された『市民/国民』」としての「メリット」ともいえる.

 そしてその「メリット/保護/存立」は,檻のない牢獄の条件を反転させた(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と重なり合う.そして(隠蔽される)主体性にとどまり続けることのデメリットがあるとすれば,それは一つには,その「メリット」が得られない,あるいは得られる見込みが低い,ということだといえる.

 しかし疑問がある.上で(C)生を待つ空間,と述べたが,これは「死を待つ空間」の目的語を単純に反転しただけのものであり,対偶などをとったものではない.別の面から「死を待つ空間」という条件をひっくり返したのならば「死を待つ空間」は「死を待つだけではない空間」となる.

 そして「生を待つ空間」と「死を待つだけではない空間」とでは,印象や状況が全く異なるといえる.また(1)排除の空間(2)自己否定の空間を,同様の面からひっくり返せば,それぞれ「排除だけではない空間」「自己否定だけではない空間」となる.

 これらを並べてみれば,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,と(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間,となる.

 そしてコードによって存立された主体性がある空間が,前者となるのと後者となるのとでは,決定的に異なるものがある.それは先に述べた「取引」におけるメリット/デメリットの判断や,「取引」の確実性である.そして「取引」の確実性に違いがあるいうことは「取引相手」の確実性にも違いがある可能性がある.以下では,「取引」や「取引相手」の確実性を確認しながら,その違いをみていく.


3.期待と確証-1
 ここで,前者の「(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間」をカテゴリA,後者の「(イ)排除だけではない空間(ロ)自己否定だけではない空間(ハ)死を待つだけではない空間」をカテゴリBとして考察する.

 カテゴリAでは(3)生を待つ空間,というのが最もその特徴を表しているといえる.そして「生を待つ」を,「生が与えられるのを待つ」と言い換えることが可能ならば,そこには属性変換と引き換えに,「生」を与える取引相手がいることとなる.

 ならばカテゴリAの空間では,そこで,その取引相手が「生」を与える程度に、その取引は成立する,ということとなる.例えばこれをhomeに重ねれば,そこではコードによって「市民/国民」として存立させられることが,「取引」の成立だといえる.

 一方,カテゴリBでは「与えられる」ような傾向が希薄である.(3)死を待つだけではない空間,というならば,それは自身の行為や選択肢や,その結果があるだけで,これといった贈与があるとは言いづらい.そこは「生」が与えられるかどうか分からない,という意味で「生が与えられる,とはいいづらい」空間だといえる.

 ならば,カテゴリAとBにおいて,メリット/デメリットの判断は変化しうるといえる.また,それをうける取引の内容もまた変わってくるといえる.

 主体は,カテゴリAにおいては,主体性を隠蔽し,コード内部に「入り」さえすれば「生」は与えられる.これはメリットあるいは肯定性といえる.しかしカテゴリBではこれといった贈与の保障はない.ゆえに,そこで「コードに入る」ことにおけるメリットあるいは肯定性は,明確には存在しない,あるいはコードの側からは保障されていない.

 言い換えれば,カテゴリBでは何らかのメリットを保障する「判断基準」はコードの側には存在せず,コードに入ることのメリット/デメリットを判断するのは,コードの確証ではなく,主体の経済性においてとなる.

 これをすこし詳しく述べれば,カテゴリBでは保証が曖昧であるか欠落している,つまり保障や肯定性やメリットを確証的に語れない空間では,メリットを基盤にした「妥当性」は生じづらいか,または生じるとはいえない.

 ならば,カテゴリBでは,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだ.

 ならばメリット/デメリットの妥当性は,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,ということだといえる.それはhomeにおいては「コード」の基準ではなく,また福祉においては「国家」の基準ではなく,主体の経済性において判断しなくてはならなくなる,ということだ.

 では次に,「取引相手」に関することを考察する.カテゴリAにおいては「取引相手」は,コードに入りさえすれば,「生」を与えるものとされている.言い換えれば,ここでは属性変換という「コードへの身売り」あるいは「自身の商品化」ということに対して,コードの側から対価が適切に払われるということにされている,といえる.

 そして,「されている」ということを言い換えれば,想定/構想されている,といえる.つまり「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想している側がいる,ということだ.   

 そして想定されるのが「取引」の「相手」であるならば,「取引相手/コード/『国家』」を想定/構想しているのは,「取引相手」が「取引」をする相手,すなわち主体の側だといえる.

 ここで疑問がある.カテゴリAの場合,「コード内部に入れば『生』が確証的に得られる」となっているわけだが,その「『生』が確証的に得られる」ことの確証というのは,どこにある/基盤付けられているのだろうか.

 第一に,それは「取引相手」によってではない.「取引相手」が述べるのは「コード内部に入れば『生』が確証的に与えられる」ということだけであって,「取引相手」のメッセージを確証付けるものはそこには特にない.

 だとすると,そのメッセージを確証付けるものがあるとすれば,それは主体の側の行為である,ということとなる.では「メッセージを確証付ける行為」を確証付けるものや行為は主体のうちにあるのだろうか.そうではないといえる.

 そこでは主体が想定/構想した「取引相手」のメッセージを,自己の経済性のうちで確証付けようとしている行為だけがあって,その「メッセージを確証付け様としている行為」を確証付けるものは特に他のどこにもない.

 仮に,「取引相手」がとても堅牢に感じられる「だから」主体にとって「取引相手のメッセージ」は「確証がある」とするならば,それは論理的に誤りである.それはいわば「期待」であって「確証」ではないし,両者の混同は誤りである.ならば,カテゴリAでもカテゴリBと同様に,保障は曖昧であるか欠落しているといえる.

 ならば,カテゴリAでも,「コードが存立する/コードによって存立される主体性」に「隠蔽される主体性」を「どの程度のせる/変換する/取引する」ということを基準付けるメリットを基盤にした「妥当性」も生じづらいか,または生じるかどうか分からないものだといえる.

 ならばカテゴリAでもカテゴリBと同様に,メリット/デメリットの妥当性は,「コードや『国家』」の側からではなく,「確証的な基準を欠いた」主体の側の経済性から判断しなくてはならなくなる,といえる.


4.期待と確証-2
 「期待と確証-1」で述べたことは重要だと思えるので,カテゴリAに関することを,すこし別の言い方で述べてみる.

 先にカテゴリAに関して,「カテゴリAでは『生』を与える何ものかが構想/想定されているといえる」,また「カテゴリAの空間では,そこで,その何ものかの構想/想定が,実現しうる限りにおいて『生』が与えられる,ということとなる」,と述べた.

 では,その構想/想定は,主体と無関係に行われているのだろうか.それは考えづらい.なぜならその構想/想定を「最終的に」受諾するのは主体の側といえるからだ.

 言い換えれば,その構想/想定の受諾には,主体または主体の判断が関わっている.ならば,その構想/想定を「引き受ける側」として、それを受諾する主体のありようはある,といえる.

 そして,その構想/想定が「引き受けられる」ものならば,そこには引き渡す側(=取引相手/コード/「国家」)が想定されうるといえる.そしてその想定は,確証性の問題に関係する.つまり,その想定されている「引き渡す側」による「引渡し」が行われるかどうかは,確証をとれることではない.

 仮にそれの確証を,主体の側から基盤付けるとしたら,それはつまるところ「引き渡し」を行う側への信頼によって基盤付けられるものである.つまり主体がその確証性に関わるときに,なんらかの基盤付けがあるとしたら,そこには主体による構想/想定されたものへの「信頼の投影」があるといえる.

 ならば主体は,自身の信頼を投影するというその行為のなかにおいて,「引き渡す側を『想定』するもの」になっているといえる.それはいわば期待の構造である.そして「期待」は「確証」ではない.そこに淡い確証のようなものが生じるとしたら,「投影された信頼が投げ返される」程度ではないだろうか.そして,その淡さを明確にし,保障し,基盤付けるものは,取り立ててあげられない.

 例えば「自分が信頼を投影しているのだから,それは投げ返されるだろう」というものがあったとしても,それは自身の信頼への期待である.それは「期待」であり「確証」ではない.それゆえに「確証を基盤としたなんらかの保障」はその空間では,(「期待」と「確証」が異なる程度に)成立しない/しえない/していない.

 ならば,カテゴリAは,なにかのコードを確証にしたり,なにかの確証をコードにしたりすることは無効な空間であるといえる.ならばそこでは,メリット/デメリットを判断する「領域」は,コードなどではなく,主体,あるいは主体の側の経済性に回ってこざるを得ない.これはカテゴリBと同一の構造あるいは条件である.


5.空間と主体性
 ここまでのことから展開できることがある.それは,カテゴリの構成条件にどのようなものがあるとしても、おそらくこの期待と確証との構造は変形しない,ということだ.そこで判断を迫られるのは,主体,あるいは主体の領域の経済性であり,他のなにかではない.

 そして繰り返すことになるが,その空間では,なんらかの「なにかのコードによる確証=コード的保障」や「なにかの確証によるコード=保障的コード」,つまり「なんらかの確証を基盤としたなんらかの保障」は,おそらく成立しない/しえない/していないし,そこで判断をなすのは主体の領域の経済性である.

 ならば,主体あるいはわたしたちが生きているのはそのような空間だといえる.それは,確証や保障がおそらく成立しない/しえない/していない,という意味で,わたしたちの経済性に対し,拓かれ/開かれた空間,あるいはそれをひらいたままにするのもコードによって閉ざすのも,主体の経済領域において判断される空間だといえる.

 そしてここまでの論から,2つの方法あるいは場が残されているのがわかる.1つめは,期待と確証の中間領域において,隠蔽と,隠蔽と引き換えとの「コードを含んだ存立」的行為のなかで試行錯誤をすることであり,その試行錯誤のなかで確証を欠きながらも,「システム」に対して「主体性」を立ち上げよう,というものである.そして2つめは,1つめのさらに基底領域,つまりその「試行錯誤」を立ち上げるレベルに位置する体験を生きることであり,試行錯誤のなかでの「欠けた確証」も欠いたかかわりの領域を生きることだといえる.

 そしてここから展開できる「実践主体/主体性の位置」とは,なんらかのコードによって確証,保障,存立,支持/指示を受けることの撤廃された,上記の空間への,あるいは空間をなす諸々のものやことへの,わたしたち自身のありようであると捉えられる.それは,わたしたちの体験において生きられるものであって,なんらかのコードのたてた基準をベースに「知る/知られる」ものではないといえる.

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