2008年12月19日金曜日

SoTuRoNⅢ②

Ⅲ.homeとコード

 福田・佐藤は『社会保障とその周辺』で「社会制度審議会は,1995年の『社会保障体制の再構築に関する勧告』において,『社会保障の新しい理念とは,広く国民に健やかで安心できる生活を保障するものである』と述べ」(福田・佐藤 2006:3)た,と述べている.

 その解説として,彼らは「ここで述べられていることは,社会保障とは,貧困層など、限られた一部の人だけを対象とするのではなく、社会を構成するすべての人をその対象ととらえていかなければならない[……]こうした考えは『普遍性』または『普遍主義』と呼ばれています」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.

 彼らはまた普遍主義と並んで重要な理念に「権利性」をあげ(福田・佐藤 2006:3),その解説として「憲法25条は,国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有していると規定しています。[……]また,社会保障は,給付を通じて国民が国に心理的に依存するようなものであってはならず,権利としての給付を受けることを通じて,国民が自立心・自尊心を保持できるような制度であることが大切です」(福田・佐藤 2006:3)と述べている.

 すなわちここでは,普く行き渡る権利に基づき「国民」という主体は存立され,その自立心・自尊心は,権利をとおして保持される,ということが述べられている.こうした考えは肯定的/善意的に感じられるが,しかし疑問も残る.

 ここで述べられていることを単純化すると「国民(という主体)←権利←憲法」と表せる.ここでは矢印の右側にくるものが、左側にくるものを支持/保持していることとなっている.この図に限っていえば,そこには憲法がもっとも基盤的なものとしてあり,主体を支えている.言い換えれば主体に憲法は先行し,先行した憲法でもって存立したものが「国民という主体」として認識される,ということとなる.

 それならば,そこにはある主体性は憲法の主体性であり,「主体」といわれるものの主体性ではないと考えられる.ここでは「国民」なるものは「憲法」なるものに識別されたものとして,識別された限りでの主体性あるいは自主性を得る,という構図になっている.

 そしてここでの「憲法」を,homeによる保障を識別/決定する,福祉における他の基準群と合わせて解釈するならば,先に述べたhomeの特徴,(A)保護の空間(B)自己肯定の空間(C)生を待つ空間,も幾分かは導きうる.

 それはなんらかの基盤に基づく空間である,という意味で支持され保護された空間であり,支持された者としての自己を肯定できる空間であり,支持された者としての生を待つ空間といえる,ということだ.

 そしてhome-lessが,その基盤による支持を失ったものと捉えられるのならば,西澤が述べた「檻のない牢獄は、自己否定の空間である。彼ら(野宿者)がそもそも組織社会・定住社会の人であったことは,再確認しておくべきだろう.彼らにとって,野宿者である自己は否定すべき姿として体験される」(西澤 2005b:264)ということも理解できる.その否定性とは,基盤の識別域からあぶれ,支持という肯定性を失ったがゆえの否定性といえる.

 そして西澤が述べた「国民国家の拘束のもとでの権力的介入を,治療,隠蔽,抹殺の3つに類型化(バーガー=ルックマン)し把握しておきたい」(西澤 2005a:47),「治療は,学校,軍隊,工場あるいは家庭など閉鎖的空間を用いての規律,調練(フーコー)によって組織・定住領域へと人びとを誘導し,『よき国民』を仕立て上げる操作である」(西澤 2005a:47),「治療が,国民的な均質化の手段として遂行されるとき,治療に値しない非国民的な存在を識別し排除する機制が同時に要請されることになる」(西澤 2005a:47)ということからいえば,この肯定性/否定性を識別する基盤とは,「『よき』国民」を識別するコード群である,ということとなる。そしてそこからあぶれることが否定的であるのは,あぶれたものは「よき国民」の反転としての「非国民」「治療に値しないもの」となる,という判断からだといえる.

 そこではhome内部のものは識別枠からあぶれないよう「器用」に「勤勉」に行為し,そして「野宿者」はその識別枠からあぶれた「弱者」である自己を否定的に捉える.彼らにとっては参照枠としてのコードが,自己の肯定/否定の位置を決定するものとなっている.

 言い換えれば彼らは,コードを「自己に先行し決定権のあるもの」と捉えているといえる.これは先にあげた「国民(という主体)←権利←憲法」の構図と重なり合う.そこではコードの基底的な部分に位置するものが,それが許容する限りでの「主体」を存立させ,支持/保持するものとなっている.

 しかしこれは奇妙に思える.home内部のものもそうでないものも,「コードを『自己に先行し決定権のあるもの』と捉えている」のならば,そこにはどちらにも「コードを自己に先行する」という判断がある.その判断は主体的なものだと捉えうる,とはいえないのだろうか.

 だが構図では「国民(という主体)←権利←憲法」となっていた.権利や憲法を「コード」とするなら,これは「主体←コード」と書き換えられる.「コードを自己に先行する」という判断があるならば,これは「主体←コード←コードの受諾という判断」となると考えられる.にも拘らず,homeの識別枠は「主体←コード」という形式で働いているようにみえる.次章では,排除と隠蔽というものを切り口に,そこにどういった機構/意識が働いているかの検討を行う.


Ⅳ.homeと隠蔽

1.共同体意識
 西澤は,「G.アガンベンによれば,強制収容所の本質は殺戮にあるのではない.強制収容所は,『法が全面的に宙吊りに』なった,『例外状態が規範そのものとなる』空間である.そこは,法的秩序の外に置かれているが単に外部なのではなく,『自らの排除そのものを通じて包含されている』場所である.そうした例外空間に捕らわれた人々は,生殺与奪の権利を握られたまま主体性―個が想定し得る可能性・潜勢力としての生―を剥奪され,感情や尊厳を喪失した『剥き出しの生』へと還元されていく」(西澤 2005b:264-265)と述べている.

 しかし,強制収容所の内部のものが「自らの排除そのものを通じて包含され」また「生殺与奪の権利を握られたまま主体性を剥奪され」ているのならば,それは広義の意味でのhome内部のものと重なり合う.すなわち,「home内部のもの」も「野宿者」も,「どちらにも『コードを自己に先行するものとする』という判断がある」のならば,それは共に,homeの参照枠を基準にし,自らを内部/外部のものとしている. 

 彼らは自らの判断に先行し,homeの参照枠を基準に自らのポジションを読み取っている,という意味で「自らの排除を通じて包含」されており,またhomeの参照枠を権利の前提とすることで「生殺与奪の権利を握られ」主体性を譲渡して/剥奪されているといえる.homeと強制収容所とがその内部のものに与えるものは異なるし,その違いは決定的な違いなのだとしても,その2つの構造は上記の点では同一であると捉えられる.

 西澤は野宿者を形容して「野宿者も,非人間として放置された例外者である」と述べている(西澤 2005b:265)が,強制収容所内部のものも,広義の意味でのhome内部のものも,自らのポジションを決定する基準を,先行的に機能するhomeの識別域に剥奪されているという意味で,共に「基準から放置された例外者」である,といえる.言い換えれば,そこではhomeの識別域のみが「規範」として機能しており,そして規範が実体あるいは主体に先行している.

 また西澤はT.シブタニの定義を引用し「社会的世界とは,行為の準拠枠になるものの見方を共有することによって結果として成立した人びとのまとまりのことを指す.そのまとまりにおける相互作用を通じて,人びとは共通のものの見方と行為のふさわしさを確認していく」(西澤 2005b:277)と述べている.

 この文章をすこし組み替えれば,「共通のもののみかた」や「行為のふさわしさ」は,「行為の準拠枠になるもののの見方の共有」によってある程度規定される,ということであり,またその共有によって生じたまとまりが,社会的世界である,ということとなる.そして社会的世界が,ものの見方のある程度の共有によって成立している以上,それはそのものの見方を準拠枠にした準共同体的集団なのだといえる.

 そしてここまで追ってきたように,その準拠枠は,home的な共同体においては「規範」として機能しており,それは実体あるいは主体に先行している.ならば、homeにおいて実体あるいは主体に先行しているのは,共同体意識である,と考えられる.


2.主体の選択
 そういった「共同体を前提にする」ことよって成立しているのが,homeにおける主体の存立/保護だといえる.またそれを行為として反転させれば,システムによる「共同体を基盤としない主体」の否定/排斥/隠蔽や,「救済」措置によってそれらを共同体内部の「主体」への書き換ることだいえる.

 しかし,そこで共同体意識が先行している,あるいは「共同体が前提にされる」ということは,そこに共同体意識を自身に先行/優先することを選択しているものがいるということだ.ならば「共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽」という操作を行っているのは,共同体意識を自身に先行/優先させているものの判断である,と考えられる.

 そして広義のhomeの内部のもの,すなわち「市民」も「野宿者」も自ら,彼らを存立させるためになんらかの識別域を,自己の判断に先行/優先し,自己を存立させるための準拠枠としているのならば,共同体を基盤としない主体の否定/排斥/隠蔽を行っているのは,当の彼ら自身の行為/営為であるといえる.

 いわば,彼らは彼らの「コードを『自己に先行するもの』として選択する」という主体的判断において,自らの主体性を隠蔽しているといえる.この隠蔽と先行の問題を,次章ではメリット/デメリットと,「取引」という視点から分析していく.

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