2009年12月20日日曜日

荒れ地と食事

どーも、荒れ地大好きkeroです。しばらくの間、飯を食うことに罪悪感を覚え、困ったもんだと思いながら暮らしてましたが割り切るようになりました。

どう割り切るようになったかいうと、「俺は生きものなんだから食って当然」という風にです。単純だーw
色んな制度とか、そっから生まれる差別とか感情とかあるけど、それ以前にまず生きてるってことがあって、制度も法律も貨幣も後付けだろうと今は捉えています。

制度AがBだ、制度CがDだ。こんなことをいってるよりまず地に足つけて生きてみろと。それが始まりだし、その始まりは荒れ地に立つようなもんだと思ってる。だって荒れ地って特になんもないでしょ。空がめっちゃ青いくらいだw

どのような制度のなかで生まれても、生きてることは生きてることのもんで、制度のものじゃない。生きてくなかで色んなことを進めるのに区切りを引くことはあるしそれは重要。見るのは前。ただし漠然と「前」じゃ視界がぼやけるから、状況と目標はよく見極める。そういうことができるようになってやるぜ!

ちなみに食事を残すこととか、意味ない包装過剰とかはそんな好きじゃない。だってそれって無駄殺しじゃん。そういう無駄を失くしてざくざく歩いていきたいもんですw

明日も仕事だあー。仕事おもしろいっすよ。今マジで業務能力激低だけど、発見がめちゃ多い。仕事のことはそのうちかきますわ。

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ちなみに昔空想癖が強く、ビビリでいじめられっ子だった俺は、だいぶ長い間「やられる方の気持ちも考えろよ」ということで、なんか色んなものに手出しすることができませんでした。が、今では立派に(?)、「やられて潰れて生きられないならそっちが悪い」という考えに転向w

にしても汚いいじめとかは見てて気分悪いけどね。あと精神病とかそういう「態度じゃ変えられない特徴」を嘲るのはマジ気分わるい。でも何かを「わかってよう」というよりわからせてみせるわ!、という方向へ地道に実践していきます。まずは言ってみるとこからですがw

2009年11月15日日曜日

宣言

唐突ですが宣言。

決めた!俺、バカになる!

バカになって楽しくくらすw

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【追記】

この頃諸般の事情で、自己完結がとれてきました。壊れた、ともいうけどw

自己完結が終わる前にその前に考えたことメモしときます。

1.ここは鶏が死ぬ場所で、それでも前に行くということ
2.お金はただの鉱石で、利用するものだということ
3.いろいろ滅びたあとでも、空は青いこと
4.新しいものは古いものを壊していくこと

ではまた(^^)

2009年11月3日火曜日

豚の解体


見事なナイフ捌き。これはすげーわ
刃物つながりで剣道やってみたくなった(←単純w)

2009年10月24日土曜日

技法

技法はつかうもので、つかわれるものじゃない
技法に食われてたらアウトだな、と感じはじめました
そうなると今度でてくるのは「自分でやる」ってことみたい

2009年10月17日土曜日

幸せってなんじゃらほい

どーも。幸せがよく分からんやさぐれkeroです。
この頃の口ぐせは「どいつもこいつもくたばって滅んじまえ」です。荒れとるw

さて時に、「幸せ」ってよくききますが、俺はあの意味が分からんことが多い。

よくみるものだと、自分が幸せ周囲も幸せ、だから幸せ、ってのがありますが、俺からすると「おいおい、あんた(例えば)モノ殺して食ってんだろ」と思ってしまう。
(↑↑この辺がやさぐれてるw)

別に幸せそれ自体は否定なんぞしません。てか大いに結構じゃね?と思う。
だけどその基底に、食われるものとか、壊れたりするものとか、滅びるものとか、そういうものがあるんだから、それ踏まえた上で幸せになれよ、と思ってしまう。

俺自身は今のところ幸せには興味ないですが、でもそっち方向に行くつもり。
何があるか分かんないけどね。まずは俺の世界なりバックヤードなりを焼いて滅ぼしますかーw

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食肉・屠殺・屠畜その他に関しては、いろいろ感じますが、噛み砕いた上でそこでやっていこうと思います。「ここではないどこか」に行くこと、行きたくなることは、やっぱ嫌いなので

食肉に関していえば、例えば、「日本人の肉」が外国で売られていたり、「○○人の肉」が日本で売られていたりしても、俺はいずれ肯定するようになると思います

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そういう意味でとらえると、人権とか人とか○○人っていう区分けって曖昧だあね。

法的には、人の始期、人の終期、という区分けもあるそうですが

人の始期:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A7%8B%E6%9C%9F

人の終期:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%B5%82%E6%9C%9F

2009年10月14日水曜日

どーも

久しぶりです。ブログが更新されてなくて死亡疑惑がでたのでかいてます

生きてまっせ。

少しづつですが、リンクなどもふえていってます

いちばん上にある「hituziのブログじゃがー」は、この記事(http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20090117/1232197538)とそれへのコメントがおもしろかったのでつなぎました

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この前知り合いと基準の話をしました。

今のところ俺の基準とかは

なにが基準?⇒自分が生きていること
ここはどんなとこ?⇒豚が死ぬ世界
やりたいことは?⇒もっと生きたい(からできることやってく)

みたいです。

みなさんはどーですか?

2009年9月22日火曜日

ボクシング

この頃ボクシングをはじめました。強くなる気はあまりなく、半分は暴れるためにw、半分は生きてくためにやっとります

いまのところモクモクとジャブとストレートの練習ばかり
他の練習生がヒュンヒュン振り回してる横で、ゆっくりしたパンチばっかりやってますw

今まで型どおりにやったことなどないので、今回は型をパーフェクトに習得するとこから始める予定

2009年8月15日土曜日

無題

ひさしぶりです、keroです。
現在地に移って5ヶ月目。いろいろありましたがw、この頃は生活をつくろうとしています。
とりあえず、洗濯と掃除はできるようになりました(遅
余剰の時間で遊んでますがw、やっぱり生きてくののベースがあって、そこから自分でつくろうとできるのはおもしろいです。

この頃はものを見て、その原材料、搬入経路、加工技術、設置までの労力なんかを考えるようになっています。そうやって街をみていると、結構限られた材料でできているんだな、と思いました。
主材は、石系(コンクリなども)、プラスチック系、金属系(主に鉄鋼とアルミ)、布系、木材系が多いようです。あとはプラスチック以外の石油系ですかね、アスファルトとか。あとよく見るのはゴムと紙あたり。
これらの生産-運搬-加工-現地着-消耗、などをちょびっと見て取れるようになりました。
そこを外れたフェーズでは、あと水と電気にガス+食料、というインフラ系かな、と思います。食料ってインフラとは違う感じしますが。
例えば発電所にもガスや水道や通信がひかれていたり、通信センターにも電気やガスや水道がひかれていることを考えると、そういったものは連動しているんだな、と思います。

それと、この頃農家育てゲーをやりましたw
(http://www.arcadetown.com/3rdworldfarmer/gameonline.asp)
はじめは食料を育てているのに、だんだん食料を育てるためにつくった仕組みのなかで、人間が育てられてる、ってか飼われている、ようにみえるのがおもしろいな、と思いました。
たぶん重要なことは、便利になる、飼う、育てる、といったことや、それに付随する仕組みをつくることではなく、現実を受け入れて、どうやって生きていくか、ということがベースにあることじゃないかと思いました。

自分のなかで、食と暴力については、なんとなく分かったというか、つながった感じがしました。あとわからないのは、学校と国家とかについてです。自分のツールから考えて、商業的な面から見ようと思っています。
当面、元気でいる予定です。最近、明石家さんまの「生きてるだけで儲けもん」というのがちょっと好きw

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ところで、稼いで生きていけてないのに、こういうことを考えてることは、贅沢でアンポンタンだということに今さらながら気づきました。食わしてもらってるわけだし、仕組みとかに。
気になることはあるし、どうかと思うことはあるけど、まずはとっとと自分でメシくえるようになろうと思います。ここは実質ノールールらしいけど、それ故にあるやり取りとかを分かっていこうと思っとります。社会的には相当なってないようなので、まずはそこから。

2009年5月9日土曜日

暴力のこと

ものが生きるのは場所取りゲームのようだと思った。なんとなく。それは狭いから場所取りになるのではなく、繁殖するから場所取りになるというか。ものが生きてるのがどこであれ関係なく、そのようなことはどこかで起きるのかなと思った。

場所取りゲームは暴力的だ。そして俺にとって暴力にきちんとかかわるということは意味があることです。
例えば生物的な意味での繁殖空間の取り合いが暴力的なら、その行為に関与しないということは、自分の行為に関与しないということになる。それはいやなのです、なんだか知らんけどw

暴力にかかわって滅びることができないとか、それを投げだしたりするのなら、その場でくたばった方がマシだ、となぜか思うのです。なぜでしょう。本人にも分かりません。

暴力は、例えば残酷なフェーズだけではないと思う。残酷なフェーズがあるとしても、それと同様に豊かなフェーズもあるし、それらをひっくるめて豊かなのだと思う。そのようなフェーズに立つことが可能になってはじめて、そのようなフェーズで起こることを明確に享受できる気がする。

極端な話をすれば、何かを殺すことができない奴は、何かを愛する資格がない、と俺は思います。殺すことも愛することも滅びることも変わることもあるフェーズにきちんと立てなければ、それを享受する資格はないし、結局のところ享受できていないのだと思う。

俺は暴力にきちんと関わったり、暴力をきちんと遂行しようと思います。よく分かりませんが、それが俺にとって妥当ならば、それが俺にとって妥当なのです。とかいってみる

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そしてやっぱり荒れ地には行きたいです。そこで俺はツールをつかうと思う。荒れ地において自分が弱い程度に、それを使うのだと思います。俺は自分の弱さやアホさをちゃんと分かっていたい。弱さからトンズラした強いフリは、砕けて滅びるといいと思ってる(らしい)

2009年5月8日金曜日

風のこと

いろいろあるけれど、自分がしたいのは滅びることだったり、滅びるものであることだと思った。

1つのパターンでどこまでもいけるものは、恒久的かもしれないけれど、それは自分にはつまらないです。だって何にも遭遇していない。

俺は風が吹くのがすごく好きです。パターンが変わっていくことや、そのなかで生滅する世界はすごく素晴らしいと思う。それが晴れでも雨でも曇りでも。

「遭遇」というのは、「誰か」を待っていること、「誰か待ち」ではないと思う。そうではなく、パターンが変わっていくというパターンのなかで、自分がそうあるように生きる/生きようとすることを望むことや、そこで関わったり変わったりすることだと思う。

俺は荒れ地も好きだし、そこで滅びるものも、自分が滅びるものであることも好きです。それはある種の残酷さであり豊かさだと思う。そういうのってすげー爽やかです。スパッと晴れた空のようだ。

なんとなくだけど、生きものは死なないと思った。死ぬことは生をデジタルに遮断するけれど、滅びることは生のうちに、それと同時にあると思う。「死ぬ」ものというのは、滅びを怖れて硬直したり止まろうとしたものだけだと思います。

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マンガをちょっと集めたいです。とりあえずHELLSINGとNARUTO買いたい。なんかよく分かんないけど、それと風の谷のナウシカならべて置いときたい気分です。なぜだ?

2009年4月15日水曜日

近況

とりあえず新居でネットがつながりました。色々変化が多くて、わからないこともいっぱいですが、いくつかのことを試行錯誤しながら動いていこうと思ってます。

2009年3月11日水曜日

無題







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【mixiより転載】

ああもうこんなクソみてえな分析やってたくねえ。思いっきりカラダうごかしてえ。クソが。経済に全部封鎖されてやがる
行き場はあるはずだ。なんでこんなクソなんだ
なんで街がこんなクソなんだ。なんで街で目が死んでんだ
死ねよそんなもの
金なんか追っかけてなんになるんだ

俺はなにに怒ってんだ

知ってるよ俺は金に怒ってんだよ全部の金に

なぜあんなものをめぐって感情を封鎖して媚を売って子どもを黙らせて暴力をふるってそしてそれが許されてんだ

ああクソ、ほんとにむかつく。全部なぐりてえ

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とりあえずこの頃は、ギリシャとかの農奴制と畜産制の分析すすめてます。たぶんだけどなんか分かる。上で怒ってますが、別に俺は経済否定派とかではないです。むしろ力ある経済系があると思ってるし、それを推進してみたい(*)。つまんねえやり方がむかつくだけ

*:べつに無意味な金が欲しいとかではない。おそらく俺が望むのは、俺が生きる時間を俺のものにすることです。どっかのおかしなものに無意味にスポイルされて、投資計画を再生産するシステムの道具として過ごすのではなく。こういうことって書き言葉にした途端にダメになるな

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【メモ群。以前のmixiより転載】

享受するということは変わることだし、変るということは自分が死ぬことだ
生も死もあわせて、ひとつの力あるラインだろ
ラインをいきたければ、することは逃避じゃない

よろこぶこと、よろこべること

需要と供給、じゃなくて供給と供給

なにが役に立つものかわからない。だからものの価値をきめることはできない

2009年3月7日土曜日

土地に対して誰が金を払うのか

外部はそれと向き合って傷つけられたのなら、回復することが十分ありうる、というのが俺の意見です。

で、疑問なのは貨幣のこと。金本位制がくずれたので、それ以降のことでいうと、例えば日本円は日本銀行券なわけで、それは最終的には日本国家の国家的信用と経済的信用から成り立ってるわけだ。仮にそれを信用してるのがドルだとすると、その信用はアメリカからのものになる。

つまり日本円とドルが、あるいは日本とアメリカが、相補的信用関係にあるわけだ。ここで貨幣がなりたつ。言い換えれば、その信用関係は、国家間の信用関係で(話的には)完結していて、それ以外のものに波及していない。

ところで土地とか獣とかがいる。土地や獣に支払われるのは、土地や獣へのお金であるべきだ。そうでなければ、少なくとも支払うものは外部と向き合っていない。(てか金払うよりまず向きあって自力で奪えって感じだけど)

ところが、貨幣の信用は、国家間のみで完結している。ということは「その貨幣」は、土地や獣という「国家のものではないもの(あるいはそもそも誰のものでもないもの)」に払えるものではない。にも拘らず、これが買えるようにみえている。なんじゃこれ?と思うのだが

二つの経済が分離しているのに、片方の経済(国家間の信用)がもう片方(土地とか獣とか)を買えるようにみえる、というのは、どう考えてもヘンテコだ。

そんなスポイルされるようなやり方じゃ、外部は回復できない感じがするよ(それでもするんだろうけどさ)。土地には土地への「対価」を支払うもんじゃね?、と俺は思う

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まあつまり話としてはこういうことでしょ。俺とあいつがこう決めたんだ、だからテメーも従えよ、っつう。ここでの俺とあいつってのはは例えば国家主権同士。でテメーってのは、国民とか羊とかこれから生まれる子どもとか、そういうのも入ってるわけだ。ほんで従わなかったら、オメー、おまんま食えなくなるぞ、いいのかよコラ、っつう。でなきゃ武力か(ミサイルとか機動隊?)。

俺はバカだが、しかしそうじゃねーだろーってことくらいは分かる。土地も獣も俺も他の奴も、どっかの誰かが決めた約束事の文字なんかじゃねえってことだ

狩りのこと

そこらへんに森とかがあって、なんだか獣がすんでいて、それを弓矢でつかまえて、捌いて肉にしたり服にしたり住居にしたりする。というのが、とっても歴史知識の無い俺の縄文時代とかのイメージです。小学生なみのイメージww

この場合、「獣を獲る人」「加工する人」「消費する人」がいるわけだ。そのなかでも「獣を獲る人」は外部にアクセスする人です。つまり内部で生産できないものを獲りにいく、という。

で、いつからか知らないけどそのうち家畜ができるわけだ。豚とか犬とか(なのか?)。そうなると、外部にしかなかったものが「内部」で生産できるようになる。てか少なくともそうみえる。

いまの状況って、これがすごく展開した状況にみえるのね。馬とか牛とか豚を家畜として「生産」して「消費」する、っていう。あと田んぼとか。石油もなのかなー(よく知らない)。

つまり「内部で生産して、内部で消費する」ようにみえるわけだ。みんなが「加工業者」と「消費者」になってるというか。で、俺が疑問なのは「外部はどこにいったのか」ということです。消失したのか、はたまた見えづらいようになったのか。

これって技術といわれるものの話と関係あるわけだ。テクノロジー、なのか?
テクノロジーの問題はたぶん一個だけで、それは「外部をコントロールして危険じゃなくする→外部を消失させるようにみせられる」ことができるということだと思う。でもこの辺よくわかんないからパス。

ただ内部の限りない再生産になったら、それはげっそりだと思う。家畜も石油もコントロールして、あとは感染症をコントロールできるようになって、資源をコントロールできるようになりました、バンザーイ。ってなったときに、後はただ単にゆりかごのなかで老いていくようになるの?、って感じがする。

なんとなくだけど、どっか(いくつかのところ?)に外部が散りばめられて埋まってるような感じがする。宇宙とか深海とかだけじゃなくて、例えばシステム化されたように見えるもののなかに。それを動かせるのはおもしろいんじゃないかなー、と思った話。

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再生産されるだけの内部って、死んだ図書館のようだ。過去の文字とその管理と更新だけがあって、食べものは「どこかから」運ばれてくることになってるの。とりあえず、暫定的でも図書館の外にいこう(今からちょっといってきますwithたばこ)。そっからまた考える。たぶんだけど、外部は豊かだ

2009年3月2日月曜日

愛に時間を







印鑑証明(うろおぼえ)

ずいぶん前に思ったことなので、ほとんど忘れましたorz
以下記憶の断片を並べたものです。

2/20
引越しがもうすぐで、親の印鑑証明が必要になり取りにいったらもらえた。
もらえたのだけど、その印鑑証明には区役所の保証があった。
きっとその区役所の保証には都の保証があるんだろう。
それでその都の保証には国の保証があるんだろう、とか思った。
そういうのが、顔の見えない、文字のあいだの保証になってる感じがした。
そういう顔のなさは、どこに向いていることになってるんだろう。
ついでに、国のことは誰が保証するんだろう。
身体感覚を離れた「文字」を基盤にした保証関係は、どこかで奇妙だ。
その文字を保証するのは、少なくともその文字と別の文字、ということではないと思う。

2009年2月20日金曜日

@東京

東京にきました。暖かかった。上野をみて思ったことです

とても当たり前なのに、子どもの頃は分からなかったことがある。それはネオン街とか、ハンバーガー屋とか、道路とか、電車とかは、勝手に用意されたわけではなく、どこかの誰かがどっかから材料をもってきてつくったってことだ。

つまり俺にとって就職とは、その材料収集→加工→流通のプロセスを、自分でできるということです。ネオン街もハンバーガー屋も道路も電車も、俺が手をだして作っていけるものになる。

それは多分ずっと当たり前だったのだろうけど、長い間俺にはそれが分からなかった。いろんないい方ができるけど、それがシステムにスポイルされていたということだともいえると思う。あるいは世界と自分が隔絶していて、その間に誰のものともつかなく見えてるシステムがある、ように見えていたのだとも思う。

まあとにかくそうじゃないってことです。俺はたぶん単純なので、欲求も単純です。世界と自分とが不必要に隔絶していないこと。そういう場所を直に生きることが今の俺の欲求です。たぶん春には春の、冬には冬のよろこびや悲しみがあるし、それを無いことにするのは間違っているのだと思う。そして同様に、言語を用いてでも何らかのシステムを作動させようとする欲望を否定するのも間違っているのだと思う。

ここら辺のあいだを通行していきます。気分は荒地です。荒地大好き。シビアでたのしいから。そして行為が自分のものだから(orシステムのものではないから)。荒地はなにかの神秘ど真ん中です。生きることも死ぬこともSEXも産まれることも食うことも養分になることも排泄することも病むことも醜いこともつまらないことも美しいこともここで起こる。行くぜ。欲求がそうあるなら街はつくりかえられる、と思ってる。少なくともそれがシステムのものでない程度に。そしてその「程度」はすげえあると思ってる

チョコレート

昨日東京にいった。立石というところを歩いてきた。マンションやアパートがあって、それはパイプラインから外れているようにみえた。マンションはむかしの団地みたいな雰囲気がした。誰のものでもないシステムが稼動していて、みんなそれが回ってるのをみてたり、巻き込まれているようにみえた(てか都市のマンションて、どこも顔が無いのにプライベートだけあるみたいで、胡散臭くてちょっと怖い。そしてわくわくもするのだけどw)。

コンビニがあったので、チョコレートを買った。チョコレートの裏にはバーコードがあって、レジの店員さんがピッと処理していた。ああ、つまりそういうことなのだと思った。

ここにコンビニがあって、チョコがあるということは、どこかでカカオを生産してる人がいる。それを運搬する人がいて、加工する人がいて、卸す人がいて、売る人がいて、それを俺が食ったわけだ。なーんだ、って感じ。

どれだけ貨幣やシステムが回って、いろんなものが見えなくなってるような気がしても、そこにはものが生えたり生まれたりして、それを育てたり殺したりする人がいて、そこから俺の口にチョコレートがつながってる。俺が食ったのだから。

誰のものでもないシステムは、実際は誰のものでもないように見えているシステムってだけであって、それは誰かたちが作っているのだ(それがいい/わるい、ということじゃなく)。

それは一種の共同体意識なのだと思う。つまり共同体を成立させるために、なんらかの行為を儀式に捧げて、それによって共同体の成立を保証する/成立が保障されている、という意識。

それは都市的で拡散してるようにみえても、村落的で濃密なようにみえても、グローバルスタンダードで曖昧で大きいようにみえても、家族的でおだやかで小さいようにみえても、「個人」ではなく、なんらかの共同体に捧げられた意識なわけだ。

そしてその意識を生産/再生産するための機構が、誰のものでもないシステムなんだと思う。そこでは個人の行為はみえにくくなってるかもしれない。でもみえにくくなってるだけで、本当はみえてないわけじゃない。

そして重要なのは、誰のものでもないシステムを稼動するために動いたり、そのなかで上手く立ち回ったりすることではなく、個人としてこの場所をホントに遊ぶことだと思う。

俺は共同性を仮設することを否定するわけじゃないけど、それが「誰でもないみんな」のためだけになるのなら、何だか奇妙なものだと思うよ。そこに何かを捧げるにしろ、そこはカラッポだ。行き先のない寄付みたいに。

そういうのもある意味おもしろいけどねw「来年のための穀物」ってそういうものだと思うし。そこらへんを色々巻き込みながら、いろいろ動いてる感じがするよ

2009年2月17日火曜日

ケーナ

今日俺は自分の笛の吹き方をみっけました。惰性や甘えでなく、シビアな遊びを遊ぶやり方です。それをしていて、自分がここにいるんだと思った。こういうのははじめてだった。きっとそこには惰性も甘えも、弱さも痛みも欲望も魅力もパイプラインも、他のいろんなものも、別のだれかもはいっていい(orはいってる)んだと思う。きっと変わるように変るでしょう。これも変わるかもですw
とりあえず、色々見落とさないようにしながら、感覚レベルを少しづつ幼いものにしてくつもりです。あ、幼い=年齢がひくい、ということだけではなく。原初的というかなんというか

2009年2月13日金曜日

無題

小難しいいいかたをすればキリがないけど、すごく雑にいってしまうなら、ここにはすごくいっぱいの因習があるように思える。
それはつまり名前のことだ。例えば世界の平和とかいうけど、それが平和という名前のための平和であるなら、そこに自分たちはいないと思う。
平和のための平和とか、争いのための争いとか、○○様のための××とか、そういうものはつまり、名前のための何かであって、自分たちの何かや、自分たちのための何かではないと思う。

俺は笛を吹くけれど(あまりうまくない)、それが上手さのための笛だったり、技巧のための笛だったり、世界観のための笛だったりするのなら、それはつまり名前のための笛なのだと思う。
そんなのはつまらない。名前がどうあろうと、そこに笛があって、真剣に遊び尽くすために身体や息を可動できないのなら、それは生きていて死んでいるような笛だと思う。

因習などに依らず、真剣に遊び尽くすこと。そうしようと思う。今までもそうしようとしてきたけど、いっぱい甘さがあった。甘えはきらいじゃないけど、甘えから生じる因習に拘束されるのは好みじゃない。
甘えとか弱さとか、そういうったどうしようもなさを含めて、色々パシッとやりたい。そのように変えていく

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因習のなかで、色々ないことにしながらでもたのしむより、俺は因習などぶち壊してみえるものをみたい。そしてどれだけシビアでもハードでも、それはできると思っている。必要な因習もあるかもしれないけど、それが必要かどうか自分の手で確かめずに、ただ従って因習のなかで飼われているのは、俺にとっては何も世界を体験できずにいる過ごし方だ

2009年1月30日金曜日

にょー

なんだかこの頃不調だったようです(ということをやっと自覚した)。
しばらく不調のなか、実感を欠いて惰性で記事かいてた気もしたから、ちょっとその記事たちは秘密の倉庫に持っていきます。
あとで復活したり、体裁をかえて復活することはあるかも・・・
うーん、不調だ。かなしす(; ;)

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追記(2/8 12:10)

この頃ブログの更新がとどこおってますが、けっして放棄したわけではありませぬ。
卒論おわってから入社までが自分にとっては長く、手を動かすにも分析するにも宙ぶらりんな状態で、フラストレーションがたまって乱調なので、そんな状態でかくのはよくないなあ、と思っているところです。
時間があいてもまたかいてくから、待ってる人も待ってない人も待っててね☆

正直ぐしゃぐしゃなのですが、思ってることちょっとだけかいとくと、どこにいったとしても、自分が生きてることや他の奴が生きてることを無いことにしたたのしさよりも、俺は自分や他の奴が生きてることを取ろうと思ってるよ

2009年1月29日木曜日

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自分が変わらないと思ってる人は、自分の行為がつねに慣例のうちにあると思ってる人だ。だけど慣例を設定しているのは当の本人で、その設定を解除すれば「慣例のうち(うち側?)」もなくなると思う。

しかし結局そういう奴の多くは慣例のうちに自分がとどまるものであることを望んでる。彼らは慣例に構ってもらって、庇護してもらうのが好きで、自分でその外をみようとはしない。

彼らは変わらない。外との遭遇のなかに、ものが変わることがあるのに、それを慣例への盲信という蓋で塞いでるから。彼らには慣例への期待だけがあって、自分の期待も自分のリアリティも希薄な感じがする。

そこにあるのは慣例ではなく、慣例への期待なのだと思う。誰かがいってた神や国境や規範や常識が、今でもあるんじゃないか、という期待。だからホントは、そこに期待することは、慣例への期待に期待しているということだ。

それはユートピア信仰なのだと思う。そしてユートピア信仰の本質は「ずっとスネをかじっていたい願望」なんだと思う。

「○○だから××するんだよ」という言葉のうちにあるのが、「○○」というものが十全に成り立つ世界の願望と、それが起こるか起こらないかわからない世界からの逃避であるように、彼らは「自分が判断しなくても○○が成り立つ世界」や、「自分が判断しなくても○○が成り立つ世界を構築してくれる誰か」のスネをずっとかじり続けたがってるのだと思う。

だけどスネをかじれるのは、スネをかじらせる誰かがいるからだ。だけどスネをかじってする味は「スネの味」だけだ。他の味が知りたいなら、まずスネをかじるのをやめて、自分でつくるとこからだと思う。

【追記】
そして、それが成り立つための「受け入れ皿」としてのシステムというのは、全然アリな気がする。でもそれは、ずっとい続けるところじゃない感じがする。よくわからないけど、それも少しづつ変わったり変えたりしてくというか

2009年1月28日水曜日

ポジティブなこと

どうもポジティブなのが好きなひとがいるらしい。彼らはポジティブな身体が好きだ。そしてネガティブな身体を否定する。だけど俺にとっては悲しいこと、たのしいこと、ポジティブなこと、怒ること、ネガティブなこと、うつろなこと、そういうことがちゃんとおきることがポジティブなことであって、1つに拘束された身体はポジティブではなく「ポジティブさの幻想」に押し潰されて、それが望むように変わることを妨げられているのだと思う。

ポジティブさをどんな言葉に置換しても、ある何かをよきものとして、そこに身体を引きつないでしまうのは、どっか奇妙な感じがする。特にそれが、不必要そうに思える場合は。それは麻痺や横暴や逃避というかたちであらわれるのかもしれないけど、そのどれも俺には奇妙に感じる。

ポジティブなだけ、という意味ではないポジティブさに向かう積極性を欠いて、その行為を慰めてくれる「構ってくれる相手」が欲しいだけじゃないか、と。弱さは構わない。というか弱いありようだってある。だけどその弱さに向き合わないのは、「弱さ」ではなく、「向き合うことの先送り」という偽りではないかと感じる。

腹が立つことも沈むことも悲しいこともあるだろう。だけどそれを否定するのは、身体の否定だと思う。そしてそのように否定された身体は、うれしくなったり夢をみたりわくわくしたりすることも、同時にどこかで否定された身体になるんじゃないかと思う。大事なことは、弱さも愚かさも醜さもコミで、自分の身体をあることにすることだと思ってる。そういうとこからはじめるのがいい。いつだってそれがいい。(何かのせいにして、ある身体を無いことにしたり先送りしたり殺したりするのではなくて)

2009年1月27日火曜日

排水路2

とにかく、言葉があまりにも身体とかけはなれてしまったんだろう。

何かの名前と、何かが結びついてるのは、記号的なものではなく、身体がそこを緊張させているからだ。緩めないで、弛緩させないでるから、ずっと緊張させて結び付けているから、何かの名前と、何かが結びついているように振舞うんだろう。

弛緩したときの身体からでるものと、その緊張のへだたりが、身体と言葉とのへだたりなんだろう。だってその言葉をつなぐ緊張、がいつもいつも選び取られるなんて、多くの場合はとても不自然だもの。その言葉が、そう選び取られるように、そう発せられるように、結びつくのなら、それはそのときはじめて選び取られたものとして選び取られるんだと思う。

鳥の求愛ダンスが、求愛してるときに選び取られる踊りであるように。求愛していないのに踊られる求愛ダンスが、求愛ダンスではないように、それを選び取るように選び取られていない言葉は、身体から生じたものではない。

身体は弛緩するし、壊れるし、夢もみるし、緊張もする。いろんなことになる。それをずっと緊張したとこにつなぎとめておくのは、どこか間違っている。そこには強制された緊張が先行してる。

記号的価値、貨幣的価値が、そういう強制された緊張が先行したとこの価値なら、そこには身体にとっての価値は、身体が緊張する程度にしかないんじゃないかと思う。そこには弛緩したり、壊れたり、夢をみたり、ねじれたり、重くなったり、ふわふわしたり、気持ち悪くなったりする身体にとっての価値がないんじゃないのか。

それは経済なのだろうか。通貨なのだろうか。緊張する身体にとってだけの経済では、そうではない身体が見過ごされていたり、殺されていたりすると思う。そういう緊張した身体にとってだけの経済より、もっといろんな身体とつながったいろんなものがあるよ。

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俺が遊び場を自分で得るんだ、といってるのも、こういうことと関係あるんだろう。

システムに庇護されて、システムがくれたベッド、靴、服、とかに合わせて、ベッドから足がはみ出ながら、靴でつま先が変形しながら、服で肩が凝り続けながら、それでもそこに合わせてしまった身体は悲しいと思う。

システムがいいだした「物語」のピースになって、それを全うしたときに生きるのはシステムであって(あるいは何も生きずに)、身体ではないと思う。そして生きられなかった身体は不幸だと思う。

システムからは逃れられないんだ。システムの庇護がないと生きていけないんだ。自分ではなくシステムこそがいいんだ。そういうことを「閉じたドア」にして、システムに守られて/閉じ込められて、あるいは閉じ込められることを自分から選んで、一生をシステムという(自分で「閉じたドア」をつけた)部屋のなかで過ごす身体は残酷だと思う。

そういうんじゃないと思ってる。少なくともそれだけじゃないと思ってる。だから俺はこれまでシステムに取り込まれないよう緊張して、警戒したり分析したり試行錯誤したり変わったりしてきた。

でもとっても疲れました。がんばったよ。「疲れた」っていってやすみはじめても、システムにほいほい取り込まれないとこまでこれたし。だから休みます。自分で遊び場にいくためにやることがまだあるけど、休んでまた遊びたい。いっぱいいろんなことしたい

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【以前のmemo】

生きた世界と不必要に隔絶した身体じゃ、たぶんパシッとは遊べない

「主人」の設定とそれへの隷属が、実体のない分業の正体なのだと思う

与えられた場で遊ぶ、というのは、どこかでシステム的外部が基準になっている感じがする。まだここのとこよく分からないけど

結んで開いて手を打って結んで、とあるけど、何かを結んだり開いたりするより、自分が結ばれたり開かれたりするものでいる方がいい

2009年1月26日月曜日

排水路

豚は食べてヒトは食べない。これは差別だと思う。
新鮮なものは食べて腐ったものは食べない。これは差別だと思う。

そのように、身体は差別するんだと思う。差別していることをないことにして、「衛生」なフリをして、「汚さ」は排水路に流してしまうというのは、自分の差別する身体から目をそらしているのだと思う。
俺は差別する身体も、老いる身体も、汚れる身体も、それで構わないと思う。

目をそらされた身体は不幸だ。それは目をそらされた分だけ、生きていることを無いことにされた身体になるからだ。

ちなみによくいわれる「差別」は、あれは多分ほとんどが「偏見」のことだと思います。俺は偏見はあまり好きじゃない。それは自分の身体でそれを体験せず、ただ伝え聞いた図式にのっとって処理しているから。

しかし生きてることをあることにされてる身体のがいいよ。俺はそう思う。

寒い日、雨の日

寒い日のあさ


小雨がふってる

遊び場のこと

どうも自分が過ごした家庭はアホだったようで、そこで俺は「keroはいい学校いっていい生活送るんだよ」みたいなこといわれてた(気がする)。

しかしいい生活ってなんだろう。例えば誰かがつくってくれてる学校のうち「いい学校」にいく。誰かがつくってくれてる経済のうち「いい会社」にはいる。誰かがつくってくれてる「国家」のなかで、平穏にすごす。俺がいわれたことはそのようなことに思える。

それはつまりシステムや遊び場や経済をつくってくれてる「誰か」におんぶにだっこで、自分は彼らのいうこときいて、平穏無事に暮らしなさいってことなんだろうか。

「いわゆる東大にいく」とか、「いわゆるエリートになる」とか、そんな話が過去のものだとしても(実体は知らん)、そういうのってつまり「システムをつくってくれる誰か」が囲っている奴隷のなかで、いちばん待遇のいい奴隷になりなさい、っていう話と似てる気がする。

そんなんじゃないじゃん。そんなのアホじゃん。それって「誰かがつくってくれるシステム/物語」の「コマ/キャラクター」として生きるだけで、自分自身の当事者じゃないじゃん、って思う。

どっかに主人をつくって、自分をその奴隷ということにして、主人が与えてくれるもののなかで生きるのなんて空っぽじゃん、と俺は思います。俺は主人が与えてくれたなかで最上の遊びをとるより、自分で漁場にでかけて(でかけて、って隔絶ある感じで変だけど)、そこで遊ぶ方が好きだ。それが遊び場の1つのフェーズだし、それを欠いた遊び場はおよよって感じがする(*)。


*:それは、自分を当事者としない「誰か」がつくってくれた遊び場みたいな感じがする。そしてその場は「その誰か」を閉じたドアにした、閉鎖された部屋みたいな匂いがする。すくなくとも今の印象だけど、部屋の外で遊びたいなら、そのドアを開けないといけないと思う。それは「つくってもらっていた遊び場」が崩れることかもしれないし、そうでないかもしれないけど。でも「誰か」を「閉めっぱなしのドアに」して、そのなかで遊び続ける、というのは俺にはどっか気持ち悪い(自分がそのドアになるとかも何だかであるよ)。守られてるんだか閉じ込められてるんだか胡散臭い感じ

2009年1月24日土曜日

memo

奴隷をつかって確保された遊び場なんて遊び場じゃない。
貴族の遊び(*)は、生活と隔絶した身体の遊びだと思う。
だけどその隔絶してる部分は、問題なく隔絶してるんじゃなく、奴隷に丸投げされてるだけだ。つまり奴隷がその貴族と生活との隔絶をつなぐ役割になっている。貴族にとって。
それは奴隷に隷属した、あるいは奴隷から搾取しているようで奴隷に搾取された身体のあり方だと思う。
奴隷が「(遊び場を)くれないと」、遊べない身体。誰かが「(場所や何かを)くれないと」遊べない身体。そんなものはクソくらえだ。
遊び場は、どこかの権威/奴隷/システムからもらうものではなく、基本的に作るもの、得るもの、ひらくものだと思う。

*:例えば、労働はバルバロイにまかせて、自分たちは哲学だかなんだかやってたギリシャ人は、奴隷が与えてくれた「場所」で生きたわけだ。他にもあるけど、例えば働くだけ働いて「余暇」で遊ぶというのは、「働いた自分」が与えてくれた「場所」で遊ぶってことだ。だけどそれは、生活とか労働とかと隔絶しないと遊べない、って話じゃんと思う。でもそれってちがくないか

生活とか労働と隔絶した遊び、という点で、俺は「(「親」に庇護されたなかだから遊べる)子ども時代」というのも好きじゃない。「奴隷」「働いた自分」「親」「システム」、そんなのに庇護を受けないと遊べないような気持ちで、ここでパシッと遊べるとかいうなんてどうなの、と思ってしまう

生活も働くのも遊びも、身体と世界との隔絶のなさのなかで生じてる、と思う。逆、つまり遊ぶから世界と隔絶がないとかじゃなくて。
働く身体と遊ぶ身体を「分業」みたいにわけてしまうことは、身体と世界との隔絶のなさを遠ざけてしまうことだと思う。

2009年1月22日木曜日

計画ほか(分業⑪)

なんだかきのうから沈んでいます。休み時期とかぶって低調なかんじ。
こんなときはかんたんに凹むです。ペコ。

自分のなかに何かの計画や図式や信仰があるとしても、それとリアリティは別だと感じる。
例えば○○が欲しいといっても、それは用意されてるわけじゃないし、AならばBなんだといっても、それも用意されてるわけじゃない。インフラがどれだけ整えられても、それは整えたから整えられたもので、はじめから用意されてたわけじゃない。

そういうのが分かんなくなると、なんでAしたのにBがないんだよ、って話になっちゃう。でも色んなものが用意されてないとこで、どうやって手を動かすかとか、それをどう体験するかとか、そういうことを欠いてしまうなら、それは用意された計画とか図式のなかで過ごすことになると思う。

何かが欲しいとか、こうなったらいいなっていうのはいっぱいあるけれど、それが投影できるものってのは、自分を構ってくれるものだ。それって甘えっていうか、甘えていることに甘えてる感じがするよ。

言葉が通じる世界、数式が通じる世界、科学が通じる世界、そういうのはあるかもしれないけど、自分が望むそれを投影しないとやってけないよっていうのはヘンテコな感じ。自分が投影したいものがもたらされるんじゃないか、っていう図式のなかからでられてないっていうか。

全然話はとぶけど、俺は来年度から働きます。で、働くための過程で就活しました。なんで就活ってあるんだろう。いやあってフツウだと思うんだけどさ。
俺が疑問なのは、大卒じゃないとダメとか、高卒じゃないとダメとか、そういう条件が就活にあったことです。

大卒じゃないとダメっていうのは、企業の側が大卒を望んでるということだ。それは大学というシステムが運営されていることを前提とした望みだし、ひいては大学を取り囲む教育とか産業とか経済とか国家とかが、なんらかの基準に基づいて運営されてることを前提とした望みだと思う。

企業の側で何を望もうと別に構わないけど、そういうシステムが、働くことの条件に組み込まれているっていうのが、なんだかフシギだなあと思った。

つまり働きたいなら、大学に入らなければならない。あるいは、大学という機構を運営している国家、が設定している機関(つまり大学のことだけど)に入らなければならない、ってなってる。それって、働きたいなら国家の定める条件を満たさないと働けないってことだ。

これがなんでだろって感じ。それは自分で漁や狩りをしたくても、どっかのシステムが定めた基準を満たさないと、漁場や狩場にでむけないってことだと思う。それって自分で生きようとすることが、なにかのシステム、あるいはどっかの誰かが決めたシステムの審査を経ないと、やってはいけないことになってる、ってことだと思ったよ。

誰かに「きみは生きていい」っていわれないと、生きられないなんて奇妙だ。その誰かを、自分の内面に打ち込むような真似をして、そこからの声をきかないと何かできないってのも、同様に奇妙だと思う。

俺の意見では、ここはそんなところじゃない。少なくとも、基本的に根本的に基底的にはそんなところじゃない。そこで体験するものを体験することが、自分の側にないなんてどっかヘンテコ。システムがどのように機能していても、そこでの体験も、手を動かすことも、漁をすることも、生きようとすることも、基本的には自分の側にあると思う。

この辺は複雑で、近代の工業化とか、意識の問題とか、経済のナンタラとかいっぱいあるんだろうけど、でもそんな複雑なことをゴタゴタやるまでもなく、基本的には起きることの当事者でいないならどうしようもないと思う。

就活での機会の与えられ方が、どう転んでも不均等であるとは思うけど、とりあえず俺は機会を得たので、パシッとやろうと思ってるよ。もう話は、システムをどう上手く誤魔化しながら転がすかじゃなくって、どうやってここを、当事者として体験したり感じたり変えたり変わったりするか、ってのになってると思う。

それは個人レベルだけじゃなく、たぶんもっとずっと広いレベルで。でもそれを「全体がこうだから個人もこう」って話すならやっぱりちょっと捉え方が違うと思うけれど。とにかくできることをやること。できることからやることが大事、だと俺は思う。

そんなことを思ったよ。低調だけどwでもいちおう元気です☆

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そういえば働き始めが近いから、はじめの気持ち(?)みたいなものを。
とりあえずはじめは「金をみるな、魚をみろ」って感じでいこうと思ってます(゜ー゜☆)

2009年1月21日水曜日

情報産業(分業⑩)

情報管理業者は儲からない。と俺は思ってる。
いや実際には儲かるんだけどさ、きっと。

情報管理業者ってのは、例えば羊が何頭いて、何頭生まれて、何頭殺して、何頭運ばれたかを書きだして保存したり渡したりする業者のことだ。
それはでも、羊がいなければ儲からない。羊がいて(魚でもいいけど)、それが生まれたり殺されたりして、それを運んで口に入れるとか、そういうことがないと儲からない立場にあるわけだ(と俺は思う)。

だから情報管理業者は、二次情報を扱う立場だ。そして二次情報は、羊が生きてること、それに手を下したりして殺すこと、それを食べること、そういう一次情報の上で成り立っている。

羊ってのはなんでもいいです。たとえば遊ぶこと、たのしいこと、何かが失われたこと、そういうことが当事者に起きたとき、そこでは一次情報が発生する。それが「羊」だと俺は思う。つまり比喩なんだけどね。

だけど二次情報業者が儲かるのは、どこかに一次情報者がいるからだ。でないと二次情報なんて基本的には空っぽの意味しかない。

でも二次情報業者はいる。それは全然いいと思う。だってそういうのって便利だから。必要じゃないかもしれないけど、ものすごーく便利で、その便利さを必要性と同義にしてもいいと思っちゃうくらい便利だから。

だけど二次情報業が一次情報なしで成立すると思ったとき、あるいは貨幣や金融が羊や魚なしで価値をもつと思ったり思い始めたとき、それはどっかでヤバいことになってる感じがする。

そのヤバさは色々な言い方があるんだろうけど、その一つとして、リアリティの欠如があると思う。つまり神様とか(俺は別に宗教反対ではないけれど)、○○様とか、××様が、ではなく、当事者としての自分が、生きた世界を生きる、ということから隔絶してしまう、ということだと思う(*)。

それは価値観の問題かもしれない。だって別に生きた世界なんてどうでもいいヒトなんていっぱいいるだろうし。でももっと直裁にいうなら、それは自分の手を動かすことが、自分が生きていくことと無関係になってしまうことだと思う。それは自分で飯をくえないってことだ。そんな風になるのは問題だ、と俺は思うよ。

どっかのだれかが作ってくれた国家とか経済とかシステムにのって、意味わかんないで収奪して、生計が成り立ってるならそれでいいのかもしれないけど、それだといつかシステムを食いつぶす(かもしんない)。それはシステムに自分が食いつぶされてるのと同じことで、そしてもっと間抜けなことというか、結局は自分で自分の遭遇や体験を食いつぶしてるんだと思う。

*:この辺、自分の捉え方が雑すぎて泣きそうになるんだけど、でも「固定された価値観」とは分業できないんじゃないか、って思うんです。それはこっちがスポイルされるだけになるんじゃないかと思う。
分業が細分化して大規模化して、そういうところがすごく見えにくくなってるけど、でもそこを見逃したらすごくいろんなことがダメな感じにならないのか。むむむー、よくわからん(T_T)

memo

進化とは、たぶん突き詰めれば変わることではなく、変わるなかで「変わり方が変わる」ことだと思う。
べつに大仰なことじゃなく、言い換えれば遊びって遊ぶことだけじゃなく、遊ぶなかで「遊び方が変わってく」ことだと思う。いや分かんないけど。

シュヴァンクマイエルが「ナントカとは母なる自然にも抗うことです」みたいなこと言ってた(内容は忘れた)けど、俺なりに解釈するとそういうことだと思う。
生きものってのは自然に逆らうものだ。そして生きものは「自然な」ものだと思う。「自然」がどういう意味かなんてのはさておき。

それは矛盾してるようで両立する。つまりそれは、今までの「自然」の変わり方ではない変わり方で変わろうとするものだと思う。それってある意味では遊びと同じだ。感覚の変化をたのしむこと。気持ちよさを確かめること。パシッとやろうとすること。そういうなかでなにかが変わること。

それはおもしろいと思う。少なくともおもしろいことの一つだと感じる

計画と分業(分業⑨)

「計画」と分業なんかできない。どんなに上手くできた計画でも、それは本人のなかにしかない。自分と分業するなんておかしな話だ。いやできるんだけど。例えば昼はA夜はBみたいなのとか。でもそれって、自分の領域を分断してるだけだろ、って思う。

その場合は、その領域を分断してるラインと分業してる、ってことになる。でもそのラインを持ち込んでるのも自分だから、やっぱりそこは上手くいってない。

それは結局「こういう計画があるんじゃないか」「こういうラインがあるんじゃないか」っていう自分の期待を投影できる場所をつくって、その場所と分業してる、ってことになると思う。

でもそれって期待の投影が成立するっていうとこからの行為じゃん、と思う。期待自体は嫌いじゃないけれど、それが「成立する」っていいだしたんなら証拠見せろよって思う。

で、「証拠」ってのは常に自分以外の何かだ。だったらそれが無い以上、やっぱりそれは自分の期待に期待してる構図にしかならないんじゃないかと思っちゃう。

それはすごく間抜けな話だと思う。期待に期待してる時間があるなら、ものを見ろよっていう。
そして期待に期待してる分だけ、自分とものとが隔絶するっていうのがどっかで発生する気がする。

それがスポイルだと思う。「期待への期待」によって、自分と世界が遮断されるっていうスポイル。あるいは他者と他者との世界を分断/遮断してしまうというスポイル。
そういうのっていっぱいある、金融とか。これは俺がいったことじゃないけど「訪れないかもしれない未来の約束の為に、ときには命すら賭ける」というのは確かにすごいかもしれない、実際に。金融とか貨幣ってそういうものだと思う。

貨幣は魚とかの代替物であると同時に、次の魚の代替物でもある。だっていま俺のサイフのなかに入ってる100円玉って、品物と交換されるまで無意味だもん。それは誰かがとってくれるかもしれない「次の魚」のために、コンビニにいけば「きっと」あるおにぎりのために、「来年度」の住居のためにカタチになっている、期待のこめられた代替物であるわけだ。

でもそれが期待の期待になったとたんダメになるものがある。「俺は金もってるんだから魚よこせよ」って不漁のときにいってもダメなわけだ。魚が不漁なら金は役に立たない(だからレートとかあるんだろうけど)。そういう不漁みたいなときにあからさまになるものってあるし、実際分業できるのはそこであからさまになるものが中心になる気がする。

どれだけ「上手い」計画でも、それへの期待は「期待への期待」だ。それはものが動かなかったらやっぱダメだと思うんだ。期待があることや、期待に思わず期待してしまうことや、経済のある面がそういうとこで動いてしまうとこもあるのかもしれないけど、やっぱそこでものや魚を見失ったら行き場が無いと思う。魚を欠いた、期待への期待に取り囲まれただけになってしまうというか(それが信仰になって固定されたなら悲惨すぎる)。

だからどうすんの、って言われても分かんないんだけど、とりあえず魚は見失わないようにしようと思う。そういうとこ(魚があるとこ)で動く体験っていうのは、他にどれだけのものがあっても、見失っちゃいけないんじゃないかと思う。

感覚の気持ちよさってすげえ大事だ。俺にはめっちゃ大事。でも魚を見失ったとこにある感覚の気持ちよさは、どっかで行き場が無いと思う。閉鎖的だったり、隔絶的だったりすると思う。そこを抜いた気持ちよさは、やっぱダメじゃん、と思うのです(生きた身体や世界を生きることとかってどうみても暴力だけど、そこから隔絶してしまうことは、一見衛生的にみえても、暴力以上に暴力的だと思うんだ。間抜けだし悲惨すぎる(*))。

*:例えば自分のなかにどれだけ「きれいな人間」像もってたとしても、実際のそれは糞便も垂れ流すし、痴呆にもなるし、壊れもするし、死にもするわけだ。そういうことに直面したなら、やっぱそういうものじゃない、って思うし、そのとき生きた身体は変わるように変ると思う。こういうのがキツい例えだとしても、よろこびとか悲しさとかうれしさとか欲望とか馬鹿馬鹿しさとかも、それと同じフェーズにあるんじゃないかと思うよ。

2009年1月20日火曜日

charleston style

なんか気持ちイイw

2009年1月12日月曜日

魚(分業⑧)

魚を1匹とったら、そこには魚1匹の価値しかでてこない。どれだけ中間卸売業者が入っても、流通するのは魚1匹分の価値だけだ。誰かが「この魚は2匹だよ」とか「0匹だよ」っていっても、そこにあるのは魚1匹。

魚は餌場で獲れる。餌場じゃないと魚は獲れない。
というか、魚が獲れる場所が餌場になる。

自分で魚を獲れれば、俺は餌場にでむけてる、ということになる。自分で魚を獲れないのなら、俺は餌場にでむけてない、ということになる。

餌場に自分ででむけてない場合、誰かが獲った魚をもらわないと、俺は飯がくえない。自分で魚が獲れない場合、いま何匹魚が獲れたのか分からない。魚を管理してる奴が「2匹だ」っていったら2匹かなと思うし、「0匹だ」っていったら0匹だと思う。

自分で餌場にでむけてない場合、俺は魚を管理してる奴から魚をもらうことになる。それはタダでくれるかもしれない。タコ踊りをしたらくれるかもしれない。召使をしたらくれるかもしれない。お使いにいったらくれるかもしれない。
だけどそこで俺が取る行動は、餌を獲る行動とは直接関係ない行動だ。つまり、魚を管理してる奴の意向に沿った行動だ。

そのとき俺は魚とバトルできてない。餌場で手を動かせてない。餌を獲るのに必要な、いいこともやなこともやれてない。ただ魚を管理してる奴の意向に沿った、いいことや、やなことをやって魚を貰ってるだけだ。

餌を獲ること、餌を食うことは、俺の生活だ。そして魚を管理してる奴の意向に沿わないと魚が食えないとき、俺の生活はそいつに管理されている。管理された生活に、俺の手は無い。俺の脚も無いし、俺のアタマもない。ただ管理してる奴の意向に沿った俺がいるだけだ。

大事なことは自分の生活空間と餌場をきちんと結ぶことだ。管理してる奴とか中間業者の「いまは魚はないよ」「まだいっぱいあるよ」という嘘にだまされないことだ。自分で餌場で魚を獲れるようになって、管理してる奴に、魚を盾にえらそうなフリをさせないことだ。貨幣に価値はなく、魚にこそ価値があると知ることだ。

そして魚はいっぱいある。豚もコメもエンジンもコンピューターもゲームも音楽もファッションも「魚」だ。その餌場と自分の生活空間をきちんと結ぶこと。大量の貨幣ではなく、「魚」の摂取にこそ価値があるのだということ。「魚」の摂取に関係ない流通は意味がないということ。「魚」が1匹獲れたなら、その価値は0匹分や2匹分の価値ではないこと。

そういうことをきちんと分かろうとかやろうと思う。それが伴わない経済なんか空虚だし、それが伴わない行動なんか空っぽだ。そこには何も流通していない。大事なのは魚が流通することをやることだ。それは自分で餌場にでむくことだし、自分で魚を獲るためのアクションをすることだ。

2009年1月9日金曜日

無題(分業⑦)

暴力と隔絶の無い日常が好きだ。そしてそれ以外のことは、ほとんどどうでもいいか、全くどうでもいいのだだと感じる。

ある種の金持ちの人は、俺にとっては不思議だ。「金持ち」というのは貨幣でも、本でも、CDでもいいのだけど。彼らはいっぱい「貨幣」を持っていたり、それを動かしていたりする。言い換えれば貨幣が彼らを通過する。だけどそのときに、通過した貨幣に見合った身体の変質が彼らには起きない。

山ほどの貨幣をただ使うだけ。本を読むだけ。CDを聴くだけで、そこに身体の変質がないのなら、それは何も無いというより、身体が貨幣や文字や音楽と隔たっている。

それは世界に触れたときの暴力から隔絶しているということだと思う。どれだけのものがあったとしても、そこに身体の変質がないのなら、それは自分と世界が隔たっているということだと思う。そしてそのように過ごされた時間は、ホントに空っぽの時間だ。

その空っぽさは、スポイルされた空っぽさだと思う。つまり貨幣や文字という、基本的には空っぽのハコをあっちからこっちへ流して、何かした気になってるだけのものだと思う(だけどそれは「あっち」とか「こっち」にスポイルされただけの、実際「自分」には何も起きなかった時間だ)。

俺は暴力と隔絶の無い日常が好きだ。それが特別なことが何も無く、その意味で空っぽに感じられるものだとしても、俺にとってはそこで起きることが俺に起きることだからだ(*)。

そういうことを重ねたり行ったりすること以外に重要なことなんて無い気がする。そういうときにあらわれる世界以外に意味のある世界なんか無い気がする。そういうことをしていこう。そうしよう。


*:そういうところで起きたもののうちに貨幣や文字が含まれたなら、そのときそれらは、それが持つ程度の意味を持つのだと思う。

2009年1月1日木曜日

明けまして




おめでとうございます。

写真は実家@東京の軒先からみたものです。空が青いぜー!
人為的な区切りだろうと、元旦はやっぱ新しいっすね。
今年もどうぞよろしくお願いします(゜∀゜+)