なんだかこの頃不調だったようです(ということをやっと自覚した)。
しばらく不調のなか、実感を欠いて惰性で記事かいてた気もしたから、ちょっとその記事たちは秘密の倉庫に持っていきます。
あとで復活したり、体裁をかえて復活することはあるかも・・・
うーん、不調だ。かなしす(; ;)
+++
追記(2/8 12:10)
この頃ブログの更新がとどこおってますが、けっして放棄したわけではありませぬ。
卒論おわってから入社までが自分にとっては長く、手を動かすにも分析するにも宙ぶらりんな状態で、フラストレーションがたまって乱調なので、そんな状態でかくのはよくないなあ、と思っているところです。
時間があいてもまたかいてくから、待ってる人も待ってない人も待っててね☆
正直ぐしゃぐしゃなのですが、思ってることちょっとだけかいとくと、どこにいったとしても、自分が生きてることや他の奴が生きてることを無いことにしたたのしさよりも、俺は自分や他の奴が生きてることを取ろうと思ってるよ
2009年1月29日木曜日
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自分が変わらないと思ってる人は、自分の行為がつねに慣例のうちにあると思ってる人だ。だけど慣例を設定しているのは当の本人で、その設定を解除すれば「慣例のうち(うち側?)」もなくなると思う。
しかし結局そういう奴の多くは慣例のうちに自分がとどまるものであることを望んでる。彼らは慣例に構ってもらって、庇護してもらうのが好きで、自分でその外をみようとはしない。
彼らは変わらない。外との遭遇のなかに、ものが変わることがあるのに、それを慣例への盲信という蓋で塞いでるから。彼らには慣例への期待だけがあって、自分の期待も自分のリアリティも希薄な感じがする。
そこにあるのは慣例ではなく、慣例への期待なのだと思う。誰かがいってた神や国境や規範や常識が、今でもあるんじゃないか、という期待。だからホントは、そこに期待することは、慣例への期待に期待しているということだ。
それはユートピア信仰なのだと思う。そしてユートピア信仰の本質は「ずっとスネをかじっていたい願望」なんだと思う。
「○○だから××するんだよ」という言葉のうちにあるのが、「○○」というものが十全に成り立つ世界の願望と、それが起こるか起こらないかわからない世界からの逃避であるように、彼らは「自分が判断しなくても○○が成り立つ世界」や、「自分が判断しなくても○○が成り立つ世界を構築してくれる誰か」のスネをずっとかじり続けたがってるのだと思う。
だけどスネをかじれるのは、スネをかじらせる誰かがいるからだ。だけどスネをかじってする味は「スネの味」だけだ。他の味が知りたいなら、まずスネをかじるのをやめて、自分でつくるとこからだと思う。
【追記】
そして、それが成り立つための「受け入れ皿」としてのシステムというのは、全然アリな気がする。でもそれは、ずっとい続けるところじゃない感じがする。よくわからないけど、それも少しづつ変わったり変えたりしてくというか
2009年1月28日水曜日
ポジティブなこと
どうもポジティブなのが好きなひとがいるらしい。彼らはポジティブな身体が好きだ。そしてネガティブな身体を否定する。だけど俺にとっては悲しいこと、たのしいこと、ポジティブなこと、怒ること、ネガティブなこと、うつろなこと、そういうことがちゃんとおきることがポジティブなことであって、1つに拘束された身体はポジティブではなく「ポジティブさの幻想」に押し潰されて、それが望むように変わることを妨げられているのだと思う。
ポジティブさをどんな言葉に置換しても、ある何かをよきものとして、そこに身体を引きつないでしまうのは、どっか奇妙な感じがする。特にそれが、不必要そうに思える場合は。それは麻痺や横暴や逃避というかたちであらわれるのかもしれないけど、そのどれも俺には奇妙に感じる。
ポジティブなだけ、という意味ではないポジティブさに向かう積極性を欠いて、その行為を慰めてくれる「構ってくれる相手」が欲しいだけじゃないか、と。弱さは構わない。というか弱いありようだってある。だけどその弱さに向き合わないのは、「弱さ」ではなく、「向き合うことの先送り」という偽りではないかと感じる。
腹が立つことも沈むことも悲しいこともあるだろう。だけどそれを否定するのは、身体の否定だと思う。そしてそのように否定された身体は、うれしくなったり夢をみたりわくわくしたりすることも、同時にどこかで否定された身体になるんじゃないかと思う。大事なことは、弱さも愚かさも醜さもコミで、自分の身体をあることにすることだと思ってる。そういうとこからはじめるのがいい。いつだってそれがいい。(何かのせいにして、ある身体を無いことにしたり先送りしたり殺したりするのではなくて)
ポジティブさをどんな言葉に置換しても、ある何かをよきものとして、そこに身体を引きつないでしまうのは、どっか奇妙な感じがする。特にそれが、不必要そうに思える場合は。それは麻痺や横暴や逃避というかたちであらわれるのかもしれないけど、そのどれも俺には奇妙に感じる。
ポジティブなだけ、という意味ではないポジティブさに向かう積極性を欠いて、その行為を慰めてくれる「構ってくれる相手」が欲しいだけじゃないか、と。弱さは構わない。というか弱いありようだってある。だけどその弱さに向き合わないのは、「弱さ」ではなく、「向き合うことの先送り」という偽りではないかと感じる。
腹が立つことも沈むことも悲しいこともあるだろう。だけどそれを否定するのは、身体の否定だと思う。そしてそのように否定された身体は、うれしくなったり夢をみたりわくわくしたりすることも、同時にどこかで否定された身体になるんじゃないかと思う。大事なことは、弱さも愚かさも醜さもコミで、自分の身体をあることにすることだと思ってる。そういうとこからはじめるのがいい。いつだってそれがいい。(何かのせいにして、ある身体を無いことにしたり先送りしたり殺したりするのではなくて)
2009年1月27日火曜日
排水路2
とにかく、言葉があまりにも身体とかけはなれてしまったんだろう。
何かの名前と、何かが結びついてるのは、記号的なものではなく、身体がそこを緊張させているからだ。緩めないで、弛緩させないでるから、ずっと緊張させて結び付けているから、何かの名前と、何かが結びついているように振舞うんだろう。
弛緩したときの身体からでるものと、その緊張のへだたりが、身体と言葉とのへだたりなんだろう。だってその言葉をつなぐ緊張、がいつもいつも選び取られるなんて、多くの場合はとても不自然だもの。その言葉が、そう選び取られるように、そう発せられるように、結びつくのなら、それはそのときはじめて選び取られたものとして選び取られるんだと思う。
鳥の求愛ダンスが、求愛してるときに選び取られる踊りであるように。求愛していないのに踊られる求愛ダンスが、求愛ダンスではないように、それを選び取るように選び取られていない言葉は、身体から生じたものではない。
身体は弛緩するし、壊れるし、夢もみるし、緊張もする。いろんなことになる。それをずっと緊張したとこにつなぎとめておくのは、どこか間違っている。そこには強制された緊張が先行してる。
記号的価値、貨幣的価値が、そういう強制された緊張が先行したとこの価値なら、そこには身体にとっての価値は、身体が緊張する程度にしかないんじゃないかと思う。そこには弛緩したり、壊れたり、夢をみたり、ねじれたり、重くなったり、ふわふわしたり、気持ち悪くなったりする身体にとっての価値がないんじゃないのか。
それは経済なのだろうか。通貨なのだろうか。緊張する身体にとってだけの経済では、そうではない身体が見過ごされていたり、殺されていたりすると思う。そういう緊張した身体にとってだけの経済より、もっといろんな身体とつながったいろんなものがあるよ。
+++
俺が遊び場を自分で得るんだ、といってるのも、こういうことと関係あるんだろう。
システムに庇護されて、システムがくれたベッド、靴、服、とかに合わせて、ベッドから足がはみ出ながら、靴でつま先が変形しながら、服で肩が凝り続けながら、それでもそこに合わせてしまった身体は悲しいと思う。
システムがいいだした「物語」のピースになって、それを全うしたときに生きるのはシステムであって(あるいは何も生きずに)、身体ではないと思う。そして生きられなかった身体は不幸だと思う。
システムからは逃れられないんだ。システムの庇護がないと生きていけないんだ。自分ではなくシステムこそがいいんだ。そういうことを「閉じたドア」にして、システムに守られて/閉じ込められて、あるいは閉じ込められることを自分から選んで、一生をシステムという(自分で「閉じたドア」をつけた)部屋のなかで過ごす身体は残酷だと思う。
そういうんじゃないと思ってる。少なくともそれだけじゃないと思ってる。だから俺はこれまでシステムに取り込まれないよう緊張して、警戒したり分析したり試行錯誤したり変わったりしてきた。
でもとっても疲れました。がんばったよ。「疲れた」っていってやすみはじめても、システムにほいほい取り込まれないとこまでこれたし。だから休みます。自分で遊び場にいくためにやることがまだあるけど、休んでまた遊びたい。いっぱいいろんなことしたい
+++
【以前のmemo】
生きた世界と不必要に隔絶した身体じゃ、たぶんパシッとは遊べない
「主人」の設定とそれへの隷属が、実体のない分業の正体なのだと思う
与えられた場で遊ぶ、というのは、どこかでシステム的外部が基準になっている感じがする。まだここのとこよく分からないけど
結んで開いて手を打って結んで、とあるけど、何かを結んだり開いたりするより、自分が結ばれたり開かれたりするものでいる方がいい
何かの名前と、何かが結びついてるのは、記号的なものではなく、身体がそこを緊張させているからだ。緩めないで、弛緩させないでるから、ずっと緊張させて結び付けているから、何かの名前と、何かが結びついているように振舞うんだろう。
弛緩したときの身体からでるものと、その緊張のへだたりが、身体と言葉とのへだたりなんだろう。だってその言葉をつなぐ緊張、がいつもいつも選び取られるなんて、多くの場合はとても不自然だもの。その言葉が、そう選び取られるように、そう発せられるように、結びつくのなら、それはそのときはじめて選び取られたものとして選び取られるんだと思う。
鳥の求愛ダンスが、求愛してるときに選び取られる踊りであるように。求愛していないのに踊られる求愛ダンスが、求愛ダンスではないように、それを選び取るように選び取られていない言葉は、身体から生じたものではない。
身体は弛緩するし、壊れるし、夢もみるし、緊張もする。いろんなことになる。それをずっと緊張したとこにつなぎとめておくのは、どこか間違っている。そこには強制された緊張が先行してる。
記号的価値、貨幣的価値が、そういう強制された緊張が先行したとこの価値なら、そこには身体にとっての価値は、身体が緊張する程度にしかないんじゃないかと思う。そこには弛緩したり、壊れたり、夢をみたり、ねじれたり、重くなったり、ふわふわしたり、気持ち悪くなったりする身体にとっての価値がないんじゃないのか。
それは経済なのだろうか。通貨なのだろうか。緊張する身体にとってだけの経済では、そうではない身体が見過ごされていたり、殺されていたりすると思う。そういう緊張した身体にとってだけの経済より、もっといろんな身体とつながったいろんなものがあるよ。
+++
俺が遊び場を自分で得るんだ、といってるのも、こういうことと関係あるんだろう。
システムに庇護されて、システムがくれたベッド、靴、服、とかに合わせて、ベッドから足がはみ出ながら、靴でつま先が変形しながら、服で肩が凝り続けながら、それでもそこに合わせてしまった身体は悲しいと思う。
システムがいいだした「物語」のピースになって、それを全うしたときに生きるのはシステムであって(あるいは何も生きずに)、身体ではないと思う。そして生きられなかった身体は不幸だと思う。
システムからは逃れられないんだ。システムの庇護がないと生きていけないんだ。自分ではなくシステムこそがいいんだ。そういうことを「閉じたドア」にして、システムに守られて/閉じ込められて、あるいは閉じ込められることを自分から選んで、一生をシステムという(自分で「閉じたドア」をつけた)部屋のなかで過ごす身体は残酷だと思う。
そういうんじゃないと思ってる。少なくともそれだけじゃないと思ってる。だから俺はこれまでシステムに取り込まれないよう緊張して、警戒したり分析したり試行錯誤したり変わったりしてきた。
でもとっても疲れました。がんばったよ。「疲れた」っていってやすみはじめても、システムにほいほい取り込まれないとこまでこれたし。だから休みます。自分で遊び場にいくためにやることがまだあるけど、休んでまた遊びたい。いっぱいいろんなことしたい
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【以前のmemo】
生きた世界と不必要に隔絶した身体じゃ、たぶんパシッとは遊べない
「主人」の設定とそれへの隷属が、実体のない分業の正体なのだと思う
与えられた場で遊ぶ、というのは、どこかでシステム的外部が基準になっている感じがする。まだここのとこよく分からないけど
結んで開いて手を打って結んで、とあるけど、何かを結んだり開いたりするより、自分が結ばれたり開かれたりするものでいる方がいい
2009年1月26日月曜日
排水路
豚は食べてヒトは食べない。これは差別だと思う。
新鮮なものは食べて腐ったものは食べない。これは差別だと思う。
そのように、身体は差別するんだと思う。差別していることをないことにして、「衛生」なフリをして、「汚さ」は排水路に流してしまうというのは、自分の差別する身体から目をそらしているのだと思う。
俺は差別する身体も、老いる身体も、汚れる身体も、それで構わないと思う。
目をそらされた身体は不幸だ。それは目をそらされた分だけ、生きていることを無いことにされた身体になるからだ。
ちなみによくいわれる「差別」は、あれは多分ほとんどが「偏見」のことだと思います。俺は偏見はあまり好きじゃない。それは自分の身体でそれを体験せず、ただ伝え聞いた図式にのっとって処理しているから。
しかし生きてることをあることにされてる身体のがいいよ。俺はそう思う。
新鮮なものは食べて腐ったものは食べない。これは差別だと思う。
そのように、身体は差別するんだと思う。差別していることをないことにして、「衛生」なフリをして、「汚さ」は排水路に流してしまうというのは、自分の差別する身体から目をそらしているのだと思う。
俺は差別する身体も、老いる身体も、汚れる身体も、それで構わないと思う。
目をそらされた身体は不幸だ。それは目をそらされた分だけ、生きていることを無いことにされた身体になるからだ。
ちなみによくいわれる「差別」は、あれは多分ほとんどが「偏見」のことだと思います。俺は偏見はあまり好きじゃない。それは自分の身体でそれを体験せず、ただ伝え聞いた図式にのっとって処理しているから。
しかし生きてることをあることにされてる身体のがいいよ。俺はそう思う。
遊び場のこと
どうも自分が過ごした家庭はアホだったようで、そこで俺は「keroはいい学校いっていい生活送るんだよ」みたいなこといわれてた(気がする)。しかしいい生活ってなんだろう。例えば誰かがつくってくれてる学校のうち「いい学校」にいく。誰かがつくってくれてる経済のうち「いい会社」にはいる。誰かがつくってくれてる「国家」のなかで、平穏にすごす。俺がいわれたことはそのようなことに思える。
それはつまりシステムや遊び場や経済をつくってくれてる「誰か」におんぶにだっこで、自分は彼らのいうこときいて、平穏無事に暮らしなさいってことなんだろうか。
「いわゆる東大にいく」とか、「いわゆるエリートになる」とか、そんな話が過去のものだとしても(実体は知らん)、そういうのってつまり「システムをつくってくれる誰か」が囲っている奴隷のなかで、いちばん待遇のいい奴隷になりなさい、っていう話と似てる気がする。
そんなんじゃないじゃん。そんなのアホじゃん。それって「誰かがつくってくれるシステム/物語」の「コマ/キャラクター」として生きるだけで、自分自身の当事者じゃないじゃん、って思う。
どっかに主人をつくって、自分をその奴隷ということにして、主人が与えてくれるもののなかで生きるのなんて空っぽじゃん、と俺は思います。俺は主人が与えてくれたなかで最上の遊びをとるより、自分で漁場にでかけて(でかけて、って隔絶ある感じで変だけど)、そこで遊ぶ方が好きだ。それが遊び場の1つのフェーズだし、それを欠いた遊び場はおよよって感じがする(*)。
*:それは、自分を当事者としない「誰か」がつくってくれた遊び場みたいな感じがする。そしてその場は「その誰か」を閉じたドアにした、閉鎖された部屋みたいな匂いがする。すくなくとも今の印象だけど、部屋の外で遊びたいなら、そのドアを開けないといけないと思う。それは「つくってもらっていた遊び場」が崩れることかもしれないし、そうでないかもしれないけど。でも「誰か」を「閉めっぱなしのドアに」して、そのなかで遊び続ける、というのは俺にはどっか気持ち悪い(自分がそのドアになるとかも何だかであるよ)。守られてるんだか閉じ込められてるんだか胡散臭い感じ
2009年1月24日土曜日
memo
奴隷をつかって確保された遊び場なんて遊び場じゃない。
貴族の遊び(*)は、生活と隔絶した身体の遊びだと思う。
だけどその隔絶してる部分は、問題なく隔絶してるんじゃなく、奴隷に丸投げされてるだけだ。つまり奴隷がその貴族と生活との隔絶をつなぐ役割になっている。貴族にとって。
それは奴隷に隷属した、あるいは奴隷から搾取しているようで奴隷に搾取された身体のあり方だと思う。
奴隷が「(遊び場を)くれないと」、遊べない身体。誰かが「(場所や何かを)くれないと」遊べない身体。そんなものはクソくらえだ。
遊び場は、どこかの権威/奴隷/システムからもらうものではなく、基本的に作るもの、得るもの、ひらくものだと思う。
*:例えば、労働はバルバロイにまかせて、自分たちは哲学だかなんだかやってたギリシャ人は、奴隷が与えてくれた「場所」で生きたわけだ。他にもあるけど、例えば働くだけ働いて「余暇」で遊ぶというのは、「働いた自分」が与えてくれた「場所」で遊ぶってことだ。だけどそれは、生活とか労働とかと隔絶しないと遊べない、って話じゃんと思う。でもそれってちがくないか
生活とか労働と隔絶した遊び、という点で、俺は「(「親」に庇護されたなかだから遊べる)子ども時代」というのも好きじゃない。「奴隷」「働いた自分」「親」「システム」、そんなのに庇護を受けないと遊べないような気持ちで、ここでパシッと遊べるとかいうなんてどうなの、と思ってしまう
生活も働くのも遊びも、身体と世界との隔絶のなさのなかで生じてる、と思う。逆、つまり遊ぶから世界と隔絶がないとかじゃなくて。
働く身体と遊ぶ身体を「分業」みたいにわけてしまうことは、身体と世界との隔絶のなさを遠ざけてしまうことだと思う。
貴族の遊び(*)は、生活と隔絶した身体の遊びだと思う。
だけどその隔絶してる部分は、問題なく隔絶してるんじゃなく、奴隷に丸投げされてるだけだ。つまり奴隷がその貴族と生活との隔絶をつなぐ役割になっている。貴族にとって。
それは奴隷に隷属した、あるいは奴隷から搾取しているようで奴隷に搾取された身体のあり方だと思う。
奴隷が「(遊び場を)くれないと」、遊べない身体。誰かが「(場所や何かを)くれないと」遊べない身体。そんなものはクソくらえだ。
遊び場は、どこかの権威/奴隷/システムからもらうものではなく、基本的に作るもの、得るもの、ひらくものだと思う。
*:例えば、労働はバルバロイにまかせて、自分たちは哲学だかなんだかやってたギリシャ人は、奴隷が与えてくれた「場所」で生きたわけだ。他にもあるけど、例えば働くだけ働いて「余暇」で遊ぶというのは、「働いた自分」が与えてくれた「場所」で遊ぶってことだ。だけどそれは、生活とか労働とかと隔絶しないと遊べない、って話じゃんと思う。でもそれってちがくないか
生活とか労働と隔絶した遊び、という点で、俺は「(「親」に庇護されたなかだから遊べる)子ども時代」というのも好きじゃない。「奴隷」「働いた自分」「親」「システム」、そんなのに庇護を受けないと遊べないような気持ちで、ここでパシッと遊べるとかいうなんてどうなの、と思ってしまう
生活も働くのも遊びも、身体と世界との隔絶のなさのなかで生じてる、と思う。逆、つまり遊ぶから世界と隔絶がないとかじゃなくて。
働く身体と遊ぶ身体を「分業」みたいにわけてしまうことは、身体と世界との隔絶のなさを遠ざけてしまうことだと思う。
2009年1月22日木曜日
計画ほか(分業⑪)
なんだかきのうから沈んでいます。休み時期とかぶって低調なかんじ。
こんなときはかんたんに凹むです。ペコ。
自分のなかに何かの計画や図式や信仰があるとしても、それとリアリティは別だと感じる。
例えば○○が欲しいといっても、それは用意されてるわけじゃないし、AならばBなんだといっても、それも用意されてるわけじゃない。インフラがどれだけ整えられても、それは整えたから整えられたもので、はじめから用意されてたわけじゃない。
そういうのが分かんなくなると、なんでAしたのにBがないんだよ、って話になっちゃう。でも色んなものが用意されてないとこで、どうやって手を動かすかとか、それをどう体験するかとか、そういうことを欠いてしまうなら、それは用意された計画とか図式のなかで過ごすことになると思う。
何かが欲しいとか、こうなったらいいなっていうのはいっぱいあるけれど、それが投影できるものってのは、自分を構ってくれるものだ。それって甘えっていうか、甘えていることに甘えてる感じがするよ。
言葉が通じる世界、数式が通じる世界、科学が通じる世界、そういうのはあるかもしれないけど、自分が望むそれを投影しないとやってけないよっていうのはヘンテコな感じ。自分が投影したいものがもたらされるんじゃないか、っていう図式のなかからでられてないっていうか。
全然話はとぶけど、俺は来年度から働きます。で、働くための過程で就活しました。なんで就活ってあるんだろう。いやあってフツウだと思うんだけどさ。
俺が疑問なのは、大卒じゃないとダメとか、高卒じゃないとダメとか、そういう条件が就活にあったことです。
大卒じゃないとダメっていうのは、企業の側が大卒を望んでるということだ。それは大学というシステムが運営されていることを前提とした望みだし、ひいては大学を取り囲む教育とか産業とか経済とか国家とかが、なんらかの基準に基づいて運営されてることを前提とした望みだと思う。
企業の側で何を望もうと別に構わないけど、そういうシステムが、働くことの条件に組み込まれているっていうのが、なんだかフシギだなあと思った。
つまり働きたいなら、大学に入らなければならない。あるいは、大学という機構を運営している国家、が設定している機関(つまり大学のことだけど)に入らなければならない、ってなってる。それって、働きたいなら国家の定める条件を満たさないと働けないってことだ。
これがなんでだろって感じ。それは自分で漁や狩りをしたくても、どっかのシステムが定めた基準を満たさないと、漁場や狩場にでむけないってことだと思う。それって自分で生きようとすることが、なにかのシステム、あるいはどっかの誰かが決めたシステムの審査を経ないと、やってはいけないことになってる、ってことだと思ったよ。
誰かに「きみは生きていい」っていわれないと、生きられないなんて奇妙だ。その誰かを、自分の内面に打ち込むような真似をして、そこからの声をきかないと何かできないってのも、同様に奇妙だと思う。
俺の意見では、ここはそんなところじゃない。少なくとも、基本的に根本的に基底的にはそんなところじゃない。そこで体験するものを体験することが、自分の側にないなんてどっかヘンテコ。システムがどのように機能していても、そこでの体験も、手を動かすことも、漁をすることも、生きようとすることも、基本的には自分の側にあると思う。
この辺は複雑で、近代の工業化とか、意識の問題とか、経済のナンタラとかいっぱいあるんだろうけど、でもそんな複雑なことをゴタゴタやるまでもなく、基本的には起きることの当事者でいないならどうしようもないと思う。
就活での機会の与えられ方が、どう転んでも不均等であるとは思うけど、とりあえず俺は機会を得たので、パシッとやろうと思ってるよ。もう話は、システムをどう上手く誤魔化しながら転がすかじゃなくって、どうやってここを、当事者として体験したり感じたり変えたり変わったりするか、ってのになってると思う。
それは個人レベルだけじゃなく、たぶんもっとずっと広いレベルで。でもそれを「全体がこうだから個人もこう」って話すならやっぱりちょっと捉え方が違うと思うけれど。とにかくできることをやること。できることからやることが大事、だと俺は思う。
そんなことを思ったよ。低調だけどwでもいちおう元気です☆
+++
そういえば働き始めが近いから、はじめの気持ち(?)みたいなものを。
とりあえずはじめは「金をみるな、魚をみろ」って感じでいこうと思ってます(゜ー゜☆)
こんなときはかんたんに凹むです。ペコ。
自分のなかに何かの計画や図式や信仰があるとしても、それとリアリティは別だと感じる。
例えば○○が欲しいといっても、それは用意されてるわけじゃないし、AならばBなんだといっても、それも用意されてるわけじゃない。インフラがどれだけ整えられても、それは整えたから整えられたもので、はじめから用意されてたわけじゃない。
そういうのが分かんなくなると、なんでAしたのにBがないんだよ、って話になっちゃう。でも色んなものが用意されてないとこで、どうやって手を動かすかとか、それをどう体験するかとか、そういうことを欠いてしまうなら、それは用意された計画とか図式のなかで過ごすことになると思う。
何かが欲しいとか、こうなったらいいなっていうのはいっぱいあるけれど、それが投影できるものってのは、自分を構ってくれるものだ。それって甘えっていうか、甘えていることに甘えてる感じがするよ。
言葉が通じる世界、数式が通じる世界、科学が通じる世界、そういうのはあるかもしれないけど、自分が望むそれを投影しないとやってけないよっていうのはヘンテコな感じ。自分が投影したいものがもたらされるんじゃないか、っていう図式のなかからでられてないっていうか。
全然話はとぶけど、俺は来年度から働きます。で、働くための過程で就活しました。なんで就活ってあるんだろう。いやあってフツウだと思うんだけどさ。
俺が疑問なのは、大卒じゃないとダメとか、高卒じゃないとダメとか、そういう条件が就活にあったことです。
大卒じゃないとダメっていうのは、企業の側が大卒を望んでるということだ。それは大学というシステムが運営されていることを前提とした望みだし、ひいては大学を取り囲む教育とか産業とか経済とか国家とかが、なんらかの基準に基づいて運営されてることを前提とした望みだと思う。
企業の側で何を望もうと別に構わないけど、そういうシステムが、働くことの条件に組み込まれているっていうのが、なんだかフシギだなあと思った。
つまり働きたいなら、大学に入らなければならない。あるいは、大学という機構を運営している国家、が設定している機関(つまり大学のことだけど)に入らなければならない、ってなってる。それって、働きたいなら国家の定める条件を満たさないと働けないってことだ。
これがなんでだろって感じ。それは自分で漁や狩りをしたくても、どっかのシステムが定めた基準を満たさないと、漁場や狩場にでむけないってことだと思う。それって自分で生きようとすることが、なにかのシステム、あるいはどっかの誰かが決めたシステムの審査を経ないと、やってはいけないことになってる、ってことだと思ったよ。
誰かに「きみは生きていい」っていわれないと、生きられないなんて奇妙だ。その誰かを、自分の内面に打ち込むような真似をして、そこからの声をきかないと何かできないってのも、同様に奇妙だと思う。
俺の意見では、ここはそんなところじゃない。少なくとも、基本的に根本的に基底的にはそんなところじゃない。そこで体験するものを体験することが、自分の側にないなんてどっかヘンテコ。システムがどのように機能していても、そこでの体験も、手を動かすことも、漁をすることも、生きようとすることも、基本的には自分の側にあると思う。
この辺は複雑で、近代の工業化とか、意識の問題とか、経済のナンタラとかいっぱいあるんだろうけど、でもそんな複雑なことをゴタゴタやるまでもなく、基本的には起きることの当事者でいないならどうしようもないと思う。
就活での機会の与えられ方が、どう転んでも不均等であるとは思うけど、とりあえず俺は機会を得たので、パシッとやろうと思ってるよ。もう話は、システムをどう上手く誤魔化しながら転がすかじゃなくって、どうやってここを、当事者として体験したり感じたり変えたり変わったりするか、ってのになってると思う。
それは個人レベルだけじゃなく、たぶんもっとずっと広いレベルで。でもそれを「全体がこうだから個人もこう」って話すならやっぱりちょっと捉え方が違うと思うけれど。とにかくできることをやること。できることからやることが大事、だと俺は思う。
そんなことを思ったよ。低調だけどwでもいちおう元気です☆
+++
そういえば働き始めが近いから、はじめの気持ち(?)みたいなものを。
とりあえずはじめは「金をみるな、魚をみろ」って感じでいこうと思ってます(゜ー゜☆)
2009年1月21日水曜日
情報産業(分業⑩)
情報管理業者は儲からない。と俺は思ってる。
いや実際には儲かるんだけどさ、きっと。
情報管理業者ってのは、例えば羊が何頭いて、何頭生まれて、何頭殺して、何頭運ばれたかを書きだして保存したり渡したりする業者のことだ。
それはでも、羊がいなければ儲からない。羊がいて(魚でもいいけど)、それが生まれたり殺されたりして、それを運んで口に入れるとか、そういうことがないと儲からない立場にあるわけだ(と俺は思う)。
だから情報管理業者は、二次情報を扱う立場だ。そして二次情報は、羊が生きてること、それに手を下したりして殺すこと、それを食べること、そういう一次情報の上で成り立っている。
羊ってのはなんでもいいです。たとえば遊ぶこと、たのしいこと、何かが失われたこと、そういうことが当事者に起きたとき、そこでは一次情報が発生する。それが「羊」だと俺は思う。つまり比喩なんだけどね。
だけど二次情報業者が儲かるのは、どこかに一次情報者がいるからだ。でないと二次情報なんて基本的には空っぽの意味しかない。
でも二次情報業者はいる。それは全然いいと思う。だってそういうのって便利だから。必要じゃないかもしれないけど、ものすごーく便利で、その便利さを必要性と同義にしてもいいと思っちゃうくらい便利だから。
だけど二次情報業が一次情報なしで成立すると思ったとき、あるいは貨幣や金融が羊や魚なしで価値をもつと思ったり思い始めたとき、それはどっかでヤバいことになってる感じがする。
そのヤバさは色々な言い方があるんだろうけど、その一つとして、リアリティの欠如があると思う。つまり神様とか(俺は別に宗教反対ではないけれど)、○○様とか、××様が、ではなく、当事者としての自分が、生きた世界を生きる、ということから隔絶してしまう、ということだと思う(*)。
それは価値観の問題かもしれない。だって別に生きた世界なんてどうでもいいヒトなんていっぱいいるだろうし。でももっと直裁にいうなら、それは自分の手を動かすことが、自分が生きていくことと無関係になってしまうことだと思う。それは自分で飯をくえないってことだ。そんな風になるのは問題だ、と俺は思うよ。
どっかのだれかが作ってくれた国家とか経済とかシステムにのって、意味わかんないで収奪して、生計が成り立ってるならそれでいいのかもしれないけど、それだといつかシステムを食いつぶす(かもしんない)。それはシステムに自分が食いつぶされてるのと同じことで、そしてもっと間抜けなことというか、結局は自分で自分の遭遇や体験を食いつぶしてるんだと思う。
*:この辺、自分の捉え方が雑すぎて泣きそうになるんだけど、でも「固定された価値観」とは分業できないんじゃないか、って思うんです。それはこっちがスポイルされるだけになるんじゃないかと思う。
分業が細分化して大規模化して、そういうところがすごく見えにくくなってるけど、でもそこを見逃したらすごくいろんなことがダメな感じにならないのか。むむむー、よくわからん(T_T)
いや実際には儲かるんだけどさ、きっと。
情報管理業者ってのは、例えば羊が何頭いて、何頭生まれて、何頭殺して、何頭運ばれたかを書きだして保存したり渡したりする業者のことだ。
それはでも、羊がいなければ儲からない。羊がいて(魚でもいいけど)、それが生まれたり殺されたりして、それを運んで口に入れるとか、そういうことがないと儲からない立場にあるわけだ(と俺は思う)。
だから情報管理業者は、二次情報を扱う立場だ。そして二次情報は、羊が生きてること、それに手を下したりして殺すこと、それを食べること、そういう一次情報の上で成り立っている。
羊ってのはなんでもいいです。たとえば遊ぶこと、たのしいこと、何かが失われたこと、そういうことが当事者に起きたとき、そこでは一次情報が発生する。それが「羊」だと俺は思う。つまり比喩なんだけどね。
だけど二次情報業者が儲かるのは、どこかに一次情報者がいるからだ。でないと二次情報なんて基本的には空っぽの意味しかない。
でも二次情報業者はいる。それは全然いいと思う。だってそういうのって便利だから。必要じゃないかもしれないけど、ものすごーく便利で、その便利さを必要性と同義にしてもいいと思っちゃうくらい便利だから。
だけど二次情報業が一次情報なしで成立すると思ったとき、あるいは貨幣や金融が羊や魚なしで価値をもつと思ったり思い始めたとき、それはどっかでヤバいことになってる感じがする。
そのヤバさは色々な言い方があるんだろうけど、その一つとして、リアリティの欠如があると思う。つまり神様とか(俺は別に宗教反対ではないけれど)、○○様とか、××様が、ではなく、当事者としての自分が、生きた世界を生きる、ということから隔絶してしまう、ということだと思う(*)。
それは価値観の問題かもしれない。だって別に生きた世界なんてどうでもいいヒトなんていっぱいいるだろうし。でももっと直裁にいうなら、それは自分の手を動かすことが、自分が生きていくことと無関係になってしまうことだと思う。それは自分で飯をくえないってことだ。そんな風になるのは問題だ、と俺は思うよ。
どっかのだれかが作ってくれた国家とか経済とかシステムにのって、意味わかんないで収奪して、生計が成り立ってるならそれでいいのかもしれないけど、それだといつかシステムを食いつぶす(かもしんない)。それはシステムに自分が食いつぶされてるのと同じことで、そしてもっと間抜けなことというか、結局は自分で自分の遭遇や体験を食いつぶしてるんだと思う。
*:この辺、自分の捉え方が雑すぎて泣きそうになるんだけど、でも「固定された価値観」とは分業できないんじゃないか、って思うんです。それはこっちがスポイルされるだけになるんじゃないかと思う。
分業が細分化して大規模化して、そういうところがすごく見えにくくなってるけど、でもそこを見逃したらすごくいろんなことがダメな感じにならないのか。むむむー、よくわからん(T_T)
memo
進化とは、たぶん突き詰めれば変わることではなく、変わるなかで「変わり方が変わる」ことだと思う。
べつに大仰なことじゃなく、言い換えれば遊びって遊ぶことだけじゃなく、遊ぶなかで「遊び方が変わってく」ことだと思う。いや分かんないけど。
シュヴァンクマイエルが「ナントカとは母なる自然にも抗うことです」みたいなこと言ってた(内容は忘れた)けど、俺なりに解釈するとそういうことだと思う。
生きものってのは自然に逆らうものだ。そして生きものは「自然な」ものだと思う。「自然」がどういう意味かなんてのはさておき。
それは矛盾してるようで両立する。つまりそれは、今までの「自然」の変わり方ではない変わり方で変わろうとするものだと思う。それってある意味では遊びと同じだ。感覚の変化をたのしむこと。気持ちよさを確かめること。パシッとやろうとすること。そういうなかでなにかが変わること。
それはおもしろいと思う。少なくともおもしろいことの一つだと感じる
べつに大仰なことじゃなく、言い換えれば遊びって遊ぶことだけじゃなく、遊ぶなかで「遊び方が変わってく」ことだと思う。いや分かんないけど。
シュヴァンクマイエルが「ナントカとは母なる自然にも抗うことです」みたいなこと言ってた(内容は忘れた)けど、俺なりに解釈するとそういうことだと思う。
生きものってのは自然に逆らうものだ。そして生きものは「自然な」ものだと思う。「自然」がどういう意味かなんてのはさておき。
それは矛盾してるようで両立する。つまりそれは、今までの「自然」の変わり方ではない変わり方で変わろうとするものだと思う。それってある意味では遊びと同じだ。感覚の変化をたのしむこと。気持ちよさを確かめること。パシッとやろうとすること。そういうなかでなにかが変わること。
それはおもしろいと思う。少なくともおもしろいことの一つだと感じる
計画と分業(分業⑨)
「計画」と分業なんかできない。どんなに上手くできた計画でも、それは本人のなかにしかない。自分と分業するなんておかしな話だ。いやできるんだけど。例えば昼はA夜はBみたいなのとか。でもそれって、自分の領域を分断してるだけだろ、って思う。
その場合は、その領域を分断してるラインと分業してる、ってことになる。でもそのラインを持ち込んでるのも自分だから、やっぱりそこは上手くいってない。
それは結局「こういう計画があるんじゃないか」「こういうラインがあるんじゃないか」っていう自分の期待を投影できる場所をつくって、その場所と分業してる、ってことになると思う。
でもそれって期待の投影が成立するっていうとこからの行為じゃん、と思う。期待自体は嫌いじゃないけれど、それが「成立する」っていいだしたんなら証拠見せろよって思う。
で、「証拠」ってのは常に自分以外の何かだ。だったらそれが無い以上、やっぱりそれは自分の期待に期待してる構図にしかならないんじゃないかと思っちゃう。
それはすごく間抜けな話だと思う。期待に期待してる時間があるなら、ものを見ろよっていう。
そして期待に期待してる分だけ、自分とものとが隔絶するっていうのがどっかで発生する気がする。
それがスポイルだと思う。「期待への期待」によって、自分と世界が遮断されるっていうスポイル。あるいは他者と他者との世界を分断/遮断してしまうというスポイル。
そういうのっていっぱいある、金融とか。これは俺がいったことじゃないけど「訪れないかもしれない未来の約束の為に、ときには命すら賭ける」というのは確かにすごいかもしれない、実際に。金融とか貨幣ってそういうものだと思う。
貨幣は魚とかの代替物であると同時に、次の魚の代替物でもある。だっていま俺のサイフのなかに入ってる100円玉って、品物と交換されるまで無意味だもん。それは誰かがとってくれるかもしれない「次の魚」のために、コンビニにいけば「きっと」あるおにぎりのために、「来年度」の住居のためにカタチになっている、期待のこめられた代替物であるわけだ。
でもそれが期待の期待になったとたんダメになるものがある。「俺は金もってるんだから魚よこせよ」って不漁のときにいってもダメなわけだ。魚が不漁なら金は役に立たない(だからレートとかあるんだろうけど)。そういう不漁みたいなときにあからさまになるものってあるし、実際分業できるのはそこであからさまになるものが中心になる気がする。
どれだけ「上手い」計画でも、それへの期待は「期待への期待」だ。それはものが動かなかったらやっぱダメだと思うんだ。期待があることや、期待に思わず期待してしまうことや、経済のある面がそういうとこで動いてしまうとこもあるのかもしれないけど、やっぱそこでものや魚を見失ったら行き場が無いと思う。魚を欠いた、期待への期待に取り囲まれただけになってしまうというか(それが信仰になって固定されたなら悲惨すぎる)。
だからどうすんの、って言われても分かんないんだけど、とりあえず魚は見失わないようにしようと思う。そういうとこ(魚があるとこ)で動く体験っていうのは、他にどれだけのものがあっても、見失っちゃいけないんじゃないかと思う。
感覚の気持ちよさってすげえ大事だ。俺にはめっちゃ大事。でも魚を見失ったとこにある感覚の気持ちよさは、どっかで行き場が無いと思う。閉鎖的だったり、隔絶的だったりすると思う。そこを抜いた気持ちよさは、やっぱダメじゃん、と思うのです(生きた身体や世界を生きることとかってどうみても暴力だけど、そこから隔絶してしまうことは、一見衛生的にみえても、暴力以上に暴力的だと思うんだ。間抜けだし悲惨すぎる(*))。
*:例えば自分のなかにどれだけ「きれいな人間」像もってたとしても、実際のそれは糞便も垂れ流すし、痴呆にもなるし、壊れもするし、死にもするわけだ。そういうことに直面したなら、やっぱそういうものじゃない、って思うし、そのとき生きた身体は変わるように変ると思う。こういうのがキツい例えだとしても、よろこびとか悲しさとかうれしさとか欲望とか馬鹿馬鹿しさとかも、それと同じフェーズにあるんじゃないかと思うよ。
その場合は、その領域を分断してるラインと分業してる、ってことになる。でもそのラインを持ち込んでるのも自分だから、やっぱりそこは上手くいってない。
それは結局「こういう計画があるんじゃないか」「こういうラインがあるんじゃないか」っていう自分の期待を投影できる場所をつくって、その場所と分業してる、ってことになると思う。
でもそれって期待の投影が成立するっていうとこからの行為じゃん、と思う。期待自体は嫌いじゃないけれど、それが「成立する」っていいだしたんなら証拠見せろよって思う。
で、「証拠」ってのは常に自分以外の何かだ。だったらそれが無い以上、やっぱりそれは自分の期待に期待してる構図にしかならないんじゃないかと思っちゃう。
それはすごく間抜けな話だと思う。期待に期待してる時間があるなら、ものを見ろよっていう。
そして期待に期待してる分だけ、自分とものとが隔絶するっていうのがどっかで発生する気がする。
それがスポイルだと思う。「期待への期待」によって、自分と世界が遮断されるっていうスポイル。あるいは他者と他者との世界を分断/遮断してしまうというスポイル。
そういうのっていっぱいある、金融とか。これは俺がいったことじゃないけど「訪れないかもしれない未来の約束の為に、ときには命すら賭ける」というのは確かにすごいかもしれない、実際に。金融とか貨幣ってそういうものだと思う。
貨幣は魚とかの代替物であると同時に、次の魚の代替物でもある。だっていま俺のサイフのなかに入ってる100円玉って、品物と交換されるまで無意味だもん。それは誰かがとってくれるかもしれない「次の魚」のために、コンビニにいけば「きっと」あるおにぎりのために、「来年度」の住居のためにカタチになっている、期待のこめられた代替物であるわけだ。
でもそれが期待の期待になったとたんダメになるものがある。「俺は金もってるんだから魚よこせよ」って不漁のときにいってもダメなわけだ。魚が不漁なら金は役に立たない(だからレートとかあるんだろうけど)。そういう不漁みたいなときにあからさまになるものってあるし、実際分業できるのはそこであからさまになるものが中心になる気がする。
どれだけ「上手い」計画でも、それへの期待は「期待への期待」だ。それはものが動かなかったらやっぱダメだと思うんだ。期待があることや、期待に思わず期待してしまうことや、経済のある面がそういうとこで動いてしまうとこもあるのかもしれないけど、やっぱそこでものや魚を見失ったら行き場が無いと思う。魚を欠いた、期待への期待に取り囲まれただけになってしまうというか(それが信仰になって固定されたなら悲惨すぎる)。
だからどうすんの、って言われても分かんないんだけど、とりあえず魚は見失わないようにしようと思う。そういうとこ(魚があるとこ)で動く体験っていうのは、他にどれだけのものがあっても、見失っちゃいけないんじゃないかと思う。
感覚の気持ちよさってすげえ大事だ。俺にはめっちゃ大事。でも魚を見失ったとこにある感覚の気持ちよさは、どっかで行き場が無いと思う。閉鎖的だったり、隔絶的だったりすると思う。そこを抜いた気持ちよさは、やっぱダメじゃん、と思うのです(生きた身体や世界を生きることとかってどうみても暴力だけど、そこから隔絶してしまうことは、一見衛生的にみえても、暴力以上に暴力的だと思うんだ。間抜けだし悲惨すぎる(*))。
*:例えば自分のなかにどれだけ「きれいな人間」像もってたとしても、実際のそれは糞便も垂れ流すし、痴呆にもなるし、壊れもするし、死にもするわけだ。そういうことに直面したなら、やっぱそういうものじゃない、って思うし、そのとき生きた身体は変わるように変ると思う。こういうのがキツい例えだとしても、よろこびとか悲しさとかうれしさとか欲望とか馬鹿馬鹿しさとかも、それと同じフェーズにあるんじゃないかと思うよ。
2009年1月20日火曜日
2009年1月12日月曜日
魚(分業⑧)
魚を1匹とったら、そこには魚1匹の価値しかでてこない。どれだけ中間卸売業者が入っても、流通するのは魚1匹分の価値だけだ。誰かが「この魚は2匹だよ」とか「0匹だよ」っていっても、そこにあるのは魚1匹。
魚は餌場で獲れる。餌場じゃないと魚は獲れない。
というか、魚が獲れる場所が餌場になる。
自分で魚を獲れれば、俺は餌場にでむけてる、ということになる。自分で魚を獲れないのなら、俺は餌場にでむけてない、ということになる。
餌場に自分ででむけてない場合、誰かが獲った魚をもらわないと、俺は飯がくえない。自分で魚が獲れない場合、いま何匹魚が獲れたのか分からない。魚を管理してる奴が「2匹だ」っていったら2匹かなと思うし、「0匹だ」っていったら0匹だと思う。
自分で餌場にでむけてない場合、俺は魚を管理してる奴から魚をもらうことになる。それはタダでくれるかもしれない。タコ踊りをしたらくれるかもしれない。召使をしたらくれるかもしれない。お使いにいったらくれるかもしれない。
だけどそこで俺が取る行動は、餌を獲る行動とは直接関係ない行動だ。つまり、魚を管理してる奴の意向に沿った行動だ。
そのとき俺は魚とバトルできてない。餌場で手を動かせてない。餌を獲るのに必要な、いいこともやなこともやれてない。ただ魚を管理してる奴の意向に沿った、いいことや、やなことをやって魚を貰ってるだけだ。
餌を獲ること、餌を食うことは、俺の生活だ。そして魚を管理してる奴の意向に沿わないと魚が食えないとき、俺の生活はそいつに管理されている。管理された生活に、俺の手は無い。俺の脚も無いし、俺のアタマもない。ただ管理してる奴の意向に沿った俺がいるだけだ。
大事なことは自分の生活空間と餌場をきちんと結ぶことだ。管理してる奴とか中間業者の「いまは魚はないよ」「まだいっぱいあるよ」という嘘にだまされないことだ。自分で餌場で魚を獲れるようになって、管理してる奴に、魚を盾にえらそうなフリをさせないことだ。貨幣に価値はなく、魚にこそ価値があると知ることだ。
そして魚はいっぱいある。豚もコメもエンジンもコンピューターもゲームも音楽もファッションも「魚」だ。その餌場と自分の生活空間をきちんと結ぶこと。大量の貨幣ではなく、「魚」の摂取にこそ価値があるのだということ。「魚」の摂取に関係ない流通は意味がないということ。「魚」が1匹獲れたなら、その価値は0匹分や2匹分の価値ではないこと。
そういうことをきちんと分かろうとかやろうと思う。それが伴わない経済なんか空虚だし、それが伴わない行動なんか空っぽだ。そこには何も流通していない。大事なのは魚が流通することをやることだ。それは自分で餌場にでむくことだし、自分で魚を獲るためのアクションをすることだ。
魚は餌場で獲れる。餌場じゃないと魚は獲れない。
というか、魚が獲れる場所が餌場になる。
自分で魚を獲れれば、俺は餌場にでむけてる、ということになる。自分で魚を獲れないのなら、俺は餌場にでむけてない、ということになる。
餌場に自分ででむけてない場合、誰かが獲った魚をもらわないと、俺は飯がくえない。自分で魚が獲れない場合、いま何匹魚が獲れたのか分からない。魚を管理してる奴が「2匹だ」っていったら2匹かなと思うし、「0匹だ」っていったら0匹だと思う。
自分で餌場にでむけてない場合、俺は魚を管理してる奴から魚をもらうことになる。それはタダでくれるかもしれない。タコ踊りをしたらくれるかもしれない。召使をしたらくれるかもしれない。お使いにいったらくれるかもしれない。
だけどそこで俺が取る行動は、餌を獲る行動とは直接関係ない行動だ。つまり、魚を管理してる奴の意向に沿った行動だ。
そのとき俺は魚とバトルできてない。餌場で手を動かせてない。餌を獲るのに必要な、いいこともやなこともやれてない。ただ魚を管理してる奴の意向に沿った、いいことや、やなことをやって魚を貰ってるだけだ。
餌を獲ること、餌を食うことは、俺の生活だ。そして魚を管理してる奴の意向に沿わないと魚が食えないとき、俺の生活はそいつに管理されている。管理された生活に、俺の手は無い。俺の脚も無いし、俺のアタマもない。ただ管理してる奴の意向に沿った俺がいるだけだ。
大事なことは自分の生活空間と餌場をきちんと結ぶことだ。管理してる奴とか中間業者の「いまは魚はないよ」「まだいっぱいあるよ」という嘘にだまされないことだ。自分で餌場で魚を獲れるようになって、管理してる奴に、魚を盾にえらそうなフリをさせないことだ。貨幣に価値はなく、魚にこそ価値があると知ることだ。
そして魚はいっぱいある。豚もコメもエンジンもコンピューターもゲームも音楽もファッションも「魚」だ。その餌場と自分の生活空間をきちんと結ぶこと。大量の貨幣ではなく、「魚」の摂取にこそ価値があるのだということ。「魚」の摂取に関係ない流通は意味がないということ。「魚」が1匹獲れたなら、その価値は0匹分や2匹分の価値ではないこと。
そういうことをきちんと分かろうとかやろうと思う。それが伴わない経済なんか空虚だし、それが伴わない行動なんか空っぽだ。そこには何も流通していない。大事なのは魚が流通することをやることだ。それは自分で餌場にでむくことだし、自分で魚を獲るためのアクションをすることだ。
2009年1月9日金曜日
無題(分業⑦)
暴力と隔絶の無い日常が好きだ。そしてそれ以外のことは、ほとんどどうでもいいか、全くどうでもいいのだだと感じる。
ある種の金持ちの人は、俺にとっては不思議だ。「金持ち」というのは貨幣でも、本でも、CDでもいいのだけど。彼らはいっぱい「貨幣」を持っていたり、それを動かしていたりする。言い換えれば貨幣が彼らを通過する。だけどそのときに、通過した貨幣に見合った身体の変質が彼らには起きない。
山ほどの貨幣をただ使うだけ。本を読むだけ。CDを聴くだけで、そこに身体の変質がないのなら、それは何も無いというより、身体が貨幣や文字や音楽と隔たっている。
それは世界に触れたときの暴力から隔絶しているということだと思う。どれだけのものがあったとしても、そこに身体の変質がないのなら、それは自分と世界が隔たっているということだと思う。そしてそのように過ごされた時間は、ホントに空っぽの時間だ。
その空っぽさは、スポイルされた空っぽさだと思う。つまり貨幣や文字という、基本的には空っぽのハコをあっちからこっちへ流して、何かした気になってるだけのものだと思う(だけどそれは「あっち」とか「こっち」にスポイルされただけの、実際「自分」には何も起きなかった時間だ)。
俺は暴力と隔絶の無い日常が好きだ。それが特別なことが何も無く、その意味で空っぽに感じられるものだとしても、俺にとってはそこで起きることが俺に起きることだからだ(*)。
そういうことを重ねたり行ったりすること以外に重要なことなんて無い気がする。そういうときにあらわれる世界以外に意味のある世界なんか無い気がする。そういうことをしていこう。そうしよう。
*:そういうところで起きたもののうちに貨幣や文字が含まれたなら、そのときそれらは、それが持つ程度の意味を持つのだと思う。
ある種の金持ちの人は、俺にとっては不思議だ。「金持ち」というのは貨幣でも、本でも、CDでもいいのだけど。彼らはいっぱい「貨幣」を持っていたり、それを動かしていたりする。言い換えれば貨幣が彼らを通過する。だけどそのときに、通過した貨幣に見合った身体の変質が彼らには起きない。
山ほどの貨幣をただ使うだけ。本を読むだけ。CDを聴くだけで、そこに身体の変質がないのなら、それは何も無いというより、身体が貨幣や文字や音楽と隔たっている。
それは世界に触れたときの暴力から隔絶しているということだと思う。どれだけのものがあったとしても、そこに身体の変質がないのなら、それは自分と世界が隔たっているということだと思う。そしてそのように過ごされた時間は、ホントに空っぽの時間だ。
その空っぽさは、スポイルされた空っぽさだと思う。つまり貨幣や文字という、基本的には空っぽのハコをあっちからこっちへ流して、何かした気になってるだけのものだと思う(だけどそれは「あっち」とか「こっち」にスポイルされただけの、実際「自分」には何も起きなかった時間だ)。
俺は暴力と隔絶の無い日常が好きだ。それが特別なことが何も無く、その意味で空っぽに感じられるものだとしても、俺にとってはそこで起きることが俺に起きることだからだ(*)。
そういうことを重ねたり行ったりすること以外に重要なことなんて無い気がする。そういうときにあらわれる世界以外に意味のある世界なんか無い気がする。そういうことをしていこう。そうしよう。
*:そういうところで起きたもののうちに貨幣や文字が含まれたなら、そのときそれらは、それが持つ程度の意味を持つのだと思う。
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