暴力と隔絶の無い日常が好きだ。そしてそれ以外のことは、ほとんどどうでもいいか、全くどうでもいいのだだと感じる。
ある種の金持ちの人は、俺にとっては不思議だ。「金持ち」というのは貨幣でも、本でも、CDでもいいのだけど。彼らはいっぱい「貨幣」を持っていたり、それを動かしていたりする。言い換えれば貨幣が彼らを通過する。だけどそのときに、通過した貨幣に見合った身体の変質が彼らには起きない。
山ほどの貨幣をただ使うだけ。本を読むだけ。CDを聴くだけで、そこに身体の変質がないのなら、それは何も無いというより、身体が貨幣や文字や音楽と隔たっている。
それは世界に触れたときの暴力から隔絶しているということだと思う。どれだけのものがあったとしても、そこに身体の変質がないのなら、それは自分と世界が隔たっているということだと思う。そしてそのように過ごされた時間は、ホントに空っぽの時間だ。
その空っぽさは、スポイルされた空っぽさだと思う。つまり貨幣や文字という、基本的には空っぽのハコをあっちからこっちへ流して、何かした気になってるだけのものだと思う(だけどそれは「あっち」とか「こっち」にスポイルされただけの、実際「自分」には何も起きなかった時間だ)。
俺は暴力と隔絶の無い日常が好きだ。それが特別なことが何も無く、その意味で空っぽに感じられるものだとしても、俺にとってはそこで起きることが俺に起きることだからだ(*)。
そういうことを重ねたり行ったりすること以外に重要なことなんて無い気がする。そういうときにあらわれる世界以外に意味のある世界なんか無い気がする。そういうことをしていこう。そうしよう。
*:そういうところで起きたもののうちに貨幣や文字が含まれたなら、そのときそれらは、それが持つ程度の意味を持つのだと思う。
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