魚を1匹とったら、そこには魚1匹の価値しかでてこない。どれだけ中間卸売業者が入っても、流通するのは魚1匹分の価値だけだ。誰かが「この魚は2匹だよ」とか「0匹だよ」っていっても、そこにあるのは魚1匹。
魚は餌場で獲れる。餌場じゃないと魚は獲れない。
というか、魚が獲れる場所が餌場になる。
自分で魚を獲れれば、俺は餌場にでむけてる、ということになる。自分で魚を獲れないのなら、俺は餌場にでむけてない、ということになる。
餌場に自分ででむけてない場合、誰かが獲った魚をもらわないと、俺は飯がくえない。自分で魚が獲れない場合、いま何匹魚が獲れたのか分からない。魚を管理してる奴が「2匹だ」っていったら2匹かなと思うし、「0匹だ」っていったら0匹だと思う。
自分で餌場にでむけてない場合、俺は魚を管理してる奴から魚をもらうことになる。それはタダでくれるかもしれない。タコ踊りをしたらくれるかもしれない。召使をしたらくれるかもしれない。お使いにいったらくれるかもしれない。
だけどそこで俺が取る行動は、餌を獲る行動とは直接関係ない行動だ。つまり、魚を管理してる奴の意向に沿った行動だ。
そのとき俺は魚とバトルできてない。餌場で手を動かせてない。餌を獲るのに必要な、いいこともやなこともやれてない。ただ魚を管理してる奴の意向に沿った、いいことや、やなことをやって魚を貰ってるだけだ。
餌を獲ること、餌を食うことは、俺の生活だ。そして魚を管理してる奴の意向に沿わないと魚が食えないとき、俺の生活はそいつに管理されている。管理された生活に、俺の手は無い。俺の脚も無いし、俺のアタマもない。ただ管理してる奴の意向に沿った俺がいるだけだ。
大事なことは自分の生活空間と餌場をきちんと結ぶことだ。管理してる奴とか中間業者の「いまは魚はないよ」「まだいっぱいあるよ」という嘘にだまされないことだ。自分で餌場で魚を獲れるようになって、管理してる奴に、魚を盾にえらそうなフリをさせないことだ。貨幣に価値はなく、魚にこそ価値があると知ることだ。
そして魚はいっぱいある。豚もコメもエンジンもコンピューターもゲームも音楽もファッションも「魚」だ。その餌場と自分の生活空間をきちんと結ぶこと。大量の貨幣ではなく、「魚」の摂取にこそ価値があるのだということ。「魚」の摂取に関係ない流通は意味がないということ。「魚」が1匹獲れたなら、その価値は0匹分や2匹分の価値ではないこと。
そういうことをきちんと分かろうとかやろうと思う。それが伴わない経済なんか空虚だし、それが伴わない行動なんか空っぽだ。そこには何も流通していない。大事なのは魚が流通することをやることだ。それは自分で餌場にでむくことだし、自分で魚を獲るためのアクションをすることだ。
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