「計画」と分業なんかできない。どんなに上手くできた計画でも、それは本人のなかにしかない。自分と分業するなんておかしな話だ。いやできるんだけど。例えば昼はA夜はBみたいなのとか。でもそれって、自分の領域を分断してるだけだろ、って思う。
その場合は、その領域を分断してるラインと分業してる、ってことになる。でもそのラインを持ち込んでるのも自分だから、やっぱりそこは上手くいってない。
それは結局「こういう計画があるんじゃないか」「こういうラインがあるんじゃないか」っていう自分の期待を投影できる場所をつくって、その場所と分業してる、ってことになると思う。
でもそれって期待の投影が成立するっていうとこからの行為じゃん、と思う。期待自体は嫌いじゃないけれど、それが「成立する」っていいだしたんなら証拠見せろよって思う。
で、「証拠」ってのは常に自分以外の何かだ。だったらそれが無い以上、やっぱりそれは自分の期待に期待してる構図にしかならないんじゃないかと思っちゃう。
それはすごく間抜けな話だと思う。期待に期待してる時間があるなら、ものを見ろよっていう。
そして期待に期待してる分だけ、自分とものとが隔絶するっていうのがどっかで発生する気がする。
それがスポイルだと思う。「期待への期待」によって、自分と世界が遮断されるっていうスポイル。あるいは他者と他者との世界を分断/遮断してしまうというスポイル。
そういうのっていっぱいある、金融とか。これは俺がいったことじゃないけど「訪れないかもしれない未来の約束の為に、ときには命すら賭ける」というのは確かにすごいかもしれない、実際に。金融とか貨幣ってそういうものだと思う。
貨幣は魚とかの代替物であると同時に、次の魚の代替物でもある。だっていま俺のサイフのなかに入ってる100円玉って、品物と交換されるまで無意味だもん。それは誰かがとってくれるかもしれない「次の魚」のために、コンビニにいけば「きっと」あるおにぎりのために、「来年度」の住居のためにカタチになっている、期待のこめられた代替物であるわけだ。
でもそれが期待の期待になったとたんダメになるものがある。「俺は金もってるんだから魚よこせよ」って不漁のときにいってもダメなわけだ。魚が不漁なら金は役に立たない(だからレートとかあるんだろうけど)。そういう不漁みたいなときにあからさまになるものってあるし、実際分業できるのはそこであからさまになるものが中心になる気がする。
どれだけ「上手い」計画でも、それへの期待は「期待への期待」だ。それはものが動かなかったらやっぱダメだと思うんだ。期待があることや、期待に思わず期待してしまうことや、経済のある面がそういうとこで動いてしまうとこもあるのかもしれないけど、やっぱそこでものや魚を見失ったら行き場が無いと思う。魚を欠いた、期待への期待に取り囲まれただけになってしまうというか(それが信仰になって固定されたなら悲惨すぎる)。
だからどうすんの、って言われても分かんないんだけど、とりあえず魚は見失わないようにしようと思う。そういうとこ(魚があるとこ)で動く体験っていうのは、他にどれだけのものがあっても、見失っちゃいけないんじゃないかと思う。
感覚の気持ちよさってすげえ大事だ。俺にはめっちゃ大事。でも魚を見失ったとこにある感覚の気持ちよさは、どっかで行き場が無いと思う。閉鎖的だったり、隔絶的だったりすると思う。そこを抜いた気持ちよさは、やっぱダメじゃん、と思うのです(生きた身体や世界を生きることとかってどうみても暴力だけど、そこから隔絶してしまうことは、一見衛生的にみえても、暴力以上に暴力的だと思うんだ。間抜けだし悲惨すぎる(*))。
*:例えば自分のなかにどれだけ「きれいな人間」像もってたとしても、実際のそれは糞便も垂れ流すし、痴呆にもなるし、壊れもするし、死にもするわけだ。そういうことに直面したなら、やっぱそういうものじゃない、って思うし、そのとき生きた身体は変わるように変ると思う。こういうのがキツい例えだとしても、よろこびとか悲しさとかうれしさとか欲望とか馬鹿馬鹿しさとかも、それと同じフェーズにあるんじゃないかと思うよ。
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