なんだかきのうから沈んでいます。休み時期とかぶって低調なかんじ。
こんなときはかんたんに凹むです。ペコ。
自分のなかに何かの計画や図式や信仰があるとしても、それとリアリティは別だと感じる。
例えば○○が欲しいといっても、それは用意されてるわけじゃないし、AならばBなんだといっても、それも用意されてるわけじゃない。インフラがどれだけ整えられても、それは整えたから整えられたもので、はじめから用意されてたわけじゃない。
そういうのが分かんなくなると、なんでAしたのにBがないんだよ、って話になっちゃう。でも色んなものが用意されてないとこで、どうやって手を動かすかとか、それをどう体験するかとか、そういうことを欠いてしまうなら、それは用意された計画とか図式のなかで過ごすことになると思う。
何かが欲しいとか、こうなったらいいなっていうのはいっぱいあるけれど、それが投影できるものってのは、自分を構ってくれるものだ。それって甘えっていうか、甘えていることに甘えてる感じがするよ。
言葉が通じる世界、数式が通じる世界、科学が通じる世界、そういうのはあるかもしれないけど、自分が望むそれを投影しないとやってけないよっていうのはヘンテコな感じ。自分が投影したいものがもたらされるんじゃないか、っていう図式のなかからでられてないっていうか。
全然話はとぶけど、俺は来年度から働きます。で、働くための過程で就活しました。なんで就活ってあるんだろう。いやあってフツウだと思うんだけどさ。
俺が疑問なのは、大卒じゃないとダメとか、高卒じゃないとダメとか、そういう条件が就活にあったことです。
大卒じゃないとダメっていうのは、企業の側が大卒を望んでるということだ。それは大学というシステムが運営されていることを前提とした望みだし、ひいては大学を取り囲む教育とか産業とか経済とか国家とかが、なんらかの基準に基づいて運営されてることを前提とした望みだと思う。
企業の側で何を望もうと別に構わないけど、そういうシステムが、働くことの条件に組み込まれているっていうのが、なんだかフシギだなあと思った。
つまり働きたいなら、大学に入らなければならない。あるいは、大学という機構を運営している国家、が設定している機関(つまり大学のことだけど)に入らなければならない、ってなってる。それって、働きたいなら国家の定める条件を満たさないと働けないってことだ。
これがなんでだろって感じ。それは自分で漁や狩りをしたくても、どっかのシステムが定めた基準を満たさないと、漁場や狩場にでむけないってことだと思う。それって自分で生きようとすることが、なにかのシステム、あるいはどっかの誰かが決めたシステムの審査を経ないと、やってはいけないことになってる、ってことだと思ったよ。
誰かに「きみは生きていい」っていわれないと、生きられないなんて奇妙だ。その誰かを、自分の内面に打ち込むような真似をして、そこからの声をきかないと何かできないってのも、同様に奇妙だと思う。
俺の意見では、ここはそんなところじゃない。少なくとも、基本的に根本的に基底的にはそんなところじゃない。そこで体験するものを体験することが、自分の側にないなんてどっかヘンテコ。システムがどのように機能していても、そこでの体験も、手を動かすことも、漁をすることも、生きようとすることも、基本的には自分の側にあると思う。
この辺は複雑で、近代の工業化とか、意識の問題とか、経済のナンタラとかいっぱいあるんだろうけど、でもそんな複雑なことをゴタゴタやるまでもなく、基本的には起きることの当事者でいないならどうしようもないと思う。
就活での機会の与えられ方が、どう転んでも不均等であるとは思うけど、とりあえず俺は機会を得たので、パシッとやろうと思ってるよ。もう話は、システムをどう上手く誤魔化しながら転がすかじゃなくって、どうやってここを、当事者として体験したり感じたり変えたり変わったりするか、ってのになってると思う。
それは個人レベルだけじゃなく、たぶんもっとずっと広いレベルで。でもそれを「全体がこうだから個人もこう」って話すならやっぱりちょっと捉え方が違うと思うけれど。とにかくできることをやること。できることからやることが大事、だと俺は思う。
そんなことを思ったよ。低調だけどwでもいちおう元気です☆
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そういえば働き始めが近いから、はじめの気持ち(?)みたいなものを。
とりあえずはじめは「金をみるな、魚をみろ」って感じでいこうと思ってます(゜ー゜☆)
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