2009年1月27日火曜日

排水路2

とにかく、言葉があまりにも身体とかけはなれてしまったんだろう。

何かの名前と、何かが結びついてるのは、記号的なものではなく、身体がそこを緊張させているからだ。緩めないで、弛緩させないでるから、ずっと緊張させて結び付けているから、何かの名前と、何かが結びついているように振舞うんだろう。

弛緩したときの身体からでるものと、その緊張のへだたりが、身体と言葉とのへだたりなんだろう。だってその言葉をつなぐ緊張、がいつもいつも選び取られるなんて、多くの場合はとても不自然だもの。その言葉が、そう選び取られるように、そう発せられるように、結びつくのなら、それはそのときはじめて選び取られたものとして選び取られるんだと思う。

鳥の求愛ダンスが、求愛してるときに選び取られる踊りであるように。求愛していないのに踊られる求愛ダンスが、求愛ダンスではないように、それを選び取るように選び取られていない言葉は、身体から生じたものではない。

身体は弛緩するし、壊れるし、夢もみるし、緊張もする。いろんなことになる。それをずっと緊張したとこにつなぎとめておくのは、どこか間違っている。そこには強制された緊張が先行してる。

記号的価値、貨幣的価値が、そういう強制された緊張が先行したとこの価値なら、そこには身体にとっての価値は、身体が緊張する程度にしかないんじゃないかと思う。そこには弛緩したり、壊れたり、夢をみたり、ねじれたり、重くなったり、ふわふわしたり、気持ち悪くなったりする身体にとっての価値がないんじゃないのか。

それは経済なのだろうか。通貨なのだろうか。緊張する身体にとってだけの経済では、そうではない身体が見過ごされていたり、殺されていたりすると思う。そういう緊張した身体にとってだけの経済より、もっといろんな身体とつながったいろんなものがあるよ。

+++

俺が遊び場を自分で得るんだ、といってるのも、こういうことと関係あるんだろう。

システムに庇護されて、システムがくれたベッド、靴、服、とかに合わせて、ベッドから足がはみ出ながら、靴でつま先が変形しながら、服で肩が凝り続けながら、それでもそこに合わせてしまった身体は悲しいと思う。

システムがいいだした「物語」のピースになって、それを全うしたときに生きるのはシステムであって(あるいは何も生きずに)、身体ではないと思う。そして生きられなかった身体は不幸だと思う。

システムからは逃れられないんだ。システムの庇護がないと生きていけないんだ。自分ではなくシステムこそがいいんだ。そういうことを「閉じたドア」にして、システムに守られて/閉じ込められて、あるいは閉じ込められることを自分から選んで、一生をシステムという(自分で「閉じたドア」をつけた)部屋のなかで過ごす身体は残酷だと思う。

そういうんじゃないと思ってる。少なくともそれだけじゃないと思ってる。だから俺はこれまでシステムに取り込まれないよう緊張して、警戒したり分析したり試行錯誤したり変わったりしてきた。

でもとっても疲れました。がんばったよ。「疲れた」っていってやすみはじめても、システムにほいほい取り込まれないとこまでこれたし。だから休みます。自分で遊び場にいくためにやることがまだあるけど、休んでまた遊びたい。いっぱいいろんなことしたい

+++

【以前のmemo】

生きた世界と不必要に隔絶した身体じゃ、たぶんパシッとは遊べない

「主人」の設定とそれへの隷属が、実体のない分業の正体なのだと思う

与えられた場で遊ぶ、というのは、どこかでシステム的外部が基準になっている感じがする。まだここのとこよく分からないけど

結んで開いて手を打って結んで、とあるけど、何かを結んだり開いたりするより、自分が結ばれたり開かれたりするものでいる方がいい

0 件のコメント: