どうもポジティブなのが好きなひとがいるらしい。彼らはポジティブな身体が好きだ。そしてネガティブな身体を否定する。だけど俺にとっては悲しいこと、たのしいこと、ポジティブなこと、怒ること、ネガティブなこと、うつろなこと、そういうことがちゃんとおきることがポジティブなことであって、1つに拘束された身体はポジティブではなく「ポジティブさの幻想」に押し潰されて、それが望むように変わることを妨げられているのだと思う。
ポジティブさをどんな言葉に置換しても、ある何かをよきものとして、そこに身体を引きつないでしまうのは、どっか奇妙な感じがする。特にそれが、不必要そうに思える場合は。それは麻痺や横暴や逃避というかたちであらわれるのかもしれないけど、そのどれも俺には奇妙に感じる。
ポジティブなだけ、という意味ではないポジティブさに向かう積極性を欠いて、その行為を慰めてくれる「構ってくれる相手」が欲しいだけじゃないか、と。弱さは構わない。というか弱いありようだってある。だけどその弱さに向き合わないのは、「弱さ」ではなく、「向き合うことの先送り」という偽りではないかと感じる。
腹が立つことも沈むことも悲しいこともあるだろう。だけどそれを否定するのは、身体の否定だと思う。そしてそのように否定された身体は、うれしくなったり夢をみたりわくわくしたりすることも、同時にどこかで否定された身体になるんじゃないかと思う。大事なことは、弱さも愚かさも醜さもコミで、自分の身体をあることにすることだと思ってる。そういうとこからはじめるのがいい。いつだってそれがいい。(何かのせいにして、ある身体を無いことにしたり先送りしたり殺したりするのではなくて)
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