2009年1月29日木曜日

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自分が変わらないと思ってる人は、自分の行為がつねに慣例のうちにあると思ってる人だ。だけど慣例を設定しているのは当の本人で、その設定を解除すれば「慣例のうち(うち側?)」もなくなると思う。

しかし結局そういう奴の多くは慣例のうちに自分がとどまるものであることを望んでる。彼らは慣例に構ってもらって、庇護してもらうのが好きで、自分でその外をみようとはしない。

彼らは変わらない。外との遭遇のなかに、ものが変わることがあるのに、それを慣例への盲信という蓋で塞いでるから。彼らには慣例への期待だけがあって、自分の期待も自分のリアリティも希薄な感じがする。

そこにあるのは慣例ではなく、慣例への期待なのだと思う。誰かがいってた神や国境や規範や常識が、今でもあるんじゃないか、という期待。だからホントは、そこに期待することは、慣例への期待に期待しているということだ。

それはユートピア信仰なのだと思う。そしてユートピア信仰の本質は「ずっとスネをかじっていたい願望」なんだと思う。

「○○だから××するんだよ」という言葉のうちにあるのが、「○○」というものが十全に成り立つ世界の願望と、それが起こるか起こらないかわからない世界からの逃避であるように、彼らは「自分が判断しなくても○○が成り立つ世界」や、「自分が判断しなくても○○が成り立つ世界を構築してくれる誰か」のスネをずっとかじり続けたがってるのだと思う。

だけどスネをかじれるのは、スネをかじらせる誰かがいるからだ。だけどスネをかじってする味は「スネの味」だけだ。他の味が知りたいなら、まずスネをかじるのをやめて、自分でつくるとこからだと思う。

【追記】
そして、それが成り立つための「受け入れ皿」としてのシステムというのは、全然アリな気がする。でもそれは、ずっとい続けるところじゃない感じがする。よくわからないけど、それも少しづつ変わったり変えたりしてくというか

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