奴隷をつかって確保された遊び場なんて遊び場じゃない。
貴族の遊び(*)は、生活と隔絶した身体の遊びだと思う。
だけどその隔絶してる部分は、問題なく隔絶してるんじゃなく、奴隷に丸投げされてるだけだ。つまり奴隷がその貴族と生活との隔絶をつなぐ役割になっている。貴族にとって。
それは奴隷に隷属した、あるいは奴隷から搾取しているようで奴隷に搾取された身体のあり方だと思う。
奴隷が「(遊び場を)くれないと」、遊べない身体。誰かが「(場所や何かを)くれないと」遊べない身体。そんなものはクソくらえだ。
遊び場は、どこかの権威/奴隷/システムからもらうものではなく、基本的に作るもの、得るもの、ひらくものだと思う。
*:例えば、労働はバルバロイにまかせて、自分たちは哲学だかなんだかやってたギリシャ人は、奴隷が与えてくれた「場所」で生きたわけだ。他にもあるけど、例えば働くだけ働いて「余暇」で遊ぶというのは、「働いた自分」が与えてくれた「場所」で遊ぶってことだ。だけどそれは、生活とか労働とかと隔絶しないと遊べない、って話じゃんと思う。でもそれってちがくないか
生活とか労働と隔絶した遊び、という点で、俺は「(「親」に庇護されたなかだから遊べる)子ども時代」というのも好きじゃない。「奴隷」「働いた自分」「親」「システム」、そんなのに庇護を受けないと遊べないような気持ちで、ここでパシッと遊べるとかいうなんてどうなの、と思ってしまう
生活も働くのも遊びも、身体と世界との隔絶のなさのなかで生じてる、と思う。逆、つまり遊ぶから世界と隔絶がないとかじゃなくて。
働く身体と遊ぶ身体を「分業」みたいにわけてしまうことは、身体と世界との隔絶のなさを遠ざけてしまうことだと思う。
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