2009年2月20日金曜日

@東京

東京にきました。暖かかった。上野をみて思ったことです

とても当たり前なのに、子どもの頃は分からなかったことがある。それはネオン街とか、ハンバーガー屋とか、道路とか、電車とかは、勝手に用意されたわけではなく、どこかの誰かがどっかから材料をもってきてつくったってことだ。

つまり俺にとって就職とは、その材料収集→加工→流通のプロセスを、自分でできるということです。ネオン街もハンバーガー屋も道路も電車も、俺が手をだして作っていけるものになる。

それは多分ずっと当たり前だったのだろうけど、長い間俺にはそれが分からなかった。いろんないい方ができるけど、それがシステムにスポイルされていたということだともいえると思う。あるいは世界と自分が隔絶していて、その間に誰のものともつかなく見えてるシステムがある、ように見えていたのだとも思う。

まあとにかくそうじゃないってことです。俺はたぶん単純なので、欲求も単純です。世界と自分とが不必要に隔絶していないこと。そういう場所を直に生きることが今の俺の欲求です。たぶん春には春の、冬には冬のよろこびや悲しみがあるし、それを無いことにするのは間違っているのだと思う。そして同様に、言語を用いてでも何らかのシステムを作動させようとする欲望を否定するのも間違っているのだと思う。

ここら辺のあいだを通行していきます。気分は荒地です。荒地大好き。シビアでたのしいから。そして行為が自分のものだから(orシステムのものではないから)。荒地はなにかの神秘ど真ん中です。生きることも死ぬこともSEXも産まれることも食うことも養分になることも排泄することも病むことも醜いこともつまらないことも美しいこともここで起こる。行くぜ。欲求がそうあるなら街はつくりかえられる、と思ってる。少なくともそれがシステムのものでない程度に。そしてその「程度」はすげえあると思ってる

チョコレート

昨日東京にいった。立石というところを歩いてきた。マンションやアパートがあって、それはパイプラインから外れているようにみえた。マンションはむかしの団地みたいな雰囲気がした。誰のものでもないシステムが稼動していて、みんなそれが回ってるのをみてたり、巻き込まれているようにみえた(てか都市のマンションて、どこも顔が無いのにプライベートだけあるみたいで、胡散臭くてちょっと怖い。そしてわくわくもするのだけどw)。

コンビニがあったので、チョコレートを買った。チョコレートの裏にはバーコードがあって、レジの店員さんがピッと処理していた。ああ、つまりそういうことなのだと思った。

ここにコンビニがあって、チョコがあるということは、どこかでカカオを生産してる人がいる。それを運搬する人がいて、加工する人がいて、卸す人がいて、売る人がいて、それを俺が食ったわけだ。なーんだ、って感じ。

どれだけ貨幣やシステムが回って、いろんなものが見えなくなってるような気がしても、そこにはものが生えたり生まれたりして、それを育てたり殺したりする人がいて、そこから俺の口にチョコレートがつながってる。俺が食ったのだから。

誰のものでもないシステムは、実際は誰のものでもないように見えているシステムってだけであって、それは誰かたちが作っているのだ(それがいい/わるい、ということじゃなく)。

それは一種の共同体意識なのだと思う。つまり共同体を成立させるために、なんらかの行為を儀式に捧げて、それによって共同体の成立を保証する/成立が保障されている、という意識。

それは都市的で拡散してるようにみえても、村落的で濃密なようにみえても、グローバルスタンダードで曖昧で大きいようにみえても、家族的でおだやかで小さいようにみえても、「個人」ではなく、なんらかの共同体に捧げられた意識なわけだ。

そしてその意識を生産/再生産するための機構が、誰のものでもないシステムなんだと思う。そこでは個人の行為はみえにくくなってるかもしれない。でもみえにくくなってるだけで、本当はみえてないわけじゃない。

そして重要なのは、誰のものでもないシステムを稼動するために動いたり、そのなかで上手く立ち回ったりすることではなく、個人としてこの場所をホントに遊ぶことだと思う。

俺は共同性を仮設することを否定するわけじゃないけど、それが「誰でもないみんな」のためだけになるのなら、何だか奇妙なものだと思うよ。そこに何かを捧げるにしろ、そこはカラッポだ。行き先のない寄付みたいに。

そういうのもある意味おもしろいけどねw「来年のための穀物」ってそういうものだと思うし。そこらへんを色々巻き込みながら、いろいろ動いてる感じがするよ

2009年2月17日火曜日

ケーナ

今日俺は自分の笛の吹き方をみっけました。惰性や甘えでなく、シビアな遊びを遊ぶやり方です。それをしていて、自分がここにいるんだと思った。こういうのははじめてだった。きっとそこには惰性も甘えも、弱さも痛みも欲望も魅力もパイプラインも、他のいろんなものも、別のだれかもはいっていい(orはいってる)んだと思う。きっと変わるように変るでしょう。これも変わるかもですw
とりあえず、色々見落とさないようにしながら、感覚レベルを少しづつ幼いものにしてくつもりです。あ、幼い=年齢がひくい、ということだけではなく。原初的というかなんというか

2009年2月13日金曜日

無題

小難しいいいかたをすればキリがないけど、すごく雑にいってしまうなら、ここにはすごくいっぱいの因習があるように思える。
それはつまり名前のことだ。例えば世界の平和とかいうけど、それが平和という名前のための平和であるなら、そこに自分たちはいないと思う。
平和のための平和とか、争いのための争いとか、○○様のための××とか、そういうものはつまり、名前のための何かであって、自分たちの何かや、自分たちのための何かではないと思う。

俺は笛を吹くけれど(あまりうまくない)、それが上手さのための笛だったり、技巧のための笛だったり、世界観のための笛だったりするのなら、それはつまり名前のための笛なのだと思う。
そんなのはつまらない。名前がどうあろうと、そこに笛があって、真剣に遊び尽くすために身体や息を可動できないのなら、それは生きていて死んでいるような笛だと思う。

因習などに依らず、真剣に遊び尽くすこと。そうしようと思う。今までもそうしようとしてきたけど、いっぱい甘さがあった。甘えはきらいじゃないけど、甘えから生じる因習に拘束されるのは好みじゃない。
甘えとか弱さとか、そういうったどうしようもなさを含めて、色々パシッとやりたい。そのように変えていく

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因習のなかで、色々ないことにしながらでもたのしむより、俺は因習などぶち壊してみえるものをみたい。そしてどれだけシビアでもハードでも、それはできると思っている。必要な因習もあるかもしれないけど、それが必要かどうか自分の手で確かめずに、ただ従って因習のなかで飼われているのは、俺にとっては何も世界を体験できずにいる過ごし方だ