とある授業でレポートかいたのです。
なんだかすっきりかけた気がしたので、思わずその原案の一部をのっけてみます。
ブログでそんなことやっていいのか?と思わなくもないですが(--;)
レポートの内容は、ラングストン・ヒューズという腐れた黒人作家の自伝についてなんでもいいからかくというものでしたが、なんだか相当授業内容(アメリカ文学講読)からずれてるようにも・・・
(1)
課題は「ヒューズの自伝について」ということでしたが、まずはじめに、ヒューズの立ち位置に関するぼくの意見と、その理由を述べます。
諸作品のなかから感じられたヒューズの立ち位置は、とても嫌らしいものだと感じられます。というのも、彼は主に二項対立の図式を取り上げ、それを軽蔑しながら、しかしその図式に対する自らの立ち位置としては、その図式を外からながめている、というものを取り続けたように感じられたからです。
実際のところ、二項対立というのはあまりにも表面的な結果であって、その根底には、二項対立を産出するコンクリフトがあるように思われます。
その「(結果的に)二項対立を産出するコンクリフト」が産出される過程こそが、ヒューズが解放することを求めながら、しかし自らに対してずっと隠蔽し続けたもの、あるいは場所のように思われます。
ここで、ぼくが「二項対立が産出されるコンクリフト、が産出される過程」というのは、直裁にいえば、生が生かされてしまい、また生きようとする衝動のように感じられます。
授業のなかで話した「ヤマアラシのディレンマ」ではないですが、「生きたい」「あたたまりたい」「寒い」といった欲望や衝動こそが、まず根底にあり、その「生きたい」という衝動が、さまざまな関係の図式のなかに巻き込まれていくなかで、その衝動が十全に生きられずに、ゆがみ、変形していくことがあるように思われます。
というのも、そこにあるのは、衝動がもつ「関係への関係」だからです。関係に対して関係をもつことは、衝動にとって、自らの変形をもたらすものだと思われます。
しかしまた、衝動は「関係への関係」なしではいられないようなものだと思われます。
ゆえに、関係への関係においてコンクリフトが産出されるのは必然的なものとなります。
そして、そのコンクリフトからの圧力に耐えられなくなったものが、その圧力を逃す安全弁を作る、つまり、はけ口としての差別の対象を求め、そこにいわゆる抑圧が生じるように思われます。
ヒューズは、この抑圧を否定したように感じられます。しかしそれは同時に、「結果として抑圧を産出するコンクリフト」を、また「結果としてコンクリフトを産出する、生かされてしまった衝動」の隠蔽のように思われるのです。
ヒューズが求めていたものは、実際のところ、「生かされてしまった衝動」を解放することだったように感じられますが、しかしその衝動が産出するコンクリフト、ひいては抑圧の図式を否定し、そこから逃避した彼は、彼が解放を望んだ衝動からも逃避したことになると思われます。
この点に、ヒューズの矛盾があります。つまり彼は、自らが否定し、逃避した当のものを望む、という奇妙な図式に立っていると考えられます。
この矛盾に対し、しかしヒューズはそれを隠蔽し続けます。隠蔽し続けながら、「衝動が解放される世界」を望み、それを求めてwonderする、ということを行っています。
つまり彼は、コンクリフトから逃避する=第三者的な立場をとりながら、しかし「衝動の解放=旨いもの」は欲しがるという、非常に汚いやり口をとり、また(自伝のラストにあったように)その解を「まだ見ぬ未来」というマジックワードに、「虚無感とともに託し」ていると思われます。
これは、いまコンクリフトを産出しだす「生かされてしまった衝動」への逃避であり否定であり、また同時に問題の所在のすり替えであると考えられます。
このことから、ぼくは、彼の立ち位置は、非常に嫌らしいものであると感じます。
(2)
ここでは、自伝のラスト近くにあった「有色人種が有色人種を差別する」という、一項対立の図式を、ぼくなりに読解しようと思います。これは、ヒューズが読みそこなった、とぼくが考えるものに対する読解です。
一項対立の図式では、それまで二項として分断されていたものが、その「分断していた柵」を取り外されて、同一のレベルに放り出され、コンクリフトと、その結果としての差別と抑圧を産出しています。
(1)でも述べたように、「差別と抑圧」というのは、コンクリフトの圧力を逃す安全弁だと思われます。
そのコンクリフトの下には、生かされてしまったものや衝動、あるいは生きものの熱といったものがあり、またそれらが関係をもたざるを得ない構造があると思われます。
関係を持たざるを得ない、というのは、例えば食物を摂取しなければ生きられない、というように、その衝動が他との関係において自己の外殻を維持するものだからです。
これは、食物の摂取という生理的なフェーズだけでなく、会話のやりとりや、行為といったフェーズまで及ぶ事のように思われます。
そこでは、衝動の外殻は、衝動を守るものでありながら、やはり衝動と同じ材料でできているもの、つまり衝動のうち外部の暴力に晒されるものであり、また同時に外部へのチャンネルであると思われます。
しかし、この外殻と内部の境界は明確なものではなく、「衝動」という名前の「生かされてしまったもの」は、混淆した境界線を自らのうちにもつものとなります。
また「外殻」が、「外部の暴力に晒される」ものであり、かつ外殻と内部との境界線が不明瞭に混淆している以上、暴力は「わかりやすい外殻=ものの外側」で留まるものではなく、「生かされてしまった衝動」のうちに入り込み、それを浸食していくものであるように思われます。
ここに、コンクリフトの定義しがたさがあります。それはA対Bのコンクリフト、という明確な対立ではなく、「Aに入り込むB」とAの関係 対 「Bに入り込むA」とBの関係、という図式をとるからです。
またAもBも、それ単独では自らの外殻を維持できるものではなく、「相互に浸食される関係」のうちに、自らの「生かされてしまった衝動」を浸食されつつ維持し、また広げようとするように思われます。
これは、ある種の暴力的な関係、あるいは病んだ関係といえると思います。
しかし、この暴力は、関係性において本質的なもののように思われます。
この暴力を否定し、隠蔽する形式は多々あると思われますが、その1つとして「差別と抑圧、の安全弁を作る」というものがあり、また別の1つとして「マジックワードをもってくる」ということがあると考えられます。
しかしそれらはどちらも、自らが維持しようと望むものからの逃避であり、隠蔽だと考えられます。
いってみれば、「生かされてしまった」というのはある種の暴力であり、それを受けて機能しようとする衝動が、隠蔽されることなく機能することを望むならば、(そこにゆがみも、病も、痛みもあるとはいえ、)そこから派生した暴力で関係が覆われることを受け入れなければならないところがあるのではないでしょうか。
そこでなお、「自己/他者」などといった二分法の逃避的な安全弁=二分法の暴力装置をこえて、コンクリフトの暴力を通過しようとするものの力こそ、重要なものに思われます。
それもまた、暴力の形式をとるものかもしれませんが、その暴力が関係を覆うときに機能する衝動の姿は、さまざまなゆがみの結果として求められた、生きようとするものの姿であるようにも思われます。
そのゆがみのなかをなお通過できるものを、(根底的な暴力を受け入れ、そこに巻き込まれた上で、)関係において、あるいは関係への関係において通過させ、機能させることが、ここで重要なこと(あるいは「意味」という言葉や概念を欠いたレベルで、意味のあるようなこと)だと思われます。
・・・
最後の部分は、ホントは自分でもよくわかってないのです。
もうちょっと考えようかな・・・
+++
追記
レポートはホントは(3)まであったのですが、(3)にかいたのは、自分の思いたいことの、単に今の時点での「きれいなまとめ」的になってしまったかな、と思うのでかかなくてもいいかな、と思ってました。
自分はたぶんもっといろんなことを断片的に思ったり考えたりしてるので、それを欠いた「まとめ」はどうかな、と思ったのです。
ただ、(1)(2)だけで終わるのも、投げ出し気味かな・・・、と思ったので、(3)ものっけてみますね。
・・・
(3)
ここでは、(1)、(2)をうけて、ヒューズ本人と、ヒューズの自伝について触れようと思います。
彼の半生においても、また自伝においても、ヒューズはwonderし続けますが、これは、問題の所在を隠蔽し、そして他の場所に問題を投影した彼が選択できた方法の1つだったと思われます。
結局のところ、彼にとっての問題とは、彼の孤独だったのではないでしょうか。その孤独=自分の居場所がない=自分の生きられる場所がない、というのは、自らで自らの生きようとするものの場所を隠蔽した結果の孤独だったように思えます。
しかし彼は、その問題を「黒人/白人」あるいは「共産主義/ファシズム」といった問題に投影し、自らの立ち位置を「二項対立の図式のなかで、より居場所のないもの」としながらも、あくまで第三者的なポジションに留まりながら、その問題における解をwonderし続けたように思えます。
また、自伝のラストの方で、ヒューズは問題の所在が「二項」だけではなく、「一項」のうちにも起こりえることを記述しながらも、結局は「日本はファシズムだ」、「アメリカは民主主義」でいいところだ、として、その問題から逃れています。
しかし、「アメリカはいいところだ」とかいたのと同じ章に、FBIを登場させ、「世界のどこにもぼくの居場所はない」ように文を綴ったヒューズは、暗黙のうちに、あるいは無自覚的に、自らがたてた問いの立ち位置が奇妙であったことに気付いているようにも感じられます。
ただやはり、自伝のラストで「ぼくのwonderは終わらない」とかいたことは、彼が最終的には、問題の立ち位置の奇妙さを読み取れずにいたように思われます。
その奇妙さを感じながらも、それがなにに起因するかを読み取れなかった彼が、彼の諸作品の様々なシーンで、問いを宙ぶらりんのままに投げ出さざるをえなかったのは、ある意味では必然的だったように思います。言い換えれば、他の選択肢が彼にはなかったように思うのです。
宙ぶらりんであることを開き直ることもできなかった彼は、正直だとも感じられますが、しかし作品の様々な箇所にあるように、コンクリフトが起きる現場を、すこし離れた視点から覚めてみていた彼の「気取り」は、彼が自分の生きられる場所の問題や、そこに関する暴力の問題を捉え、そこにいくことのできなかったいちばんの要因のようにも思えます(言い換えれば、彼は最後まで、彼自身からくる「想像」をできなかったと思うのです。)
その暴力の問題こそが、つまりヒューズが隠蔽し逃避し続けた、当の暴力がうごく場所こそが、ヒューズが生きることや想像することを試みられた場所のようにも感じられます。