2008年2月2日土曜日

想像すること2

生態系について、圧力鍋のようだと思ったことがある。
容積には力学的な限界があるのに、溢れようとする圧力はそれ以上のもの。

例えばなにかを食べることは、いまある容積をつくっている関係を壊すことだ。
だけど食べないと寒くて傷くなる。死んだことはないけど、でもからだが内側から衰弱して壊れていく。それが耐えがたくて怖くて、なにかを食べたりする。

関係の圧力鍋のなかは、衝動や振動が絶えなくて、だけどそれは他の衝動を殺して生き延びようとする。

生きようとする衝動がポジティブなら、圧力鍋のなかは、ポジティブなものがいっぱいに詰め込まれすぎて、熱されてる。それは行き場がなくて、他を殺すネガティブなものになる。

それは生理だし、とめようがないようにも思う。それをとめたいと思う気持ちも、生理に根を持つものだろうから。だから、この鍋が導く関係は、生理にとっては呪われているようなものだとも思う。あるいは病のようなものだとも思う。

前に、想像することは構造を消滅させようとしてしまうことだ、みたいなことをかいたけど、違う言い方をするなら、関係を導く構造を破壊することだと思う。「いまある構造」を破壊するのではなく、「いまある関係が導かれる構造」を破壊しようとすること、というか。

それは無目的な破壊でもなく、破壊のための破壊でもなく、生きようとして破壊することになるようなこと。べつに壊すことを推称も賞賛もしないし、壊すこと自体は自分は好きじゃない。ダークを気取る態度とかは軽蔑する(てかそんなものダークでもなんでもないし)。

そういうネガティブさのなかで、それでも動く衝動がある、と感じる。「肯定」して押し固めたいとかじゃなく、俺はその衝動はポジティブなんじゃないかと思う。ネガティブなものと同じ材料でできた、同じくらいネガティブか、時にもっとひどいもの。

圧力の抑圧を、神のかたちに仕立て上げて、それを崇めたり、怯えたり、それに期待するという態度は好きじゃない。既存の構造を、「期待」で味付けして、その構造に痛みをおぼえる衝動を言いくるめようとするような、「エコ」や「アニミズム」はとても嫌いだ。

そういう「エコ」的な期待じゃないとこで、ここの病理とかのなかで、生きようとする衝動がある、あるいは反応してしまう、ということは殺せないんだと思う。それが生きようとするなら構わないんだと思う。こんな言葉は、なにも表さないとも思うけれど。

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