2008年8月18日月曜日

無題

社会的、あるいは非社会的な記号であれ、どれほど積み上げても、ある不安に対して安全を保証したり確証したりするものにはならない(これは一般化できないけど、おそらくそうなんじゃないかと思う)。
そういった記号の積み上げは、誰かの不安に対して、その不安をベースとする論理サーキット(*)の条件を満たすことに付き合っているだけであって、その不安に向き合っているわけではない。
過去のようなものを振り返る、ということだけではなく、あのとき俺はどうすればよかったのか、と思います。


(*)造語です。論理の袋小路の一種類。6を左に90°ひっくり返したようなかたちを想像してます。
そこに入ると、固定されたことにされた圧の惰性でくるくる回り続けるもの。出口(6のアタマみたいなとこ)はあっても塞がってたり。解除(破壊)されることも。


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すこし硬直した位置からの推測になるけど、応えることは、ここにいることを選択することだと思う。だけどその選択を選択するのは、「論理サーキットに付き合う」ような真似じゃなく、あいてや贈与に向き合うところ、いいかえればひとりの場所からじゃないか

以前にもかいたけど、季節が動くのを体験するのも、誰かの気持ちに向き合うのも、そういうひとりの場所、あるいは責任転嫁しない場所からだと思うよ、自分は

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【追記】

いろいろですが、ゆっくりと澱みたいな圧を解除しながら、ものを感じられるレベルを落とし込んでいこうと思います・・・

2008年8月16日土曜日

ability


例えばableでなければ資格がない環境とかで、dis-abilityの烙印を押されるのはつらいよなあと思う。だけどものができるようになるのは、ホントはたのしいと思うし、いまどれだけdisでも、そこからたのしくやっていいと思う。子どもや期待ってそういうものだし(ふざけた話なのは、disが能力ではなく、感情に「先取り的に」つくことだと思う。遊んでる子どもからヒステリックにその行為を簒奪するようなこと。何かの感情が決定的に取り合われないことetc.)。

実際、「ableでなければならない」っていう圧があることで、ダメになってしまうableはいっぱいある。それこそいっぱいいっぱいある。
だけどableでなければならないことなんか、ホントは極々わずかだし、そういったものは「ableでなければならない」というyes/noの決定が意味のない領域のじゃないかと思う。例えば好きな奴を悲しくさせないこと。限定的な関係だけに限った話ではなくて

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この頃なんだか更新のペースが早いのと、ちょっと視野が狭い感じの記事があるのは、俺が自分の冷静さを解除してきてるからです。今まで感情的になり過ぎそうなとこは、できるだけ冷静にいこう/やろう、と思ってたけど、その冷静さ、言い換えれば一種の客観性に疎外されていた部分もあったと思うので、いまはそれを解除しています

卒論のこと

自分が育った環境では、固定された硬直から、俺の話をまったく取り合わない人に囲まれていた。それはとてもひどい場所だった。

卒論では、俺は「硬直ゆえではなく、構造的に『話がきかれない状況』をどうするか」ということを扱おうと思います。言葉遣いはこれとは違うとしても、構造としては同じものになると思う。
だけど多分、固定された硬直というのも、「構造的に『話がきかれない状況』」のなかから生じたものなんじゃないかと思うとこがあります。

だから俺が扱うことは、敷衍すれば固定された硬直まで及ぶことになるかもです。だけどそれでは今の俺には荷が重いので、言い換えればそこまで話が及ぶと俺のスタンスが硬直してしまうとこがあるので、まず上記のことを扱おうと思います。
もしかしたら、固定された硬直まで話が及べるかもしれないけど、今はできるとこからやってこうと思います。

プライドって


untitled #1 (vaka)

プライドってあんまり好きじゃなかった。自分がひどいカタチで持ってたのとかで。でもいまはそうでもないとこもあります。

ホントのプライドって、自分のことを好きでいたい気持ちとか期待だと思う。
それが折れたり潰されたときに、パターン化した「自分は○○な(例えば優秀な)はずだ」っていう、硬直したものがでてくるのだと思う。

(ホントはそういうときは、がんばったのだから休んでいいと思う。休むことが許されずに、硬直せざるを得ない状況は、とてもつらい場所だ。俺がアクセスしようとしているのは、そのつらさがどう向き合われ、どう解除(?)されるか、ということでもある、たぶん)。

自分のことを好きでいたいという期待はあっていいと思うよ。
何かができなくて悲しいのは、硬直したプライドが傷つくからじゃなくて、その底にあるやわらかい期待が傷つくからだと思う。
だけど実際重要なのは、できる/できないじゃなく、少なくともそれだけじゃなく、やわらかい期待が受け入れられることじゃないかと思う。

今の自分には分からないことが多いけど、パターン化された「プライド」を、パターン化した行為で保持したくなるのも分かるけど、でもそれだけじゃないとこを向いていいと思う。

予感、あるいは推測でしかないのだけど、ものが通るラインはある、と思う。でもそれは圧も鬱屈も、そしてときには硬直も含んだラインだと思う。それはパターンで押し切ってしまったらダメになるとこがいっぱいある、きっと。

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そういう意味では、「健全なパターン」を探すより、パターンが破綻してしまうところを見ろよ、と思うこともあります。

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画像が再掲なのは気にしないで・・。keroは持ちネタが少ないのです。あと、この記事にはこれをのっけてみたかったというのがありまして

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【追記】

何かができなくて悲しい、というのは他にも、それができないことで、自分のやわらかいとこからなにかに関与することが硬直してしまうからだと思う。
でも、何かができたとしても、やわらかいところから関与することが硬直してるなら、それってやっぱり悲しいんじゃないか。
いや、できるようになるのは基本的にたのしかったりうれしかったりすると思うけど。

2008年8月12日火曜日

実家にて②

さっきばあさんや母方のおばに会ってきました。
(うちは共働きだったので、小さいころ俺はおばとばあさんに保護されていました。弟も)
その話を弟と二人でしたのだけど、過去のことだけど、やはりおばはせっかちで、結果ばかり欲しがるところがあったな/あると思います。
自分は(あるいは弟も)わりと穏やかなとこがある気質なので、結果を取ることにせっつかれるより、もっと工程をたのしめたらよかったなと思います。そんな時間があったら、きっと違ったと思う。
おばが悪い人だとは思わないけど、だけど彼女からはネガティブな影響ばかり受けたと思う。
過去の(if~という)問題というより感覚の問題で、彼女がいなければ、あるいは近くにいなければ、もっと穏やかにいろんなものに向き合う時間をすごせたように思います(そしていまはそうしたい)。
いいかたは暴力的だが、彼女のことは、自分のなかで抹消していいと思った。

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変な話かもしれないけど、弟と、俺たちはもっと工程に向き合えるはずだから、できるようになろうっていった。そうしよう。彼とはもっと話をしようと思う

実家にて①(数学:弱さとか他)

いま実家にいます。
実家にいったら数学の本があったので、ちょっと読んでみました。
俺は数学が苦手です。生理的にできない、といってもいい。かなりアウト。

数学の本に1つ問題があったから抜粋してみます

△ABCで、各辺をa,b,c、各頂点から対辺に引いた垂線をそれぞれh,k,lとする。
ここで、a,b,cの大小に関係なく、1/h+1/k>1/l(これを★とする)となることを示せ。

これは一般的な解を導けば

・・・消去済。問題の読み方もろに間違えてました(しかもここにかいたのも適当すぎて間違えてた;)。いちばん下にマトモなのかいときます・・・

(解答とかのない本なので、↑は俺がてきとうにかいたのですが)

こういうときに自分が思ってしまうのは、lが無限みたいに長くて、hもほとんど無限みたいに長くて、kがホントにわずかなものでしかない場合、その「無限のような長さ」にあるものに、「三角形の定義や必要条件」を当て嵌めて考えてしまっていいんだろうか、みたいなことです。
あるいは、lもh無限みたいに長くて、kがないに等しいようなものの場合どうするんだろうか、とか。

無限や、ほとんど無限みたいな、想像でしか語れないorそもそも語れる領域を逸脱しているものにまで「定義」みたいな「自分が楽に操作できる範囲」のものを当て嵌めたり、あるいはkがないに等しいようなとき「それは『三角形』じゃなくて『直線』だから」といって、自分の手にひらに納まるものとしてカテゴリ分けするようなことができませんでした。
嫌味とかじゃなく、ホントに情けないことに呑み込めなかった。

(ここで「もうちょっと自分に素直さがあったら呑み込めたのかなあ」とか思うこともあったりなかったりですが、生育環境が「お前は○○でなければならない」みたいな圧迫感と閉塞感の強いとこだったので、それ以上自分でまで「定義とかを使う」ことは耐えがたかったというのが。)

結局、そういうことができないから、以降の論を進められるわけもなく、という感じで、他にも理由はあるのだろうけど、数学はできないのです。
(他の人からは、いや十分できるから、みたいなことを言われることもあるのだけど、基本的な思考?様式が生理的にキツかったというか)

ただ俺の情けなさは置いとくと、そういう風に「語れる領域を逸脱したもの」をサクっと語ってしまうのって場合によってはどうなのかな、と思うとこもあります。

でもそういうのが全否定的に嫌いってわけじゃないです。語れる領域を逸脱したものを語りたいとか、語ってみたいと思って、それをしようとするやわらかい欲求。あるいはそこでどうしても当たってしまう語れなさを語ってしまうある種のアホさ、あるいは疑いのなさってあると思います。
また弱さからくるどうしようもなさと、そのどうしようもなさゆえに必要となってしまう硬直もあると思うし。

(だから俺が自分を情けないと思うのは、そういうある種のアホさや硬直から成り立とうとするものを、自分に硬直があって、過去に受け入れることができなかった、というとこかもです。)

ただ数学とかについて思うのは、そういった方法で語ろうとするときに、その方法がある硬直から選ばれた、ということをいわれるところがあれば、もう少し理解しやすかったかな・・・、と思います。

・・・

数学についてはあまりうれしくない感情もあったりなかったりなので、もしかしたらまたでてくるかもです。ださないかもしんないけどねww

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この話とは飛ぶけど、「平行移動」というのも矛盾を含んだ表現だと思っていたりしました。中3か高1くらいのときだったか。
デカルト座標は基本的に「移動」というありようを(固定を固定することで)排斥して作成されているのに、そこで「グラフが移動して~」はなんだかなあ、と思ってました。排斥したものを、あるようなことにして語るのってどーなの?、と。

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作成中・・・。忘れなければそのうち書いときます

2008年8月11日月曜日

メモ(以前のもの)


体験における無機質さが体験の強度だと思った。
それとは別に新しさや遭遇もある。
ゆっくりした時間や、ある種の素直さ(?)も。

むかしのこと

うたの一件があってから、なんだか妙にむかしのことを思い出します。
具体的なナントカ、というのではなく、自分のことを取り囲んでいた構造みたいなのを。

母方のおばは「keroは優秀じゃないとうちの子じゃないよ」的なことをいっていて、それもつらかったのだけど、もう一つつらかったのは、自分の素直な感情からでた行動が、父親にあたまごなしに否定され、度々ひっぱたかれてきたことでした。

母親は(彼女自身の感情のなかで)うろたえるばかりで、事態に混乱してばかりだったな・・。

俺が理屈っぽく(論理みたいな言葉で話す傾向がでたというか)なったのはおそらく2つか3つ理由があって、感情を話しても取り合ってくれない父親になにかを話すためと、マズイ事態が起きたときには自分で対処できないとまわりに取り込まれるばかりだ、と思ったからかもしれません。

どこに非があったのかはわからないし、俺の素直さの耐久度?がなかったから、事態がつらいものになったのかもしれないけど、でもどうにかできたこともあったんじゃないかな、と思います。
(その「素直さの耐久度」みたいなのがなくて、自分が硬直してしまったことに、俺はいちばん無能感を感じるかもしれません。)

卒論も、過去にはそこまで執着はないけど、これ以上はそういうことが起きるのはいやだ、というとこが3割くらいあってテーマを設定した気もします。他にもあるけど。

ベタベタな言葉だけど、拭いがたい傷は今でもあります。だけどそれでも、できるだけ素直なとこから動きたい、とか思っています

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【追記】

いろいろつらいこともあるけど、でも俺は一緒に生きてみたい奴といっしょに生きたいと思っています。
これは今の俺の立ち位置からいえることではなく、今の立ち位置からすれば推測に過ぎないし、変わるかもしれないけれど、この世界は生きるに値すると思います。きれいな話にまとめるということじゃなく、きっとそうだと推測してます。

2008年8月9日土曜日

うたのこと

今日はなんだか感傷的な日でした。
普段はあまり感傷的にはならないのだけど、今日はめずらしくなってた。
ホントはどっちかというと感傷的になりやすい方だけど、いつもは自分で解除してるので。
ただ今日のはやりづらいものでした。

2つあったんだけど、そのうちの1つを。
もう1つは恥ずかしいのでちょっと・・・。

俺はいまでこそ音痴で通ってますが、じつわ子どものときはうたがすきでうまかったのです。自己評価はシビアな方なので、あんまり過大評価はしてないと思うけど、それでも。

小学生3年生くらいまではうたが好きで、うろ覚えだけどどっかの少年合唱団(聖歌隊?)のテストとか受けさせられてパスしてたりしたのでした。そういう場所は好みじゃなかったから入らなかったけど。
それがいつの間にかきた声変わりの時期に、それまでとでる声の域が変わったのと、それともう1つあって「うたい方がわからなくなった」みたいな感じでした。

それを思い出すことがあって、「なんだか今は不能者みたいだなあ」と思ったのです。昔できたことが、今はできなくて、それは技術やそういうものじゃない変化で、不可逆的なのかも、みたいな。

昔?は可能だった不可逆的な選択って、ダメちんな感傷にいきがちです。
そういうのって嫌いなんだけど、今日はなんだかそこにいてしまった;

不能みたいのを感じることもあって、人前でうたうのは嫌いなのだけど、うたは嫌いじゃないので、それこそ趣味レベルでうたってみようかなー、とちょっと思いました。うたわないかもですが。

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感傷モードを残しつつかいたので、この記事はそのうち消滅するかもしれません・・・

2008年8月5日火曜日

恋愛問題(?)2

別に恋愛に限った話でもないのだろうけど、相手に対してある記号的役割を果たす/果たし続ける、っていうのってどうなのかな、と思います。

例えばどれだけ好意があったとしても、「私は彼/彼女/なにかに対してこのようなものである」と、相手に対する自分の立ち位置をはじめから決定して関係にのぞむっていうのはどうなのかなー、と。

一般的に自立っていうと、「自分の周辺の社会構造が求める記号的役割を果たすことが可能である」みたいなニュアンスが含まれることもあるけど、そういう意味でなく自立できないと、俺はなにかに会いにいくことに躊躇するところがあります。

この場合の自立っていうのは、社会のことは放置するとして、「自分は記号的な役割を果たす/果たせばいい」とかいう前提に固定的に依存しているのではない、というか(やわらかい熱のある、非固定的な依存は嫌いじゃないです)。

恋愛にしろ、友達にしろ、ビジネスにしろ、そういう風にある固定的な前提を相手との関係に持ち込むというのは、相手をちょっとなめてないかな、と思うのです。

自分は、何か大事なものがあって、それとの関係をもちたいなら、相手との関係に固定的に依存していないとこから関与しようとすることができないと、関与する資格がないだろ、と思ったりします。

ものがどう動いて、どう変わって、どう新しくなったり朽ちたりするのか、を自分ひとりで体験できるものじゃないと、相手に合わせる顔がないというか。

別にそんな資格があろうがなかろうが、ものは動くときには動くし、遭遇が起きるときには起きるけど、個人的にはそういうひとりでいるとこにちゃんと立てるとこから色々したいと思う。

あ、ひとりって、「ひとり」を気取るってもんじゃないす。それはひとりじゃないと思う。いろんな関係性へのやわらかい依存があるなかで、それを固定的な前提にせずに、侮らずに、なにをどう体験できるか/しようとできるか、ということだと思います。

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ここのところずっと、ものが新しくなること、何かがシステムを通過することばかり考えたりつかまえようとしてきたけど、ものが変わるのは、そういう通過する/しないとか、yes/noで区切られるデジタルなものだけじゃないんだと思った。

変質には、もっと静かで穏やかでゆっくりしたものもある。コーヒー飲んだりするような時間。

2008年8月4日月曜日

無題

あいての弱さを認めてあげられないのはつらいよなあ、と思う。
別に自分の弱さでもいいんだけど、まあ自分のは自分でどうこうするとして。
あいてが弱いとこも含めて真剣だったりポジティブなとこからやろうとしたものを、「それはダメ」とかいったり、笑い飛ばしたりするのってつらいよなあと思うっす。

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蛇足だけど、そういうことする奴って、それ以前に誰かや何かから、自分の弱さを認めてもらえなかったことがあるような気もしなくもない。具体的というか、個別的には知らないことのが多いけど。
でもそれってあんまりだよなあ・・・

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「DVの連鎖」みたいな言葉があるけど、べつに家庭内に限らず、そういう「あいての出来なさや弱さをバカにすることで、自分の(許されなかった)弱さを隠し続ける」みたいなのはつらいっす。凹みます

弱さが引き起こすどうしようもなさもあるから、「弱くても『いい』」とは言えないとこもあるけど、でも弱さも含めてあいてだったり自分だったりすると思うよ

2008年8月3日日曜日

生態系のこと


Final Fantasy VII Music - Main Theme


sigur ros - untitled #1 (vaka)

少し前にふいっと気温が下がったときがあって、なんだか秋の終わりとか冬みたいな気分になりました。
冬になると聴きたくなる音楽があるのだけど、上の2つもそんな音楽です。

季節が変わる感じってすきだ。子どもの時は秋がすきで、それ以外はそうでもなかったのだけど、いまは冬がすきだし、そうでない季節がきてもだいたいおもしろいなあと思ってます。

話は変わるけど、俺は「自然体」みたいな言葉が嫌いです(言い方によるけど)。季節とかがかわっていくのとかを、第三者的な場所でながめているだけな感じがして。
季節がうごくなかで「自然体」を気取るのって、いろんなことが変質する不自然さや、それを通過したときの広く開けた感触を、自分で受けてない気がする。

季節がうごいて、生態系っていわれるシステムが変質していく。あるいは季節も含めて変質していく。
冬の始まりとかに、起きたらすごく寒くなって、空がすごく青いようなこと。
そういう季節の変質に出会い、それを分かるのは、「自然体」なんていう傍観者的なとこじゃない、(in-divid-ualとかじゃなく)変質も含めた個人、あるいは当事者としての個人のとこでじゃないかな、と感じる。

あと、どっちかというと、in-divideみたいな殻にこもるんじゃなくて、ものに触れることを通過をしてもありうる、あるいは残っている感触とかの方が、個人の実感な気もする。そしてその通過は「ぼくはN回通過した」って数えられるものじゃなく、それを数えられる「固定された基盤」から変わっていってしまうことというか。

そういうことが起きた/起きてるときの、世界の開けた感じとか、その感触はすごくすきです。冬がすきなのはだからかな、あのシビアな感じが。
もののありようがそういったことだけだとは全然思わないけど。

2008年8月2日土曜日

恋愛問題(?)

なんだかからだが休み期にはいって、ほわほわぺよぺよしてるkeroです。
休み期なことと、それと自分がいまどんな感じか(暗中)模索してるとこから、
しばらくヘンテコな記事が続くかもしれません。
そんな感じの1つめの記事・・・

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以前ある人と話をしたのだけど(具体的に「誰」というより、複数の人にいったことのゴタマゼというか)、つきあう/つきあわない、っていうのは、恋愛感情からいうものではないと思う、自分は。

それは恋愛感情で妄想いっぱいになったとこからではなく、「自分はあなたと一緒にいたい」というところからいうものじゃないかな、というのが自分の気持ち。

まあ俺だって恋愛感情をもつことはあります、経験などから判断しても。
だけどそれは往々にして、自分の弱さやダメさを「補って」くれる記号だと相手をみなしてるとこで一人芝居してるだけな気がする。

そういうのを持つな、という話じゃないです。
それぞれの弱さはある、と思うし、そういう弱さをないことにしなくていいと思う。
そこからくる感情も同様に。

だけど誰かの方を向くときは、その弱さからくるものではないとこから向きたいな、と思います。
「弱さを補ってくれるもの」として相手をみる、というのは、自分が欲しい鏡の投影をしているだけであって、相手をみているのでないと思うから。

なにかにアクセスすること、アクセスしようとすることは暴力的なことだと思う。
1つには、自分の弱さも含めたところからくるものを、言い訳せずにそこに晒すことだから。
それがどう受け取られるかはずっと分からないままだと思う。やってみないと。
やるには覚悟が必要だと思う。それは「これをやる」という決定ではなく、自分の弱さを隠そうという固着を壊して踏みだすようなこと。「決定」ではなく、やわらかい「破棄」みたいなもの。

それは「破棄」という強いことばではなく、ホントは自分のやわらかさから動こうとすることだと思うけど。
なんというか、「強い意志」とかからではなく、自分のやわらかさや、対象に惹かれるところから、暴力の領域に踏みだすようなこと。
でもそうやって行った場所の広さや、鮮やかさや、痛さが、ここの、あるいは他者のリアリティの1つの姿な気もする(でももっといろんなこともある気もする・・)。

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俺のいまの一つの課題、てか欲求は、死ぬことです。
だけど独りよがりでつながりを切ったなかで死ぬのではなく、世界とかいろんなものへの憧れとか信じようとしてるとこがあるのと、死ぬこととを両立できないかな、と思っています。
あ、「死ぬ」ってある程度は比喩みたいなものだけど。
生理学的な生命活動の停止、ではない。と思う・・・