想像することって、構造を消滅させることなんだ、と思った。
ここはいっぱい病んでいて、「正しさ」で測れるものはなくて、
その病みは、ものが生きてることの昏い構造からきているように感じる。
構造、っていっても、その単位やなにかを記号化できるものでもないし、
それを記号化する網の目のために記号がある、のでもまたないと思うけど。
そういう病のなかで、ものが動くなかに矛盾とか失望とかはいつも消えがたい、のかもしれない。だけどそういう圧迫のなかで、それでもその病のなかにいて、そして動こうとするもの (ここでは「想像」っていってしまうけど)は、その構造を消滅させるように吹こうとするように思った。
ただ構造の深くてもろいところから、それがいる場所や感じられる場所からでてくるのだと思った。悪意でも敵意でもなく、それもまた病みたいに流れてでて、構造を汚染したり感染したりするのだろう、とか。
きっとそれで構わないと思った。「肯定の物語」ということではなくてそう思う。
想像することは、物語や構造におもねるものではなく、それが動くように動こうとするものだし、構造は消滅させられなければ想像をはばむもののようにも思う。
自分勝手に、とかじゃなくて、構造の痛みとか手触りとか、あるいは自重(←じじゅう。「じちょう」ではないです)とか、そういうとこから、想像することはくるんだと思う。 くどいようだけど、なにかの病みたいに。
そんなことを思った。
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