2008年9月20日土曜日

追記的無題(名前について)

えーと、前の記事に書いた「誰かオレを幸せにしてくれー」についてきかれたので、それについてのことです。
あれは徹夜明けのアタマで壊れてかいたので、実質のことではなく、およそ冗談みたいなものです。

ところで果たして俺は幸せなんでしょうか、よくわかりません。
ただ、その基準ではおそらくものを考えていないです。
そのように感じることもあるし、うれしいことも、苛立つようなことも、傷つくようなこともあるけど、幸せ/幸せじゃない、と考えると、「幸せ」という「きれいなハコ」のなかにいろんなことを閉じ込めてしまうようなので。

印象ですが、ものはみな仮のものだと感じます。もちろん痛みや感覚、いろんな感情はあるし、それが空虚なものだというのではないです。実体的なんだと思う。
そうではなく、例えばAがBにとってAで、BがAにとってBだというのは、仮のことだという話です。
何か絶対的な基準点があり、それに基づく記号系のなかで、AはAであり、BはBであるから、『AがBにとってAで、BがAにとってBだ』というのではないのだと感じます。

雨のなかで見てそう思ったのだけど、例えば傘は、それが壊れるまで傘です。それをさす人にとって、それが壊れるまで「傘」です。「傘」という名前をもち、機能する針金やビニールなどの「部分の寄せ集まり」です。
それは、なにか絶対的な基準点があるから「傘」なのではなく、さす人が「自分が求める機能にとって信頼に足る」ものだからその人にとって「傘」になってるんだと思う。
それは『傘』という「部分の寄せ集まり」に先行する『絶対的概念』があるから「傘」なのではなく、さす人の求めるものに応える限りにおいて「傘」なのだと思います。

だけど傘は壊れることもある。つよい風に吹かれても、車にひき潰されても壊れます。振り回しててもときどき壊れるけど。
「そしたらそれはもう傘じゃないのか?」
これに答えるのは難しいです。というより、それは使用者がその「壊れてしまった部分の寄せ集まり」に対して投影する信頼の程度によって、壊れてしまったものか、「傘」なのか、決まるのだと思います。

そして信頼を投影するには、投影するものにとってある種の意志が問われるのだと思います(強い言葉ですが)。つまり「絶対的な基準点が『ある』わけじゃないし、その点を基準にした完結した記号系が「ある」わけでもない」「しかし、俺はこれを「傘」と呼び、そのように使う/使わせてもらう」みたいな意志が。
(そこで「絶対的な(場合によっては相対的な、でも)基準点」を設置した、「だから」おまえは○○なのだ、というのは実質空っぽなものを先行的にあることにして、空っぽを基準に相手を示す行為だと思う。「基準が空っぽな分」を勝手に相手に押し付けて相手を示すようなインチキ行為。)

「(壊れてしまうかどうかわからない)部分の寄せ集まり」が使用者にとって「傘」であり、AがBにとって「A」であり、BがAにとって「B」である、というのは、「信頼を投影する/投影させてもらう」という意志が問われることだと思います。(意志をもた「ねば」ならない、というどこかに規範系を作ることではなく。正直、弱さも逃げもあるし、それがズサンさを生じさせてしまうとはいえ、それはありなんだと思う。てきとうと言えばてきとうと言うかも。)

実体はあると思う、「部分の寄せ集まり」には。それは痛みを感じ、好意をもたらし、残酷なこともうれしいこともあります、少なくとも俺にとっては。
だけどそれが「名前として」も「実体」であり、出来事はみな「きれいなハコ」のなかで起きている、というのではない、と感じます。
部分の寄せ集まりになにかを読み取り、それを信頼のようなものとして投影し、それを「相手」とする/させてもらう、のは、当人の意志の問題だと思う。それは(こう呼べばこう応えてもらえる、ということが)保証されているわけでも、安全安心なわけでもなく。

幸せかどうか、という基準では、たぶん俺はものを考えません。「自分は(例えば○○がいて)幸せだ」といったとたんに、相手も自分も、意志を欠いた「きれいなハコ」のなかに閉じ込めてしまうようで。(そしてそれは相手を、実質的に貶めてしまうようなものだと思います。そんななかで麻痺した安心に入り、それを侵犯するものは無判断に「汚いもののハコ」に横暴に押し込むつもりは俺にはないです。)

そんなハコのなかで、意志を欠いた「名前」をただただ捲っていることより、俺は、暴力からトンズラせずに、それでも会いたい相手にちゃんと毎回会いにいくことがしたいです。起きることが起きるとこで、気持ちから相手の名前を呼びかけるのならちゃんとしたい。いろいろ変わっていくのかもしれないけど、いまはそう思っています。

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