例えばどれだけ好意があったとしても、「私は彼/彼女/なにかに対してこのようなものである」と、相手に対する自分の立ち位置をはじめから決定して関係にのぞむっていうのはどうなのかなー、と。
一般的に自立っていうと、「自分の周辺の社会構造が求める記号的役割を果たすことが可能である」みたいなニュアンスが含まれることもあるけど、そういう意味でなく自立できないと、俺はなにかに会いにいくことに躊躇するところがあります。
この場合の自立っていうのは、社会のことは放置するとして、「自分は記号的な役割を果たす/果たせばいい」とかいう前提に固定的に依存しているのではない、というか(やわらかい熱のある、非固定的な依存は嫌いじゃないです)。
恋愛にしろ、友達にしろ、ビジネスにしろ、そういう風にある固定的な前提を相手との関係に持ち込むというのは、相手をちょっとなめてないかな、と思うのです。
自分は、何か大事なものがあって、それとの関係をもちたいなら、相手との関係に固定的に依存していないとこから関与しようとすることができないと、関与する資格がないだろ、と思ったりします。
ものがどう動いて、どう変わって、どう新しくなったり朽ちたりするのか、を自分ひとりで体験できるものじゃないと、相手に合わせる顔がないというか。
別にそんな資格があろうがなかろうが、ものは動くときには動くし、遭遇が起きるときには起きるけど、個人的にはそういうひとりでいるとこにちゃんと立てるとこから色々したいと思う。
あ、ひとりって、「ひとり」を気取るってもんじゃないす。それはひとりじゃないと思う。いろんな関係性へのやわらかい依存があるなかで、それを固定的な前提にせずに、侮らずに、なにをどう体験できるか/しようとできるか、ということだと思います。
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ここのところずっと、ものが新しくなること、何かがシステムを通過することばかり考えたりつかまえようとしてきたけど、ものが変わるのは、そういう通過する/しないとか、yes/noで区切られるデジタルなものだけじゃないんだと思った。
変質には、もっと静かで穏やかでゆっくりしたものもある。コーヒー飲んだりするような時間。
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